フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 白井聡『永続敗戦論』(太田出版)B

<<   作成日時 : 2014/05/10 10:07   >>

トラックバック 0 / コメント 0

アジア諸国には傲慢で、アメリカには従順。

それが日本の、いつでも繰り返される、あられもない姿である。

対米従属を深めながら、「日米同盟」などと、
まるで対等な関係であるかのような幻想をふりまいている。

非核三原則と言いながら、米軍の核兵器持ち込みを黙認している。

日本に米国の核兵器は存在しないなどと誰も本気で信じていないにもかかわらず、日本はノーベル平和賞に値する原則を国是としている。同様に、日本が米国の属国にほかならないことを誰もが知りながら、政治家たちは日米の政治的関係は対等である(少なくとも対等なものに近づきつつある)と口先では言う。このことは、一種の精神的ストレスをもたらす。一方で「我が国は立派な主権国家である」と言われながら、それは真っ赤な嘘であることを無意識の水準では熟知しているからである。領土問題に典型的に現れるように、対アジア関係となると「我が国の主権に対する侵害」という観念が異常なる昂奮を惹起するのはこの精神構造ゆえである。無意識の領域に堆積した不満はアジアに対してぶちまけられる。言うなれば、それは「主権の欲求不満」の解消である。(139−140頁)


つまりこうだ。

領土問題で日本人が異常に昂奮しているのは、
おのれの欲求不満を解消しているからだったのだ。

領土問題だけではない。

安倍晋三が、「河野談話の見直し」で欲求不満の解消をもくろむ。

維新の会やカルト教団「幸福の科学」もそれにつづく。

ところがアジア諸国から批判が出るとこれには反発するくせに、
アメリカが批判を強めると彼らはたちまちうろたえる。

言うまでもなく、アメリカにも問題の原因はある。

起きつつあることは、米国とサダム・フセインやウサマ・ビン=ラディンとの間で起こった事柄と本質的に同型なのである。イラン革命政権に対抗させるために肩入れしたフセインは軍事的に巨大化し、米国に刃向かうに至ったため、米国はこれに対して二度の軍事行動を起こすことになった。あるいは、アフガン戦争でソ連を叩くために援助したムスリム義勇軍戦士たちのなかから、ビン=ラディンのアルカイダは生まれてきた。(150−151頁)


そして戦後の日本政治もアメリカの政策から生まれた。

自民党もアメリカによって支えられてきたのだ。

こうしたなかで、日本人は「ホンネ」と「タテマエ」の間で動揺する。

「タテマエ」としての「平和主義」や「不戦の誓い」。

「ホンネ」としての「好機としての戦争」や「核武装」。

だから日本人はほんとうは平和主義者でも何でもなかった。

平和をほんとうに欲していたわけではなかった。

 ……日本社会の大勢にとって、「絶対平和主義」は、生命を賭しても守られるべき価値として機能してきたのではなく、それが実利的に見て便利であるがゆえに、奉じられてきたにすぎない。(156−157頁)


だから平和主義はいつでも簡単に捨てられるのだ。

現に安倍晋三のお友だちの長谷川三千子は、
「平和主義とは戦争である」との主旨の発言すらしているのだ。

例えば、非核三原則についての国会決議には次のような言葉がある。

 政府は、核兵器を持たず、作らず、持ち込まさずの非核三原則を遵守するとともに、沖縄返還時に適切なる手段をもって、核が沖縄に存在しないこと、ならびに返還後も核を持ち込ませないことを明らかにする措置をとるべきである。(1971年の決議)


 唯一の被爆国として、いかなる核実験にも反対の立場を堅持する我が国は、地下核実験を含めた包括的核実験禁止を訴えるため、今後とも一層の外交的努力を続けること。(1976年の決議)


 ……沖縄核密約を米国と取り交わし、あまつさえ、核武装について西ドイツに話を持ち掛けることまでしていたのが、この国の政権であった。してみれば、非核三原則や「唯一の被爆国」であることの強調が一体何のためになされてきたのかは、ほとんど考えるまでもなく理解できる。ここには真剣なものなど何ひとつ存在しない。彼らが唯一真剣に取り組んでいたのは、国民を騙すことだけであった。そして、シニシズムを自明の社会原理としてしまった国民の側も、進んで騙されてきた。(159頁)


そうなのだ。

近代国家としての日本は、これまで二枚舌も三枚舌も使い分けてきた。

だが一貫していることがある。

「国民を騙すこと」、これだけは見事に一貫しているのである。

 ……中国・北京の「中国人民抗日戦争記念館」……見学者が記入するノートをめくってみて気づいたのは、最も多く書き込まれた字が「恥」であるということだった。……翻って、事あるごとに「国の誇り」というような御題目を唱えたがる日本の自称「ナショナリスト」たちが、原爆を落とされたことについて「恥ずかしい」とどうやら思っていない(私の知る限りでは誰もそのようなことを言わない)らしいことは、通常の思考回路からすれば不可思議千万な事柄である。……なぜなら、原爆投下を「恥辱」と感じることは、即座に、かかる事態を招き寄せてしまうような「恥ずかしい」政府しかわれわれが持つことができなかったことの自覚へと直結するからである。(162頁)


ここでは「恥辱」も「否認」されている。

まさに「恥知らず」というほかない。

「戦争は負けたのではない、終わったのだ」、と。そのことに最も大きく寄与したのは、「平和と繁栄」の神話であった。(165頁)


だが、この「平和と繁栄」の神話も崩壊した。

哲学者ヘーゲルはかつてこう述べた。

「国家の大変革というものは、それが二度くりかえされるとき、いわば人びとに正しいものとして公認されるようになるのです。ナポレオンが二度敗北したり、ブルボン家が二度追放されたりしたのも、その例です。最初はたんなる偶然ないし可能性と思えていたことが、くりかえされることによって、たしかな現実となるのです。」(ヘーゲル『歴史哲学講義』……)(219頁)


「偉大な出来事は二度繰り返されることによってはじめて、その意味が理解される」

われわれ日本人は、もう一度深刻な敗戦を経験しないと、
分からないのかもしれない。

われわれ日本人は、もう一度過酷な原発事故を経験しないと、
分からないのかもしれない。

たぶんこれからの日本は破局に向かって突き進む。

多くのひとが死ぬだろうし、殺されるだろう。

それでも日本人はこれを止めようともしないだろう。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


本書にはほかにも興味深い記述がたくさんある。

未読の方はすぐ書店へ行くべきである。

ただし、これまで見てきた議論は、
当ブログがこれまで指摘してきたこととほとんど同じ内容である。

同じようなことを書いている研究者はほかにもいる。

だから本書の独自性がどこにあるのかという問題は残る。







テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
白井聡『永続敗戦論』(太田出版)B フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる