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zoom RSS 高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)@

<<   作成日時 : 2013/04/16 02:10   >>

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原発の本質とは何なのか?

これまで原発推進派は、いくつかの理屈を挙げて原発の正当化を試みてきた。

「原発は環境にいい」

「原発はコストが安い」

「原発がなければ日本の経済は発展できない」

「資源のない日本で原発は夢の技術だ」

「原子力の平和利用」

「日本の原発技術は世界一だ」


これらすべてが真っ赤なウソだったことはもう明らかにされている。

では、原発とはいったい何なのだろうか?

「犠牲のシステム」にほかならない、と著者は述べる。

 犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての「尊い犠牲」として美化され、正当化されている。そして、隠蔽や正当化が困難になり、犠牲の不当性が告発されても、犠牲にする者(たち)は自らの責任を否認し、責任から逃亡する。この国の犠牲のシステムは、「無責任の体系」(丸山眞男)を含んで存立するのだ。(27−28頁)


原発を支持してきたひと。

原発を黙認してきたひと。

彼らはすべて「他者」を犠牲にしてきた加害者だったのである。

彼らは例外なく無責任である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


放射能で汚染された地域には、国から避難させられたひとたちがいる。

怖ろしいのは、猛烈な汚染があるにもかかわらず、
避難対象にならずそのまま暮らし続けているひとたちも多いことだ。

福島県の各地にはホットスポットが点在している。

チェルノブイリ事故の基準で言えば、
避難義務や避難の権利が生じるほどの高線量の地域がある。

 実際この地域の放射線量を概観すると、なぜ事故直前に避難指示が出されなかったのか、そして、いまもなお避難指示が出されないのか、疑問を抱かずにはいられない。おそらくは、県の政治・経済の中心地を含み、人口密度も比較的高いこの地域の約100万の人々に避難指示を出せば、甚大な社会的コストがかかる、また、避難指示によって政府の補償の対象にもなるとすれば甚大な補償財源を必要とする、といった理由から、政府や県の思惑によって避難指示が出されなかったのだろう。(45頁)


何度でも言っておこう。

「政府が国民の生命を守る」というのはウソである。

 中通り地方に位置する須賀川市で、3月24日朝に、有機野菜栽培を営んでいた64歳の男性が自宅の敷地内で首をつってみずから命を絶った。これは政府が一部の福島県産野菜について、摂取制限の指示を出した翌日のことである。
 この男性は、有機農業に使命感をもち、また何代も続いた伝統ある農地を受け継いで農業をしていくことに希望をもっていたが、自殺する前日には「福島の野菜はもうだめだ」と家族に語っていた。遺族は原発に殺されたと悔しさを募らせているという。
 また、6月11日には、浜通り地方に位置する相馬市の酪農家の50代の男性が、「原発さえなければ」と書き残して、首をつって命を絶った。この男性は、事故の影響で牛を処分して廃業せざるをえなくなっていた。小屋の壁に白いチョークで、「残った酪農家は原発にまけないで」「仕事をする気力をなくしました」と記していた。
 この男性が住む地区は、事故以来、加工前牛乳が出荷停止となり、男性は乳を搾っては捨てていた。男性は親の代から酪農を続けていたが、6月初旬までに牛約30頭を処分していた。仲間の酪農家によれば、この自殺した男性は、避難区域ではないので補償は出ないだろうと繰り返し言っていたとのことで、連絡を取るたびに「原発ですべて失った」と悩んでいたと伝えられている。(47−48頁)


