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zoom RSS 高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)A

<<   作成日時 : 2013/04/17 00:04   >>

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本書のサブタイトルは「福島・沖縄」である。

前回の記事でも分かるように、
福島原発事故から「犠牲のシステム」が見えてきた。

原発を支えてきた基本構造は「犠牲のシステム」だった。

沖縄も、日本によって長年犠牲を強いられてきた。

在日米軍施設の約74%が集中する沖縄。

オスプレイの配備や辺野古移転をめぐり、
沖縄のひとびとは激しい怒りを抱いている。

しかし、多くの日本人は、ここでも無関心のままである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


沖縄にこれほど基地が集中しているのはなぜか?

安全保障上の地理的要因だろうか?

そうではない。

騙されてはいけない。

まずはアメリカ側の意向があった。

さらに、これも知られていると思うが、天皇の意向でもあったのだ。

いわゆる「寺崎メモ」というのがある。

1947年9月20日付で出された沖縄に関する天皇のメッセージで、
宮内庁御用掛を務めていた寺崎英成がGHQ政治顧問シーボルトを介して
米軍側に天皇の意向を伝えたもののことである。

このとき寺崎は、驚くべきことを伝えていた。

 寺崎氏は、米国が沖縄およびその他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望している、と言明した。(170頁)


それは天皇の保身によるものだった。

シーボルトはメモに、「この希望は疑いもなく(天皇の)私的利益(self-interest)に広く基く」と記していた。(172頁)


ふと思い出す。

民主党政権のとき、自民党および自民党支持者たちは、
しばしば「二重外交」という言葉で批判してきた。

民主党政権の外交は「国益を損なっている」と。

この天皇のメッセージは「二重外交」ではないのだろうか?

 新憲法下で「象徴」となり、かつての神権天皇制下とは異なって一切の政治的権能を失っていた当人が、このような重大な外交上のメッセージを、政府の頭越しに行なったことは、昭和天皇の「二重外交」として論じられてきた。(172頁)


だから右派は無能だというのである。

本書では「沖縄大好き!」と無邪気にはしゃぐ本土のひとびとも、
厳しく批判されている。

当たり前である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


福島と沖縄。

共通するのは戦後日本の「犠牲」とされてきた点である。

沖縄はまぎれもなく日本の植民地である。

とするなら、福島も「一種の植民地」と見なせるのではないか?

都市部と地方の間にも、一種の植民地的関係があるのではないか?

もちろん安易に沖縄と福島を同列に論じるわけにはいかない。

たとえばかつて行なわれた台湾や朝鮮に対する植民地支配と、
福島が一種の植民地であるということのあいだには、
ちがいがあった。

朝鮮や台湾には帝国憲法は適用されていなかったし、戸籍上の差別その他、イデオロギー的・政策的には「一視同仁」とか「内鮮一体」とか叫ばれながらも、その実、差別が厳然として存在していた……。(196頁)


沖縄もかつては台湾や朝鮮とは区別され、
内国植民地とされていた。

このかぎりでは、沖縄のひとびとも、
台湾や朝鮮に対しては植民地支配者の立場にあった。

そういう構造があった。

にもかかわらず、実質的には「一種の植民地支配関係」が看取できる。

そう著者は主張する。

ではどのように類似しているというのだろうか?

 まず第一に、いずれの場合にも、そこには構造的な差別がある。(198頁)


なるほど。

日本人の差別意識が沖縄に犠牲を強いているのは間違いない。

都市住民による差別意識が福島に犠牲を強いていたのも間違いない。

 第二の類似点として、経済的な利益によって、そのリスクや負担、すなわち犠牲が補償されるかたちをとっていることが挙げられる。……
 沖縄については、沖縄振興特別措置法により予算が割り当てられ、中央政府から補助金が投下される。原発立地自治体には、電源三法に基づいて交付金が交付される。(199頁)


なるほど。

札束でひっぱたくわけだ。

米軍基地や原発といった危険な施設は、
自分の近所にはあってほしくない。

だから沖縄や福島やその他の地方に押し付けてしまえばいい。

これが「美しい日本」のひとたちがやってきたことだった。

だがそんな本音を地方に言うわけにもいかない。

そこで編み出された屁理屈が、「地域の活性化」にほかならない。

もちろん実際は、基地も原発も「地域の活性化」には役立たない。

……基地や原発に基づく財政収入が大きければ大きい自治体・地域ほど、経済的な自立が損なわれ、長期的に見れば、地域経済や地方自治にとってむしろマイナスになっている……。(200頁)


当ブログで紹介した佐藤栄佐久著『知事抹殺』にも、
そのことが記されていた。

本書でも同じ本が紹介されている。

再度引用しておこう。

 「原発が本当に地域振興の役に立っているのだろうか」との問題意識から、原発に代わる浜通り地方の新たな地域振興策を考えていた矢先だった私は、ショックを受けた。
 「原発の後の地域振興は原発で」
 という要望が地元から出てきたということは、運転を始めて約20年、原発が根本的な地域振興のためになっていなかったことの証明だった。
 地元にとって、原子炉が増えるメリットは、建設中の経済効果と雇用が増えること、自由には使えないが、国から予算が下りてくることだ。しかし、30〜40年単位で考えると、また新しく原発を作らないとやっていけなくなるということなのか。これでは、麻薬中毒者が「もっとクスリをくれ」と言っているのと同じではないか。自治体の「自立」にはほど遠い。(佐藤栄佐久『知事抹殺』)


