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zoom RSS 小出裕章『放射能汚染の現実を超えて』(河出書房新社)

<<   作成日時 : 2013/04/08 11:32   >>

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原子力の専門家でありながら原子力に反対してきた稀有な研究者。

それが小出裕章さんである。

今や知らないひとがいないと思われる小出裕章さんだが、
福島原発事故以来、彼の著作もどんどん増えている。

どれから読んだらいいか分からないというひともいるだろう。

本書は、彼の著作のなかで真っ先に手に取るべきものである。

本書こそが、彼の魅力をたっぷりと伝えてくれる。

福島原発事故の約20前の1992年に刊行されたのが、この本である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


チェルノブイリ原発事故以来、世界各国で反原発の市民運動が盛んになった。

原発に反対するひとたちが増えてくれた。

これは歓迎すべきことではないか?

ところが小出さんにとっては必ずしもそうではなかった。

しかし、運動の展開の中で、私にはどうしても受け入れられない動きもあった。そのもっとも端的なものは、汚染の強いソ連やヨーロッパの食べものを日本国内に入れるなと、行政に規制強化を要請する運動である。(12−13頁)


なぜなのだろうか?

その前に、当時の規制について見てみよう。

日本政府は輸入食料について、
「1kg当たり370ベクレルまで」という規制を設けていたという。

これはどの程度のレベルの汚染なのだろうか?

 それから370ベクレルってどんな量かというと、「そんな基準を許す限り、毎年毎年、日本人が7万人ずつ死にますよ!」というくらいの基準なんです。(75頁)


そのくらいの汚染は甘受せよ、ということなのか。

驚くのはそうした規制すらじつは守られていなかったことだ。

例えば私の同僚で京大の荻野晃也さんという人が、京都の街中のスーパーで月桂樹の葉を買ってきて測ってみたら、1kg当たり773ベクレルあった。国の基準の倍以上汚れていたものが、街で売られているということも分かっています……。ですから要するに、国のしている検査が何ともずさんなものだということが分かっている。(75頁)


ここで注目したいことがある。

輸入食料の規制に関して、著者は後段で重要な指摘をしている。

なぜ国は不十分ながらもこのような規制をしているのだろうか?

国民の安全を守るため?

食の安全性を守るため?

そうではない、逆である。

「370Bq/kg」という規制を設けることによって、
それ以上のものは入ってこないから日本の食卓は安全だとアピールできる。

基準値以下のものはデータを公表する必要もなくなる。

日本政府は日本国民を守っているのだと錯覚させることもできる。

つまり、国の意図は日本人に、彼らの食卓には放射能汚染食品が上ってこないと錯覚させたいのである。何故なら、もし多くの日本人が放射能汚染を日常的なものと感じ、それが原発事故からもたらされたものであることを知ってしまうなら、現在日本の国が強引に進めている原子力開発そのものが成り立たなくなるからである。大衆の意識からできる限り早く、チェルノブイリ原発事故を忘れさせ、放射能汚染を忘れさせることが、彼らにはどうしても必要なことなのである。(102−103頁)