原発は、ひとびとの暮らしを破壊した。

ひとの命も奪った。

他方、日本人のおなじみの本性も明らかになる。

福島県民に対するあられもない差別である。

 いわき市の運送会社が「放射線の問題があるので、いわきナンバーで来ないでほしい」という取引先の依頼を断れず、東京や埼玉でトラックを借りて荷物を積み替えていたケース、田村市に工場をもつ埼玉県の会社の福島ナンバーの車が首都圏のガソリンスタンド等で利用を拒否され、埼玉県内ナンバーを使うことにしたケース、南相馬市から千葉県船橋市に避難していた小学生の兄弟が公園で遊んでいたところ、「放射線がうつる」「わー」と叫んで逃げ去られ、ショックを受けて福島市に再避難したケース、南相馬市から群馬県に避難した女子児童が「福島県から来た」などとクラスの子どもから避けられたり陰口を言われたりして不登校になったケース(読売新聞、2011年4月21日。毎日新聞、同4月13日など)。その他、アパートの入居で難色を示された、福祉施設で被曝線量を調べるスクリーニング検査の証明書を求められた、高速道路のサービスエリアで「福島の車は来るな」と罵声を浴びせられた、ホテルの宿泊を拒否された、ガソリンの給油を拒否された、等々。(49−50頁)


インターネット上にも破廉恥な書き込みがなされた。

「え?福島県民植えればいいの?」
「福島県民は20日間で放射性物質の95%以上を吸収する」
「30年もかからんよ」
「で、その成長した福島県民は、どこに捨てるの?」
「福島県民を焼却して出来た灰に処理剤を混合して、加熱するとガラスになる。そうなればもう出ることはないので、あとは地下格納庫でも作って積んでいけばいい」(3月26日)


ひまわりを植えれば土壌の放射性物質を吸収するという話があり、
それを踏まえた「おふざけ」なのかもしれない。

だが「おふざけ」というにはあまりに差別的で冷笑的ある。

ほかにも、「福島県は日本のゴミ箱」、
「将来もし私の息子が福島で育った女の子と結婚したいと言ったら大反対する」
などといった差別発言が次々とネット上に書き込まれていたという。

日本人の本性はこういうときに露出する。

「東北土人」や「福島土人」といった言葉まで多く使われていたという。

東北地方に対する差別意識が噴出したのだろうか?

これまで原発という危険なものを東北に押し付けてきたくせに、
事故が起きたとたんに東北のひとびとを差別する。

日本人というのはこういう国民なのである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


原発によって被害を受けるのは地域住民だけではない。

原発はたとえ事故を起こさなくても、原料の採掘現場で被曝者を生む。

 日本がウランを輸入しているオーストラリア、カナダ、ナミビア、ニジェールなどでも、採掘労働者の被曝、放射能汚染に晒された周辺住民の被害等、深刻な問題が発生している。多くの場合、先住民がとくに被害を被っている。(67頁)


悲しいことに、福島原発事故の前まで、
原発問題にとくに関心を持たなかった多くの日本人は、
こうしたことにまったくと言っていいほど目を向けてこなかった。

日本国内でもかつてこのようなことがあったという。

 ……戦争末期日本陸軍が核兵器の開発計画を進めていたことは周知の通りだが、当時、燃料のウランは、福島県南部の石川町で採掘が行なわれていた。ウラン採掘に動員されたのは旧制の私立石川中学の生徒たちだった。(68頁)


犠牲を強いるのは採掘の場以外にもある。

原発が生み出す放射性廃棄物の処理でも犠牲を強いる。

膨大な放射性廃棄物をいったいどこに棄てるのか?

全国各地にその候補地が挙げられているが、
いずれも都市部から遠く離れた地域である。

日本人は、原発のリスクも、核のゴミも、地方に押しつけるのか?

しかし日本のどの地方が率先して引き受けようとするだろうか?

そこで密かに考えられているのが、
それなら外国に棄ててしまえばいいのでないか、というものだ。

日本の経済産業省が昨年秋から米国エネルギー省と共同で、放射性廃棄物の国際的な貯蔵・処分施設をモンゴルに建設する計画を極秘に進めていた……。(70頁)


日本人はこうしたことを恥ずかしいとも思わないのだろうか?

怒りで震えないのだろうか?

