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zoom RSS 白井聡『永続敗戦論』(太田出版)@

<<   作成日時 : 2014/05/08 10:37   >>

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もしまだ本書を読んでいないのなら、ただちに書店へ行くべきだ。

そして本書を購入し、とにかく貪り読むべきである。

さらに周囲のまだ読んでいないひとをも巻き込むべきである。

久米宏もこの本を読んで感激したらしい。

著者の白井聡は若手の研究者であり、
当ブログでも以前紹介した『未完のレーニン』の著者である。

白井聡『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)

とにかく本書を読むべきである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


本書は、福島第一原発事故から議論をはじめる。

事故後、大江健三郎は中野重治の言葉を引いてこう言った。

「私らは侮辱のなかに生きている」


どういうことか?

たとえば「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」。

事故後の放射能の拡散を予測するシステムである。

このスーパーコンピュータの開発には、
30年以上の歳月と、
100億円以上の費用が投じられ、
維持運営に年7億円の税金が費やされてきた。

福島第一原発事故のときもこのシステムは動いていた。

にもかかわらず、日本政府はこのデータを公表しなかった。

私たち国民に対して隠したのだ。

そのせいでせっかく原発から遠くへ避難しようとしたのに
かえって放射能汚染の高い方角へ避難してしまった人たちがいたのだ。

ところが、日本政府はこのデータを米国には提供していたのである。

私たちは政府によって侮辱されているのである。

2011年の末、政府は事故の「収束宣言」を出した。

……「収束宣言」は強行され、それを根拠(?)として、政府と東京電力は作業員が無料健康診断を受ける権利を打ち切った。(9頁)


ここには2つの問題が露呈している、と著者は述べる。

……第一にはこの作業に従事する人々の危険や健康被害を可能な限り最小限化し、しかるべき仕方で報いる体制がつくられていないという人道的な問題。そして第二に、この事故を本当の意味で収束させる意思を政府は実際持っているのか、という問題である。(9頁)


むろん国民を侮辱したのは政府だけではなかった。

 ……原発事故の発生に際して、日本気象学会の理事長は、同学会会員に対し、「学会の関係者が不確実性を伴う情報を提供することは、徒に国の防災対策に関する情報を混乱させる」「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報に基づいて行動すること」などと学会ホームページ上で伝え、気象研究者らが放射性物質の拡散予測を公表する動きを抑制しようとした。(12頁)


これは端的に知性の崩壊である、と著者は断罪する。

 東京の某有名私立大学で起きた出来事を紹介しよう。2011年10月にある文学系学生サークルが、小説家の高橋源一郎に講演を依頼した。……大学当局が反応、講演会の広報活動を禁じるという挙に出た。……ここでは、大学が一般的に標榜してきた、「多様な意見」だの「多様な価値観」だのそれらの「対話」だのといった結構な理念は、もはや建前としてすら機能していない。もっと言えば、こうしたリベラル好みのスローガンは、ある種の権力の「聖域」には一切手を触れないことを条件に大学人が弄ぶことを許されているにすぎない空虚な理念であることが、あらためて例証されたわけである。(14−15頁)


この某有名私立大学というのは、早稲田大学のことである。

ちなみにこのときの早稲田大学総長は、本書の著者の父親である。

メディアにおける知的荒廃もすさまじい。

例えば、領海問題で揺れる中国とベトナムの対立は、
日本でもとりわけ大きなニュースになる。

その一方、反原発の運動についてはほとんど取り上げない。

……なぜベトナムで中国大使館に対する抗議者が数十名現れるとそれについての報道は迅速かつ豊富になされる一方で、首相官邸前の万単位の抗議者についての報道が増大するのに長い時間がかかったのか?(15頁)


政府・御用学者・メディアだけではない。

日本の経済界も腐敗しきっている。

彼らのような荒廃しきった死神が、
この日本という国を支配しているのである。

しかも誰ひとりとして責任をとっていない。

これらは私たちにとって「侮辱」以外の何ものでもあるまい。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


福島第一原発事故によって明らかになったことがある。

それはひとつの時代の終わりである。

すなわち「戦後の終わり」である。

……「平和と繁栄」の時代が完全に終わったことを意味し、その逆の「戦争と衰退」の時代の幕開けを意味せざるを得ないであろう。(21頁)


実際、2012年に原子力基本法が改正され、
原子力の軍事利用への準備が整えられた。

思えば、この国はずっと前から核武装への欲望を抱いていた。

……非核三原則の生みの親でありノーベル平和賞を授与された佐藤栄作が、西ドイツに核兵器開発についての秘密協議を持ち掛けたことも明らかにされており、こうした経緯を経て、1969年の外務省機密文書「わが国の外交政策大綱」には「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘をうけないよう配慮する」と記されていたことも、われわれはすでに知っている。(24−25頁)