現在日本政府が行なっている規制も、これとまったく同じことにすぎない。

さて、話を戻そう。

そのような放射性物質で汚染された食べ物はない方がいい。

「汚染された食べ物が日本に入ってこないようにしてほしい」。

それは健全な要望のようにも思える。

しかし著者は、そうした運動は受け容れられないと言う。

彼の説明に耳を傾けてみよう。

 放射能は人間の手でなくすことができない。煮ても、焼いてもなくならない。日本国内に入ることを阻止できたとしても、当然、放射能はなくならない。放射能で汚染した食べものもなくならない。日本と日本人が拒否した食べものは、他のどこかで、他の誰かが食べることになるだけである。どこで、誰が食べることになるのか、想像してみてほしい。私には、それが原子力の恩恵など一切受けず、そして飢えに苦しむ第三世界であり、そこに住む人々であることを疑えない。一方、日本は、現在38基(1990年2月時点)もの原子力発電所を利用し、世界でももっともぜいたくを尽くしている国である。そして、その日本は世界がいっせいに原子力から撤退しようとしている今もなお、先頭になって原子力を推進すると宣言している国なのである。
 現在世界には約50億の人間が住んでいる。それを4つのグループに分けて考えよう。そのうちのもっともぜいたくなグループは、いわゆる「先進国」と呼ばれる国々である。幸か不幸か日本もその中に入っている。そのグループは世界全体で使うエネルギーの8割を奪い去り、使ってしまう。次のグループはいわゆる「開発途上国」であり、残されたエネルギーのうちの6割(全体のうちでは約12%)を使う。残されたグループはいわゆる「第三世界」に相当するが、その中でもエネルギーの取りあいがあって、もっとも分け前の少ないグループ、「極貧の第三世界」は全体の2%のエネルギーも使うことができない。彼らの中には飢えが広がり、現在2秒に1人ずつ子供たちが餓死しているというのである。(13−14頁)


「汚染されたものを日本には入れたくない」。

これは、日本にさえ入ってこなければいいという独善的な発想だ。

日本に入ってこないようにするからといって、
それが貧しい国のひとびとにまわされるわけではないのではないか?

そう思うひともいるかもしれない。

しかし残念ながらそうと断言できない。

……西ドイツでは、ある商社が通常の18分の1の値段で買い取った汚染乳清粉末(粉ミルク)をエジプト・アンゴラに輸出しようとし、それを知った西ドイツ内の運動体が必死の努力でそれを阻止したことがすでに報道されている。(119頁)


途上国のひとびとがそうした状況を知ったら、
それこそ不安と怒りでたまらない気持ちになるにちがいない。

しかし、因果関係の立証責任はすべての情報を握っている原発側にこそあるのであるし、今回の問題でも世界の各国が、汚染食糧を第三世界に負わせていないということこそを立証すべきなのである。(120頁)


「そんなことはない、自分たちの命を守りたいだけなのだ」
と言うひともいるかもしれない。

だがそこにやはり独善性があることは、別の箇所で明らかにされる。

しかも、日本は原発大国である。

よく日本の大人は子どもに向かってこう言う。

「途上国には食べ物がほとんどないひとたちがたくさんいるのよ」と。

「かわいそうなひとたちに比べてあなたたちは恵まれているのよ」と。

 餓死していく子供たちとそれを見つめる以外にない親たちを、私たち日本人は「かわいそう」というべきでない。なぜなら、子供たちを餓死に追い込んでいるのは、不公平をかぎりなく拡大させてきた「先進国」であるのだし、その中で、「豊か」で「平和」な世界を満喫してきた他ならぬ私たち自身なのである。(14頁)


子どもに説教を垂れる大人に、その自覚はまったくない。

私たちから見てこの人たちは可哀想なんですか? 自分で分捕っておいて可哀想という表現は、私はないと思う。私たち日本人は、まぎれもなく世界に対する加害者です。実に馬鹿なエネルギー浪費の妄想に取りつかれて突っ走って来て、今大変な過ちを犯し続けている国に住んでいる私たち一人ひとりが、そういう国の人間として、本当にどういうふうに生きることがいいのかということを是非ぜひ考えてほしいと思います。(83頁)


小出裕章さんが指摘しているのは、「責任」ということである。

 私が原子力に反対しているのは、事故で自分が被害を受けることが恐いからではない。……原子力とは徹底的に他者の搾取と抑圧の上になりたつものである。その姿に私は反対しているのである。(15頁)


他人を踏みつけて自分の利益を守ろうとするひとびと。

彼らのその生き方と社会の構造を批判しているのである。

だから著者はこう主張する。

 ソ連やヨーロッパの汚染食料については、日本国内にどんどん入れるべきである。その上で、いかにすれば自らの責任を少しでもはたし、責任のない人たちに少しでも犠牲をしわ寄せしないですむかを考えること、そして現実の中で一つひとつ選択することこそ、いま私たち日本人に求められている。(16頁)


誰もが命を守りたいと考える。

だが、自分の命だけ守れればそれでいいというのは、
反原発運動として失格である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


日本の食べ物は、福島原発事故以前からじつは汚れていた。

日本の食べ物だけではない。

世界中の食べ物が放射能で汚染されていた。

どうしてだろうか?

アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国というような国が過去もう400回を超えるぐらいの核実験を大気圏内でして、この地球上を汚してきています。(32頁)


そのうえ福島原発事故でますます汚染されてしまったのだ。

ガンで死亡するひとの数も増えている。

これからも増えていくだろう。

子どもたちもガンになっていくだろう。

それでも日本人は原発を容認してきた。

「100万人以上の人たちが死にますよ!」と言ってそれでも驚かないような人たちに、「本当は200万人死ぬんです。」と言ってみてもあんまり意味がないと思うのです。(49頁)


わたしもそう思う。

日本は史上最悪の原発事故を引き起こし、
いまだに収束の目処さえついていない。

にもかかわらず、事故後の選挙で反原発派はことごとく敗北している。

日本人にはもう何を言っても無駄なのかもしれない。

 私は、……この世に生きてきて、原子力発電に反対はしましたけれども実際に止められなかったし、その電気の一部を使っている限り、私にも責任があると思います。原子力発電ができてしまった。そして事故が起こってしまった。汚染があってしまったということに関して、私は責任があると思う。無罪ではないと思います。ですから私が死ぬのはまだ許せる。私が被害を被るのは許せるけれども、死ぬのは子供たちなんです。原子力を選んだことに何の責任もない子供たちが死んでいくのです。何とも気の重いことです。(51頁)


だから、日本人が「命を大切に」などと言うのを聞くと、
「ふざけるのもいい加減にしてほしい」と思わざるを得ない。

日本人にはそのようなことを言う資格はないのだから。

加えて理不尽なのは、核実験や原発が有機農家も破壊したことだ。

本当に何十年も前から、何度も何度も繰り返して無農薬有機農業を続けてきたわけで、昔からの汚染もちゃんと循環させて作ってきた、とっても立派なお米なんです。本当にいとおしくなるくらい立派なお米なんです。そういうお米が汚れていたということです。(55頁)


福島原発事故以前のお米も放射能で汚れていたのだ。

日本はチェルノブイリから直線で8000kmも離れていたが、
それでも日本国内の食べ物は汚れていたのである。

……今、毎年毎年60万トンの農薬を使うという状態です。60万トンと言っても全然想像できないと思います。日本の人口は1億2000万人ですね。じゃあ、1人ひとりだったらどれだけかと言ったら、5kgなんです。5kgの農薬を飲んだらもちろん即死ですね。5g飲んでも即死だと思いますから。要するにもうメチャクチャをやっているということになります。(60頁)


すべては利益を重視した社会システムが原因である。

 ……私は原子力に反対です。ただ私は、事故が起こって自分の身が危険になるから反対かと言われたらそうじゃないんです。環境がだめになるといっても、私が贅沢をしたおかげで私が生きる環境を失うというのなら、不愉快なことですが、まだ我慢ができるんです。でも私たちが馬鹿なことをしたおかげで子供たちにつけを負わせるというのは、私はやっぱり我慢できない。原子力の場というのは、どんな意味でもそういうことがたくさんあるんです。私は自分の身が可愛いから言うんじゃなくて、他の人たちを踏みつけにすることが実は我慢ならないんです。(66頁)