……地震学者、石橋克彦氏(神戸大学名誉教授)は、戦前・戦中の日本が「軍国主義」国家であったとすれば、戦後日本は「原発主義」国家であった、と喝破した……。「軍国主義」も「原発主義」も、莫大な国費を投入して推進された国策であり、「不敗神話」や「安全神話」をつくり上げて一切の異論を排除し、「大本営発表」によって国民を欺き続けた挙句、破綻したという点で実によく似ている。(72頁)


日本はもう軍国主義にはならないと言うひとがいる。

アジア諸国から日本が批判されたときにそう言うひとがいる。

そう言うひとにかぎって原発賛成派だったり黙認派だったりする。

日本人は同じ過ちを繰り返しているのである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


これまで見てきたのは、日本の原発の問題だ。

しかし、日本国内にはまだほかにも「核」が存在している。

言うまでもなく米軍である。

 原子力資料情報室の予測によれば、米海軍横須賀基地で原子力空母の原子炉の冷却装置が故障して、メルトダウンを起こし、格納容器が破壊して放射性物質が放出された場合、風向きによっては、三浦半島だけでなく、神奈川県、東京都、房総半島の大半で甚大な被害を引き起こす。三浦半島で年間を通して最も多い南南西の風を想定すると、東京を直撃し、やがて120万〜160万人がガンで死亡するというのだ……。
 横須賀には現在、2つの原子炉をもつ米軍の原子力空母ジョージ・ワシントンが配備されている。(77頁)


原発事故で日本にもようやく反原発の声が高まった。

このときアメリカ政府は、
反核の声が米軍にも向けられることを怖れただろう。

そこで考案されたのが、
あの米軍による「オペレーション・トモダチ」だったのではないか?

その効果だろうか。

原子力空母や米軍基地内の核兵器(公然の秘密?)には、
批判の目はまったくと言っていいほど向けられていない。

日本は軍国主義にならないだって?

……日本政府によると、2010年末時点で日本が国内外に保有する(核分裂性)プルトニウムの量は役30トンにのぼる。8トンで核兵器1000発相当だとすると、これだけでも4000発近くの量に相当することになる。(79頁)


彼らは、日本はもう軍国主義にはならないと言いながら、
「核の潜在的抑止力」にしがみついているのだ。

石破茂という政治家がいる。

あの、目つきの危ない政治家だ。

彼は「核の潜在的抑止力」を公言するひとりである。

……「原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れるという『核の潜在的抑止力』になっていると思っています。逆に言えば、原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄するということになる、という点を問いたい」(『SAPIO』2011年10月5日号)


これに対して著者はこう述べる。

原発の存在自体が「核の潜在的抑止能力」になっているとどのようにして証明できるのか、「一定期間」の前に原発自体を核攻撃されたら何の「抑止力」にもならないではないか……。(81頁)


もっともな指摘であろう。

日本に建ち並ぶ原発を攻撃されたら、おしまいである。

原発のような危険な施設は、軍事の観点から言えば、弱点である。

その弱点をずらりと全国に並べているのである。

石破茂は「平和ボケ」しているのではなかろうか?

こういう狂人が「軍事の専門家」を自称しているのだから怖ろしい。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


本書では、責任の問題についても議論されている。

責任という概念については、
哲学者らしく、カール・ヤスパースの議論も取り上げている。

ぜひ直接本書を読んでいただきたいが、
まずは《原子力村》(=極悪人)の責任が取り上げられている。

 すなわち、原発政策全般に責任を有する政府、とりわけかつての通産省、現在の経済産業省の歴代担当官、国および地方で原発導入・推進から利益を上げてきた政治家たち、原子力委員会、原子力安全委員会、原子力安全・保安院等の歴代メンバー、そして、その国策を推進する実動部隊だった電力会社――この場合には東京電力、また原発施設の建設や修理を受注し莫大な利益を上げてきた原発関連企業、などである。
 原発を稼働させるために安全性の承認を与え、原発安全神話にお墨付きを与えてきた学者・専門家たち、安全神話を国民に流布して莫大な広告費をせしめてきたマスメディアも「原子力ムラ」の重要なアクターである。そのマスメディアに再三登場し神話の流布に寄与してきた文化人・芸能人たちもここに含めることができるかもしれない。(87−88頁)


