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zoom RSS ジョージ・M・フレドリクソン『人種主義の歴史』(みすず書房)

<<   作成日時 : 2014/06/12 09:38   >>

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人種差別は誰もが悪いことだと言う。

しかし人種差別はなかなかなくならない。

なぜだろうか?

あらゆる差別は偏見によって合理化されるからである。

憲法修正条項でアフリカ系アメリカ人は平等な市民とされていたにもかかわらず、米国南部では人種隔離法が可決され、黒人の投票権が制限されることで、アフリカ系アメリカ人は下層階級の地位に従属させられた。極端な人種主義のプロパガンダでは、黒人男性は性欲のままに白人女性を欲して略奪する野獣として表象され、リンチが合理化された。……20世紀の前半までには、犠牲者は単に殺されるのではなく、死ぬまで拷問されることが多くなった。(1−2頁)


ここにレイシズムの特徴を見ることができる。

黒人男性は「性欲に溢れた野獣」としてイメージされる。

だから「同じ人間」ではないというわけだ。

ところがこのレイシズムは近年変貌を遂げている。

かつてのレイシズムは、
人種・民族を身体的特徴によって生物学的に分類し、序列化し、
差別を正当化するものだった。

けれども現在のレイシズムは、「文化」のかたちをとる。

文化の異なる人びとに対する差別を正当化するものである。

その際の「文化」は「国民国家」と素朴に同一視される。

ではこうした変化はいつごろからはじまったのだろうか?

……1948年にアパルトヘイトが始められ……アフリカ人だけでなく、異なる「民族(ピープルズ)集団」間のあらゆる婚姻と性的関係を禁止する法律が可決され、人種的に混交する人々(「有色人(カラード)」)も分離された地区へ居住しなければならなくなったが、この法律は他の人種主義的政治体制の特徴と同じく、「人種的純粋性」への執着を意味していた。
 しかしながら、ホロコーストの結果によって世界を覆っていた風潮から、アパルトヘイトを擁護するのに生物学的人種主義を直截用いることを避け、主要な差異を身体ではなく文化に根拠づけて「別々の発展」を言い募る者が出現した。(3頁)


なるほど、南アのアパルトヘイトがその起源だったのだ。

 民族文化と見なされるほかない差異が生来的で、消え去らず、不変的だと考えられるときにこそ、人種主義的な態度やイデオロギーが存在するのだといえる。(5頁)


筆者によれば、この文化的レイシズムは日本にもある。

同じ血統を持つ人間だけが自らの文化を本当に理解し、評価できるという日本人の伝統的な信念が、日本生まれの朝鮮人に対する差別を生んだことはその例かもしれない。(11頁)


まさにそのとおりである。

現在の日本人の大半は、まぎれもなくレイシストなのである。

本書は、文化的レイシズムだけを扱っているのではない。

そもそも人種主義がいつ生まれたのかについても書かれている。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


現代では誰もが「差別はいけない」と言う。

しかし、「あなたがしていることは差別ですよ」と言われると、
「いや、わたしのは差別ではない、区別です」などと、
ワケの分からないことを言う。

差別は必ず正当化される。

差別主義者は必ずみっともない言い訳をする。

合州国南部のリンチを行う群衆は、黒人男性が白人女性をレイプし、あるいはレイプしようとしていると言い立てることで、黒人男性の虐殺を正当化した。殺戮や虐殺を容認する人種主義が出現する場合、つねにその中核を成すのは人間以下だとされた人種による性的な汚染や暴力に対する恐怖だと言っていい。(120頁)


いま日本人レイシストたちが、
「在日外国人が日本でレイプ事件を起こしている」と、
必死にデマを広めているのもそのためである。

従軍慰安婦問題を日本人にとって直視したくない理由も同じだ。

日本人こそがレイプ犯であったことを認めたくないからである。

だからこそ元慰安婦の女性たちをあらゆる言葉で侮辱するのだ。

ナチスが行ったことは、擁護しようのないものだったので、その後のネオ・ナチも、ホロコーストを正当化するよりは、その出来事自体を否定しようとしたのだった。(130頁)


