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zoom RSS 池上俊一『動物裁判』(講談社現代新書)

<<   作成日時 : 2013/05/31 10:41   >>

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動物裁判をご存知だろうか?

人間や家畜を襲い殺傷した動物を人間が裁く裁判のことである。

畑や果樹園を荒らした動物も裁判にかけられた。

裁判のまね事をしたというのではない。

動物を被告人として公式の裁判にかけて裁いたのだ。

12〜18世紀までのヨーロッパ各地で行なわれ、
とりわけフランスで頻繁に行なわれたという。

これは決して冗談やお遊びなどではない。

……動物の裁判や処刑はけっして例外的で孤立した出来事ではなく、むしろ常態として、13世紀から数世紀間、ヨーロッパ各国で活発におこなわれた……。(15−16頁)


では、どんな動物たちが裁かれたのだろうか?

豚、牛、馬、犬、猫、ヤギ、ロバなどである。

有罪判決が出て死刑相当と判断されれば、「処刑」された。

 驚くべきは、この処刑のやり方も、裁判手続同様、人間にたいする場合と寸分ちがわないことである。……しかも、人間の死刑囚と動物のそれとで、刑吏に支払われる報酬はおなじであった、というのである。
 ……一審で無罪判決がくだる場合もけっしてめずらしくなかったし、いったん有罪となった動物が、恩赦や特赦をうることさえ、まれにはあったのである。(33頁)


知らないひとにとっては信じられないかもしれない。

しかしこの話はじつはわりと有名な話である。

上記の動物のほかにも、裁判にかけられた生き物がいた。

 ……教会裁判所で裁かれたのは、数のおびただしさゆえに、まとめてとらえることの不可能なハエ・ハチ・チョウ・ネズミ・アリ・ミミズ・モグラ・ナメクジ・ヒル・カタツムリ・ヘビ・バッタ・ゾウムシその他の甲虫・青虫・毛虫などの昆虫、および小動物であった。これら大発生した害虫・害獣が、畑や果樹園、河川や湖沼を荒らし、汚染するのをふせぐために、呪いの言葉を発し、くわえて、祓魔(ふつま)(悪魔祓い)と破門制裁の儀式にすがることを根拠づけるために、裁判がおこなわれた。(36頁)


歴史というのはじつにおもしろい。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


では、動物裁判はどのように行なわれたのだろうか?

裁判をはじめるためには、「被告」を呼び出さないといけない。

なんと裁判官は「被告」の動物に出頭を求めるのだ。

「被告」が「召喚に応じない」場合、欠席と見なされた。

 この際、もっぱら動物裁判においてもちだされる抗弁の理由に、つぎのようなものがある。すなわち、召喚の通達は、対象となる昆虫(や小動物)「全員」にはとどかなかったとか、かれらは、すでに懸案の土地からはとおくはなれてしまっているにちがいないとか、短小の脚でそんなに速くすすめないとか、仇敵のネコがねらっていて遠まわりの必要がある、とかいった理由をあげての抗弁である。(39頁)


この抗弁を行なうのは、「被告」の弁護人である。

弁護人が動物や昆虫のために抗弁している。

裁判に呼び出したからといって、
馬や犬や猫がいそいそと「出頭」するわけがない。

昆虫が「出頭」してくるわけがない。

ところが裁判所はまじめに出頭要請を行なう。

求めに応じないときは何日か間をあけて数回の喚問要請が行なわれる。

弁護士もまじめに自分の職務を果たそうとする。

つまり、動物の弁護を行なうのだ。

そのときの理屈はこうである。

 動物は、人間とおなじように神の被造物であるばかりか、人より先につくられ、草を食べる権利をあたえられた。それは、『創世記』に記されているとおりである、というのである。聖書ばかりか、「自然法」や「神の法」の理論がもちだされることさえあった。
 検察側も負けてはいない。かれも聖書をもちだして、つぎのように反論する。たしかに動物は、人より先に神によってつくられたかもしれないが、人は神の似姿につくられ、神は、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」といって他の全被造物への支配権を人間に与えたのではなかったか。それゆえに、極小の昆虫ごときが人の食物を奪ってよい、などという道理はあろうか。いやそんな権利はどこにもないのである。このように弁じた。(43頁)