さらに著者は指摘する。

 忘れてならないのは、司法の責任である。(88頁)


まさにそうだ。

行政による蛮行を認めてきたのは、ほかならぬ司法だったからだ。

伊方原発訴訟最高裁判決(1992年10月29日)は、原発の安全審査と設置許可に関して司法が国側の決定を追認していく出発点となったが、そのときの味村治判事が原発メーカー・東芝に天下っていた事実は、司法すら「原子力ムラ」の一部であったかと思わせるに足るものである……。(88頁)


ほとんど日本の裁判は「やらせ」だったのではないか、とさえ思える。

日頃「官僚支配」や「天下り」を批判するポーズを見せる右派・保守派でも、
こうしたことはなぜか見て見ぬふりをするのである。

さて、山下俊一という御用学者がいる。

ご存知の方も多いだろう。

福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーとして、
放射能はニコニコしていれば大丈夫、
とワケの分からないことを県民に言っていたひとである。

その彼はいかなる意味で学者として失格なのかを、
著者は鋭く指摘している。

著者はさらに、「市民の責任」も指摘する。

原発に賛成してきた市民の責任。

原発に無関心だった市民の責任。

ここで著者は小出裕章さんの主張も参考に、
原発に反対してきた市民の責任をも指摘する。

たとえ原発に反対だったとしても、
止めることができなかった責任があるからである。

こうした「正しい主張」には、必ず反発するひとが出てくる。

「原発のことなどまったく知らなかった」

「原発にこんな問題があるなんて教えてもらえなかった」


そういうひとにも、当たり前だが、責任はあるのである。

では、子どもたちはどうか?

 もちろん、……子どもたちや、また種々の理由から原発のリスクについて知るチャンスすらなかった人についてまで、今回の事故の責任があるとは言えないだろう。しかし、そうした人々もまた、このような大事故が起こった以上は、原発というシステムを今後維持していくべきかどうかについて、少なくとも自らの問題としてそれを考えていく責任が生じた、とは言えるだろう。(105頁)


まだ投票権がないという若者は、心しておいてほしい。

あなた方にも責任は生じているのである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


震災直後、あの石原慎太郎がいつもの「暴言」を吐いた。

「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」


こう述べた。

他方、大阪府議会議長の長田義明は、こう述べた。

「東日本大震災は大阪にとって天の恵みであった」


海外でもあるカトリックの教会史研究者が、
「これは神の善意の声であり、天罰だ」と述べたらしい。

さらに日本の著名な宗教学者で、
まともなはずの末木文美士でさえ似たような発言をしていたという。

さて、こうした同種の発言を見てどう思うだろうか?

被災者のことを考えればさすがにひどいと誰もが思うだろう。

津波で溺れ死んだ子どもたちは我欲のせいで死んだのか?

東北のひとびとが死ぬことが大阪には天の恵みなのか?

しかし、ひどいと思って済ませるわけにはいかない。

どうひどいのか、どのようにひどいのか、を考えないといけない。

ここで著者が取り上げるのは、
意外なことに内村鑑三である。

どうしてだろうか?

じつは内村鑑三も、
関東大震災の直後に同じような発言をしていたからである。

内村鑑三を「偉人」と尊敬しているひとにとってはショックかもしれない。

なぜなら内村鑑三と石原慎太郎が同じような発言をしていたのだから。

こういうところが高橋哲哉の本を読んでいて興味深いところである。

では、上記の発言がどのように問題なのか?