いわゆる「ホロコーストのウソ」というやつである。

いま日本人も従軍慰安婦制度や南京事件を「ウソ」だと言っている。

強制連行も「ウソ」だと言っている。

つまり日本人はネオ・ナチにほかならない。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


上にも述べたとおり、近年のレイシズムは「文化」のかたちをとる。

初期のアパルトヘイトの提唱者たちは民族(フェルキッシュ)ナショナリズムと生物学的人種主義を統合するナチの例に倣っていたが、1950年代から1970年代の国際的な批判に対してアパルトヘイトを擁護するときには、生物学的な議論は引っ込められ、歴史家のソール・デュボウが適切にも「文化本質主義」と説明するものが選ばれた。
 その基本的な考えはヘルダーに直接由来するもので、各民族(フォルク)は独自にして価値ある文化を発展させるようプログラムされており、その発展のためには他の文化から汚染されることを防がねばならないというものだった。(137頁)


「文化本質主義」、とても重要な概念である。

いま日本でもこれが大流行である。

「◯◯は日本の文化だ」

「日本文化の本質は◯◯だ」


こうした言説が怖ろしいことにメディアでも溢れている。

「捕鯨は日本の伝統文化だ」もその典型例だ。

これこそ現代のレイシズムにほかならないのである。

いや、「文化」と「レイシズム」は別の事柄ではないか?

そう思っているひともいるだろう。

しかしそうではない。

……人種主義の本質はエスニシティの序列化を正当化すること、換言すれば、それは権力の行使を通じて、差異を不平等で不利なものとすることである。……今まで以上に私が強調したいのは、人種主義は、特徴的な性質が生来的かつ不変であるという信念の存在と表明に基づいているということである。(143頁)


とするならば、文化本質主義もレイシズムである。

合州国、英国、フランスで「新人種主義」と呼ばれるものは、遺伝的な資質よりも文化を実体化して本質化するような、換言すれば文化に人種の役目を負わせるような差異の思考方法である。(145頁)


「◯◯は日本の文化だ」という言説は、
「◯◯は韓国の文化だ」「◯◯は中国文化だ」という言説をも生む。

 ホロコーストがあり、イスラエルが建国されたにもかかわらず、反セム主義である人種主義は今なお存続して被害を生み出すだけの力を持つ。多くの国の人種主義集団は、ユダヤ人の陰謀によって世界は脅威にさらされているというヒトラーのつくり出した神話を信じ続けている。インターネットの世界はこうした暴言に満ちている(合州国では、黒人への憎悪とユダヤ人への憎悪は超人種主義者の頭のなかでは統合される傾向があり、インターネット上では、アフリカ系アメリカ人は白人キリスト教徒のアメリカの破壊を企む悪魔のようにずるがしこいユダヤ人の愚かな使徒として描かれている)。(147頁)


日本にもこの種の「汚物」が溢れている。

嫌韓・嫌中がまさにそれだ。

エリートの一員に加われぬ、安価な大量生産の日用品の消費者でしかない人間であれば誰でも低賃金労働者になりかねない世界で、アイデンティティの獲得に躍起になるとき、人種意識や宗教意識に頼ればもっとも手軽に満足できるような意味の渇望やある種の自尊心が生み出されることになる。(154頁)


エリートも支配層もレイシストなのだから、
この考察はもの足りない。

ただ近年のレイシズムが大衆の側から湧き出ているのも事実だ。

日本でも格差の拡大とともにレイシズムが広がっている。

日本人には、資本や権力といった本当の敵と闘う勇気がないので、
自分たちよりも弱い者にストレスと暴力のはけ口を見つける。

だがどんなに強がってみせても、強くなれるわけではない。

鏡に映るのは、醜悪で、何の魅力もないおのれの姿である。









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