こんなイヤな話もあると本書で紹介されている話がある。

やや長い引用になるが、読んでいただきたい。

例えば日本にウランはないんです。石油はほとんど100%輸入ですけれども、ウランも100%輸入です。そのウランはどこから持って来るかというと、こんな話があるんです。
 ……「東京電力が、ナミビアのウランを買っている。」「イギリスの核燃料公社が、それを日本のために加工している。」「リバプールの港湾労働者はそんなことは許さない。」「リバプールの港湾労働者は、ナミビアのウランを阻止する。」……。
 ……実は日本のウランのたぶん4分の1を超える部分はナミビアという国から来ている……。……ナミビアというのは、最近ニュースで盛んに報じられていますのでご存知の方もいるかも知れませんけれども、南アフリカの隣にある国です。南アフリカというのは人種差別で有名な国がナミビアという国を武力的に占領していて、ここで掘り出してくるウランをどんどん持ち出しているのです。南アフリカが取ってきちゃってるんです。
 ナミビアという国は今までは武力的に占領されていたので、国連の中にナミビア理事会という亡命政府みたいなものを持っていまして、それが国連が認めている唯一のナミビア政府なのです。そのナミビア理事会は、「今南アフリカの手を経てナミビアから持ち出されている物は全て盗品だ。」と宣言しています。国連もそれを総会で認めています。ですからナミビアから持ってくる物がすべて盗品だとすれば、今日本に来ているウラン、原子力発電で使っているウランは盗品です。盗んで来たものです。
 そういうことをして南アフリカが金を儲けて、黒人を抑圧するということに使っている。私たちは豊かかも知れませんけれども、私たちが豊かな生活をすればするだけ、黒人はますます抑圧されていくという構図になっています。(68−70頁)


実際の原発の現場でも大変な差別がある。

先日も当ブログで紹介した「原発労働者」である。

全部下請けの人たちがやっているのです。電力会社というのは電力労連という組合に労働者が結集するわけですが、そういう人たちは、「危険な作業は下請化しろ。」と言うわけです。結局下請けの人たちが危険な作業を負わされている。そして被曝をする。(72頁)


著者がこだわっているのは、わたしたちの「責任」なのである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


わたしたち日本人には、責任がある。

わたしたち日本人は、加害者である。

著者はあるミニコミ誌からその一部を引用し、こう感想を述べている。

 「私たちがネグロスの山麓の集落に着いたとき、人々は「たいまつ」をかざして迎えにきてくれたし、ランプもなく、サイダー瓶のようなものに油を入れ、灯芯をいれてそれが唯一の照明であり、部屋の中には家具もなく、紙といえば、壁にはってあった2枚の手紙のみであった。(電灯すら見たこともないこの人たちの上にも死の灰は降るのだ)」
 全くなんということなのでしょう。チェルノブイリで放出された放射能は原子力を利用している人たちだけでなく、原子力を全く利用せず、全く責任のない人たちの上にも、容赦なく降りそそぎました。残念ながら、本当に残念ながら、そのことはもう避けられない。(89頁)


次の話も、日本人であることが恥ずかしくて仕方がないと思わせるものだ。

 かつて、有吉佐和子が、『複合汚染』で次のようなエピソードを書いている。ある日、彼女が厚生省の食品安全課長を訪ねたときの話である。

 医学博士という肩書を名刺に刷りこんである課長さんは、素晴らしく感じのいい方であった。食物に関して彼は深く深く思索しておいでのようにお見うけした。
 「科学よりも哲学の時代が来たのだと私は思うのですよ。科学的に判断するよりも、哲学的に判断すべき事柄が多くなりましたからですね」
(中略)次いで彼の口をついて出た言葉は、思いがけないものであった。
 「カドミウム米のことですが、あなたはこれをどうしたらいいと考えられますか」
 「どうするというのは、どういうことでしょうか」
 「私はですね、カドミウム米を東南アジアやインドの人々にあげたらいいと考えているのです」
 私は仰天した。
 「あのオ。カドミウム米というのは、いわば毒なんじゃないですか」
 「毒は毒ですけれども、そこが考え方です。カドミウムを食べて何人か手足の骨がおかしくなることより、ああした国々の深刻な飢餓状態を救うことの方が大切なのではないかと私は考えるのですが、あなたはどう思われますか」
 こんな難しい哲学的な質問に、私は答える用意がなかった。(中略)
 私は蒼惶として哲学の殿堂である厚生省から逃げるように外に出た。(106頁)