「まさか、日本が核武装を企んでいるはずがない」
と思い込んでいるひとがいるとしたら、
そのひとはたんなる無知で無能の愚か者である。

かつてはこうした「本音」はあからさまに語られなかった。

だが今はちがう。

 今日の日本社会が「本音モード」に入ってきたことは、こうした「否認の構造」が急速に崩壊しつつあることを指している。社会は、「本当は知っていたけれども建前上口に出すのを憚ってきた本当のこと」を次々と語り出している。(25頁)


ここでいう「否認の構造」とは、
「平和憲法と非核三原則を掲げた世界唯一の被爆国」と言いながら、
核兵器製造への準備をしたたかに続けてきたことを
無意識に否認しつづけてきたことを指す。

分かりやすく言えばこうだ。

ほんとうは日本が核武装への欲望を持っていることを知っているくせに、
「ウソだ、そんなのはウソだ、日本は平和主義の国なんだ!」
と必死に否定しようとするのである。

これまでの政府は、本音をひた隠してきた。

しかし現在はその本音がむき出しになっているのだ。

こうした「否認の構造」の崩壊は、対外関係にも見られる。

ひとつは日米関係だ。

もうひとつは、近隣諸国との領土問題である。

問題の本質は突き詰めれば常に、「対米従属」という構造に行き着く。アジア諸国(ロシアを含む)に対する排外的ナショナリズムの主張は、意識的にせよそうでないにせよ、日本に駐留する米国の軍事力の圧倒的なプレゼンスのもとで可能になっている。日本が「東洋の孤児」であり続けても一向にかまわないという甘えきった意識が深ければ深いほど、それだけ庇護者としての米国との関係は密接でなければならず、そのために果てはどのような不条理な要求であっても米国の言い分とあれば呑まなければならない、という結論が論理必然的に出てくる。かくして、対米従属がアジアでの孤立を昂進させ、アジアでの孤立が対米従属を強化するという循環がここに現れる。また、こうした構造から、愛国主義を標榜する右派が「親米右翼」や「親米保守」を名乗るという、言い換えれば、外国の力によってナショナリズムの根幹的アイデンティティを支えるというきわめてグロテスクな構造が定着してきた。(27−28頁)


ではなぜ「否認の構造」が存続してきたのだろうか?

「われわれの生きている時代は《戦後》である」というわれわれの歴史感覚が、その「平和と繁栄」を基調とする物語の枠組みが、「否認の構造」を成り立たしめてきた。(29頁)


だが、その条件はすでに失われた。

日本の経済的繁栄は崩れた。

民主主義と平和の虚構性も暴露された。

もはや日本人が満足できる現状はどこにもない。

〔鳩山首相の〕退陣劇を通して露呈したのは、この国においては選挙による国民の支持を大部分取り付けている首相であっても、「国民の要望」と「米国の要望」とのどちらかを取り、どちらかを捨てなければならないという二者択一を迫られた場合、後者を取らざるを得ない、という客観的な構造にほかならない。(38頁)


鳩山を退陣に追い込んだのは、外務省とメディアである。

私たちは、侮辱の中に生きているのである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


そもそも「否認の構造」は、敗戦直後から作られてきた。

このことは当ブログでも何度も言及してきたことである。

日本人は8月15日を「終戦記念日」と呼び、
「敗戦記念日」と呼ぶことを避けてきた。

先の大戦に「敗北」したことを直視したくなかったからである。

敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。(48頁)


この永続敗戦の構造こそが「戦後」日本の根本レジームだった、
と著者は指摘する。

日本の支配層、そして右派・保守思想を持つひとびと。

彼らは決して「敗戦記念日」とは言わないのだ。

彼らの主観においては、大日本帝国は決して負けておらず(戦争は「終わった」のであって「負けた」のではない)、「神洲不敗」神話は生きている。しかし、かかる「信念」は、究極的には、第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない。それは、突き詰めれば、ポツダム宣言受諾を否定し、東京裁判を否定し、サンフランシスコ講和条約をも否定することとなる(もう一度対米開戦せねばならない)。言うまでもなく、彼らはそのような筋の通った「蛮勇」を持ち合わせていない。ゆえに彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く――それが「永続敗戦という概念が指し示す状況である。(48頁)


こうしたひとびとが圧倒的多数派になったのが、現在の日本だ。

これも紛れもなく「侮辱」にほかなるまい。









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