やがて双葉町は財政状態が悪化して破綻寸前となり、
2009年に早期健全化団体に指定された。

次に沖縄の方も取り上げておこう。

 大田昌秀・元沖縄県知事は、在任中、基地返還による経済効果をまとめる作業を行なったところ、「基地の撤去によってより大きな利益を生んでいる地域がいくつもある」ことが確認されたという。典型例は沖縄本島中部北谷町のハンビータウン。そこが海兵隊の飛行場として使われていたときの軍の雇用数はわずか100人程度だったが、返還後には約200億円の投資がなされ、労働人口は1万人に増えた。北谷町が熱心に再開発に取り組んだところ、大手スーパーや郊外型店舗が進出し、若者に人気のある街に生まれ変わったのである。ちなみに宜野湾市の普天間基地は、この旧ハンビー飛行場の11倍の広さがあるのに、雇用数はたったの173人。もし普天間基地が返還されて跡地が有効利用されれば、現在の十数倍の雇用が生まれるのではないか、と大田氏は言うのである。(202−203頁)


近ごろ右派は、「基地に反対する沖縄人はじつは少ない」、
といったデマを必死に流そうとしているらしい。

合理的な議論を彼らに望むのは不可能なのだろうか?

たしかに米軍基地を抱える沖縄も原発を誘致した地方も、
経済的には貧しい状況にある。

では、「だから仕方がないのだ」と言えるか?

そうではない。

騙されてはいけない。

彼らが見落としているのは、経済格差は所与ではない、という点だ。

経済格差それ自体も、
近代以降の経済の歩みのなかで作り出されたものだった、
ということである。

その格差をつくったのは誰か?

基地や原発を地方に押し付けてきたひとたちである。

 米軍基地を負担してでも経済的な利益を求めるという考えが沖縄にあるとしたら、それは琉球処分以来の植民地主義のもと、沖縄が周辺化され、経済的な発展から取り残されてきた歴史があるからだろう。同様に、原発に頼らなければ生きていけないと考えるようになった自治体があるとしたら、それは戦後日本の経済成長のなかでも比較的に後れを取り、人口流出などによって取り残されてきた地域であって、いずれも日本の近代化プロセスのなかで経済的な弱者の位置に置かれることになった、そのような地域なのである。そうした地域の貧しさを生み出したのも、それ自体じつは植民地主義だったのではないかということを問い直さなければならない。(204頁)


格差構造をまるで自然現象のように言うひとたちには、
責任の概念がごっそり抜け落ちているのである。

さらにもうひとつ類似点がある、と著者は述べる。

 沖縄と福島の第三の類似点として、このような構造的差別、意識的・無意識的な植民地主義を隠蔽するために、「神話」が必要とされてきたということが挙げられる。(205頁)


基地を押し付けるときに持ち出されるのは「抑止力論」である。

これは典型的な「神話」だ。

原発を押し付けるときに持ち出されるのは「安全神話」である。

「神話」にすがる日本人。

日本人は21世紀になっても合理的な思考ができないらしい。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


他者や地方を踏みつけることで、日本人は利益を守ってきた。

自分さえ良ければそれでいい、と考えてきた。

子どもたちに偉そうに説教を垂れる大人も所詮この程度なのだ。

このように述べると、決まって出てくる反発がある。

 このような犠牲は、国家社会を営むうえで避けられないものであり、いわば必要悪ではないか、という議論があるかもしれない。
 ……
 しかし、問題はまず、その犠牲をだれが負わなければならないのか、ということだ。(210頁)


「仕方がない」と言うひとは、これに答える責任がある。

なぜ沖縄に犠牲を強いるのか?

なぜ地方に犠牲を強いるのか?

なぜ沖縄でなければならないのか?

なぜあなたは犠牲になろうとしないのか?

安倍晋三も石原慎太郎も「尊い犠牲」を美化するだろう。

だが覚えておいた方がいい。

 国家の為政者は、自分は当然生き残る9割のほうに属していると思っているのであり、1割の犠牲になるほうに属しているとは思っていない。(213頁)


戦後日本人は我欲に溺れていると言った石原慎太郎も、
自分が率先して国家の犠牲になろうとは決してしないのである。

彼らは絶対に自分を犠牲にはしないのである。

彼らは自分の財産を犠牲にはしない。

彼らは自分の家族も犠牲にはしないのである。

 一般の国民・市民のなかにも、このような論理を展開する人がいるとしたら、その人は自分自身をどちらの側に置いているのか。犠牲になる1割の側なのか、その犠牲によって守られる9割の側なのか。9割の側にいるとしたら、その人は、自分が生き残るための犠牲を他者に押しつける権利を、いったいどこから得てくるのか。これら一連の問いが提起される。これらの問いに対して、自分の回答を正当化できる人がどこかにいるだろうか。(213頁)


一般市民にもこれらの問いに答える責任がある。

 だれが犠牲になるのか。だれを犠牲にするのか。それを決める権利をだれがもっているのか。はたして私たちは、国家・国民共同体を維持するために、自分を犠牲になるべき1割の側に組み込んでもいいということを、国家為政者に認めたことがあるだろうか。(214頁)


まともに答えることのできる日本人は、いないだろう。

「仕方がない」と開き直るひとたちには、問い続けなければならない。

それも執拗に。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


本書は、原発事故関連の出版ブームに乗って出版されたのではない。

著者自身が福島県出身であり、
さらに、著者の専門である「犠牲」の問題を原発は見事に示していたからだ。

この本も必読書である。

ぜひ多くのひとに読んでもらいたい。










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