原発をつくってしまったのは、わたしたちである。

多くの日本人は、原発に反対してこなかった。

……原子力開発によるデメリットは、誰を措いても原子力を推進している国々こそが連帯して負うべきであって、間違っても原子力を選択していない国々に負わせるべきではない。(107頁)


それをふまえ、反原発運動はどうあるべきなのか?

 反原発運動は、今や非常に大切な試練に立たされている。これまで、その運動を担ってきた住民運動や消費者運動の本質は、端的に言ってしまえば、「いわれない被害を拒否する」ということであり、被害者としての運動であった。しかし、そうすることが、他の人々に「いわれない被害」を強制する、つまり、加害者として存在してしまうことになるとき、真に原発を廃絶させる道がどのようなものなのか、もう一度立ち止まって考えてみるべきだと、私は思う。(108頁)


だから小出裕章さんは、こう主張する。

放射能で汚染された食べ物を私たちは食べるべきだ、と。

汚染の規制を強化するのではない。

汚染されたものを私たちは食べるべきだ、と。

……私は、ただ食べて欲しいのではない。大人には真実を噛みしめながら食べて欲しいのである。目をつぶって食べて欲しいのではなく、危険をはっきりと視ながら、目を見開いて食べて欲しいのである。そのためにこそ、汚染のデータを公表させることがまず何よりも必要なのである。(122頁)


わたしが許せないのは、
これまで原発に反対してこなかったくせに、
原発反対派をバカにしてきたくせに、
原発事故をキッカケに「汚れていない食べ物」を求めている日本人だ。

なんと卑劣なひとたちなのだろうか?

日本の大人は、汚れた食べ物を、食べるべきなのである。

それが責任というものである。

反原発運動の原則は弱いものを踏台にしないということにあったと私は思うし、そうであるならば、まず汚染食糧の飢餓国への流入を阻止するという運動こそが根源的な運動にならなければならない。(123頁)


日本人の大人は、放射能で汚れたものを食べるべきなのである。

 食べ物の問題は重要である。しかし、自分だけが、自分の家族だけが、自分の周りの人たちだけがという視野でその問題を捉えようとするならば、それは反原発運動の原則に反すると私は思う。食べ物の問題が自分にとって大切だということは、他の人にとっても大切なのである。運動が「自分はイヤだ」という強烈な衝動から起こることを、私は否定しない。そして、それを大切にしなければならないという点も否定しない。しかし、その視野が自らの身を守るという点だけにとどまって、被害者意識のみに依拠した運動にとどまるならば、その運動はまことに醜悪なものになるだろうと私は思うのである。(125頁)


もちろん原発を積極的に推進してきたひとと、
そうではなかったひととの間には、差異がある。

お金持ちと貧乏人の間にも責任の差異がある。

……ごく図式的にいうとことが許されるなら、金持ちとは原発で恩恵を受けてきた人々であり、貧乏人とは原発で危険を負わされてきた人々なのである……。しかし、この社会の現実はまさに矛盾だらけなのであって、その矛盾に初めから蓋をしてしまうような運動よりは、矛盾を次々に掘り起こして行く運動の方がはるかに価値があると、私は思うのである。何故なら、仮に矛盾が視えないとしても、それは矛盾がないこととは異なるし、新しい矛盾が視えるようになるということは、運動自体の成長であり、次の矛盾を克服する力をも同時に獲得しつつあるだろうからである。(126−127頁)