著者の言葉に耳を傾けよう。

 大震災、津波等は天罰、天譴、神罰、仏罰等々であり、そこで生じた「犠牲」は天による処罰、神仏による処罰の所産である。では、罰は何のために与えられるのか。それは、罰せられる者の「犠牲」を通して、道徳的な均衡を回復するため、道徳的な欠損を埋め合わせ、「代償」を払って罪を赦されるためである。したがって、いかに「被災者の人々には申しわけないが」等々と言ったとしても、罰は罪に向かってこそ下されるのであり、そこに重罰を受けた人々(被災者、とりわけ死者)がいるとしたら、それは彼ら彼女らが重罰を負っていたからだといことにならざるをえない。被災者には「量刑」の違いがあるにせよ、彼ら彼女らは罪があったからこそ罰せられたという構造になっていることは、この議論をする限り否定することはできないのだ。(128−129頁)


ここにも「犠牲の論理」が隠されていたのだ。

天罰論は、まさしく「犠牲の論理」だったのである。

それは言い換えれば、これら災厄の死者たちの死が、生き残った者たちがそれにかぶせる物語の枠のなかで、生き残った者たち自身の道徳的理由のために、利用されるということである。(133頁)


これは何かを私たちに連想させないか?

そうだ、「靖国神社」である。

「靖国神社」も「犠牲の論理」によって正当化されてきた。

「被災地の人々が悪いのではない」と述べたからといって、被災地の人々に「日本全体の責任」を集中的に負わせる論の構造になっていることは否定できない。(136頁)


犠牲のシステムは、同時に犠牲者を必要とする。

つまり、天罰による死者がいるからこそ罪は償われるのであり、死者は罪の赦しを得るための犠牲の死者なのであって、天罰による犠牲死こそが赦しを可能にするという意味で、それはまた天恵なのである。
 天罰は天恵のための天罰であり、天恵は天罰あっての天恵である。こうして天罰論と天恵論が互いに求めあう関係が成り立つ。(144頁)


死者の利用。

死をご都合主義的に意味づけることで利用する。

彼らは死者を欲しているとさえ思えるほどだ。

石原慎太郎の場合、天罰論がそのまま日本国憲法の否定につながる。

戦後の日本人は堕落した、
その原因は現行憲法であり、
そのせいで我欲に溺れた日本人を襲った震災は天罰だ、
という理屈である。

こうした暴論に惑わされるひとはまさかいないと思うが、
歴史的にも、世界的にも、こうした発言が繰り返されることを考えると、
きとんと批判しておく必要を感じる。

ここで著者は、ある疑問を提示する。

……震災や天災は頻繁に起こっているが、論者たちが天罰だとするのは東日本大震災のみである。戦後日本人に罪があるなら、なぜ以前に起こった震災は天罰ではなかったのか。たとえば、なぜ、阪神・淡路大震災は天罰ではなく、東日本大震災は天罰なのか。(146頁)


まさにそうだ。

どうして東日本大震災だけなのだろうか?

大きな震災はこれまでにも各地で起きていたのだ。

……死者行方不明者68人を出した新潟県中越大震災(2004年)、死者15人を出した中越沖地震(2007年、柏崎刈羽原発で緊急停止)、死者行方不明者23人を出した岩手・宮城内陸地震(2008年)……大津波などで死者202人を出した北海道南西沖地震……。(146−147頁)


東日本大震災の前だけではない。

その後にも「犠牲者」は出ている。

……東日本大震災の約半年後、台風12号では全国で死者行方不明者94人を出した。前年の2010年夏には全国的に熱波に襲われ、熱中症の死者は1718人に上った。(147頁)


熱中症で亡くなったひとは、天罰だったのか?

台風や土砂崩れで亡くなったひとたちは、天罰だったのか?

いや、もっと細かく言うこともできる。

交通事故で亡くなるひと、病気で亡くなるひと。

彼らは天罰だったのか?

なぜ天罰論者はこうしたひとびとには天罰だったと言わないのか?

理由は簡単である。

たんなる「こじつけ」にすぎないのだ。

恣意的に目立った事例を取り上げているだけなのだ。

本書ではさらに佐藤優も批判の対象になっている。

ぜひご覧いただきたい。

(つづく)









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