このようにして動物裁判は行なわれたのだった。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


具体的に見てみよう。

1499年4月、ある村で1歳半になったばかりの幼児が、
家畜のオス豚に襲われて死亡した。

裁判官は、この豚を絞首刑に処した。

 1558年、ロレーヌ地方のブクでの事件は、犠牲者が1人だけで、加害者も1匹のブタだけであったはずだが、その場にいあわせた一群のブタ「全員」が、絞首刑に処せられた。そのアンバランスは、注目される。その群中のブタのどれが「下手人」か特定できず、どうしても判明しなかったから全部を連帯責任で裁いたのだ、という。(58頁)


これらは動物が人間を襲った事件である。

ところが、別種の事件も裁判所で裁かれていた。

 ……動物が世俗裁判所で裁かれ、処刑されるのは、かれらが人間を殺傷する罪を犯した場合だけではない。人類の恥とすべき忌まわしい罪、獣姦の「共犯者」として、相手の人間とともに裁かれ、処刑されたのである。(64頁)


すごい。

動物の側も「共犯者」として処刑されたというのだ。

この種の裁判における処刑方法は、絞首刑ではなく、火刑であったという。

この史実をはじめて知った読者はさぞ驚いていることだろう。

だが驚くのはまだ早い。

なんと、植物や静物をも、人間が裁いた例が散見される……。
 中世のアルザス地方のホーフェンとビューレンのちかくのヘッツェルホルツの森で、殺人が犯されたが、その犯人をみつけだすことができなかった。ストラスブールのプファルツ(市庁舎)裁判所は、やむなく森の死刑を宣告し、その森の大樹林は伐り倒され、藪と潅木しかのこらなかった、という。(77頁)


じつは裁かれたのは動物や植物などの生き物だけではない。

 ……15世紀末のある日の夜半、フィレンツェ共和国で新政政治をおこなったサン=マルコ修道院長、聖サヴォナローラの勢力が失墜しつつあったとき、市当局や反対派に抵抗するべく、その一党を呼びあつめる合図につかわれた鐘楼の鐘は、コムーネ(都市共和国)の最高政務官たちによって、共犯とみなされ、死刑囚と荷馬車に同乗させられて市内引きまわしの刑に処せられた。つづいて、その鐘は、城壁外の郭外地への流謫の刑に宣せられ、その地の地下室に11年のあいだ幽閉されていたという。(78頁)


鐘も裁かれたのだった。

 ゾウムシ・コガネムシ・チョウ・バッタ・ハエなどの昆虫やそれらの幼虫、またネズミをはじめとする齧歯類が大発生して、畑や果樹園・穀物倉庫を荒らし、はなはだしい被害――しばしば飢餓につながる――を農民や地域住民にあたえるケースは、けっして少なくなかったようである。中世の農地は、たいていうそうとしげる森にかこまれ、よどんで瘴気(しょうき)のたちのぼる沼沢や湿原、あるいは茨や潅木の藪や荒れ地に接していた。それが、虫たちの繁殖を容易にした。
 これらの大発生した害虫・小害獣は、人力で駆除するには、あまりに多量であった。農薬や化学薬品などない時代のことだ。窮余の策として、退去命令がだされ、聖水が散布され、呪いの言葉が発せられて、それでもダメなときには破門宣告がくだされる。(79頁)


虫を破門にする教会というのもすごい。

それにしても最大の謎は、
なぜヨーロッパで動物裁判がまじめに行なわれたのか、
ということである。

本書ではその謎を解き明かしてくれている。

だがその真相をここで明らかにはしない。

誰でもすぐに思い浮かぶのは、
動物を擬人化したために動物裁判が行なわれていたのだろう、
という推理である。

しかし著者はこの見立てを却下する。

ぜひ本書を手にとってご自身で確かめていただきたい。

あと、脳天気な捕鯨賛成派にもぜひ読ませたい一冊である。












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