これは何度でも強調しておくべき、重要な指摘だと思う。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


当ブログでも、日本人の独善的な被害者意識を繰り返し批判してきた。

そのひとつに「日本は唯一の被爆国」という言い方がある。

これは端的にデマである。

わたしはこれを何度か批判してきた。

そして小出裕章さんも、じつは本書で同じことを述べている。

 日本はよく「唯一の被爆国」と呼ばれている。この言い方は実に漠然とした表現であるが、国土という意味でも国民という意味でも誤りである。日本ではたしかに広島・長崎で原爆が爆発した。従って、まぎれもなく日本は被爆国である。しかし、原爆・水爆が爆発したのは日本だけであったのか。……米国は自国内の砂漠や北太平洋の平和であった島々で193回の原水爆を爆発させてきたし、ソ連は142回、中国は22回の原水爆を自国内で炸裂させてきた。英国やフランスは、オーストラリアやアフリカそれに南太平洋の平和な島々を犠牲に、合わせて66回の原水爆を爆発させてきた。いまや、原水爆が炸裂しなかった大陸の方がむしろ少ないのである。
 当然のことながら、被爆した人々も日本人だけではない。米国内で、核実験場周辺の住民に大量の被爆者が発生してしまったし、実験に参加させられた兵士たちも、いま現在ガンに侵されて苦しんでいるのである。同様の事情はソ連や中国でも同じであるはずだし、犠牲にされた南北太平洋の島々の住民たちは被爆の後遺症に苦しまされているだけでなく、島自体を奪われて、流浪化しているのである。
 日本を「唯一の被爆国」と呼ぶ思想は、こうした他の国の人々の被爆の事実を見落としているという点で決定的に誤りである。その上、私は最近つくづくと思う。日本人とは、自分の被害だけはよく見えるが、他人の被害は見えないし、それに自分が加担している時でさえそれが見えないと。(130−131頁)


日本人は「唯一の被爆国」と言うことで、自分たちを特権化してきた。

日本人だけが戦争の悲惨さを知っていると特権化してきた。

だから次のような「選別・排除」ができてしまったのだ。

広島には朝鮮人被爆者のための慰霊碑もあるが、実は、その碑は平和公園の中に建てられることを許されず、本川を渡った対岸に建てられている。(132頁)


ここまで見てくるとよく分かる。

小出裕章さんは、原発だけに反対しているのではない。

原発を通じて見えてくる「差別」の構造を批判しているのである。

 これまでの反原発運動は、ともすれば原発がただ恐いということだけを問題としてきたし、今回の輸入食品の放射能汚染もただ恐いということだけが問題にされようとしている。恐いことはもちろん事実である。しかし、運動がただそれだけに留まってしまうならば、他の多数の運動との連帯が視えないばかりか、それは自分だけの安全を問題とする排外主義的な運動になってしまう。(135頁)


だからこそ彼には他者の声を聴きとろうとすることができた。

 日本の醜悪な外国人差別に抵抗し、入国管理証を焼き捨てて投獄された在日朝鮮人宋斗会は、書いている。
 「反戦だの反核だの平和だのという日本人達よ、まず私の頭を踏んでいるその足をのけてくれ。踏んでいることさえ気がついていないようだが。」(136頁)


著者が一貫して問題にしているのは、日本人の「責任」である。

「責任」を自覚しようとしない日本人の姿である。

 人類初の原爆は、広島で炸裂したのではない。それは米国ニューメキシコ州、アラモゴルドと呼ばれる砂漠で炸裂した。……
 また、アラモゴルドと長崎で炸裂した原爆は、プルトニウムを材料として作られており、原子炉とはもともとそのプルトニウムを製造するためにこそ作られたものである。「平和」利用などと言われている原子力発電は10年以上遅れて、それを転用したものに過ぎない。(191頁)


そしていまや日本政府は、
「平和利用」という名目すら捨て去ったのである。










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