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zoom RSS 堀江邦夫『原発ジプシー[増補改訂版]』(現代書館)

<<   作成日時 : 2012/12/21 10:58   >>

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全国の原発を渡り歩く労働者の存在は、以前から知られていた。

彼らは「原発ジプシー」と呼ばれていた。

深刻な被曝を強いられ、そして使い捨てられた。

しかし多くの日本人は、彼らの存在を無視してきた。

彼らを犠牲にして、自分たちだけは豊かな生活を謳歌してきた。

本書は、著者が原発作業員として原発内部に潜入した貴重なルポだ。

日記風に綴られた本書では、その日の終わりごとに被曝量も記入されている。

胸をかきむしられる思いでわたしたちはそれを読まなければならない。

必読である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


著者は、美浜原発に向かった。

そこで下請けの作業員として働くためである。

10月13日(金)曇り。ラジオ体操後、事務所で安全担当の町田さんから、労働衛生週間の報告があった。
 「えー、まず、管理区域内でヘルメットを着用していない者がいたと、関電興業から指摘を受けまして……」と、町田さんが話し始めると、「なにいってんの」という声が飛んだ。20歳前後の美川さんだった。彼は冗談じゃないといった表情で、「関電の放管だって、(ヘルメットを)かぶってないのがいるじゃないか!」。それを聞いた仲間の労働者たちから「そうだ」、「そのとおりだぞ」という声があがり、事務所内がザワめき出した。
 「ほー、そうですか。まあ、それはそれとしてですねえ……。えー、第二点目を報告します。これからは、構内でケガをした人は、電力(関西電力)さんにあやまりに行くことになりまして……」
 このひとことに、室内は急に静かになった。静かになったというより、険悪なムードになったと言った方が適切だろう。中年の労働者が立ち上がった。顔面を紅潮させた彼は、強い口調でしゃべり始めた。
 「だれだってケガしとうて、するんじゃないで。それなのに、だよ。いいですか、ケガして苦しむ本人が、そんな仕事をさせた電力に頭を下げんならんちゅうことは、どういうことですねん。ふざけちゃいけんよ。そんなことは、わしら下っ端に言うことじゃなくて、わしらを監督してる者に言うことやろ……」
 皆の目が、町田さんの顔に集中した。彼はしばらく下を向いていたが、フーッと深いため息をはいて、「まあ……、いずれにしてもケガだけはせんように……気をつけて下さい……終わります」と言いながら、強ばった笑顔を見せると、事務所から出ていってしまった。
 先の中年労働者が、腹の虫がおさまらんといった表情で、周囲の者にしきりに話しかけている。
 「ここじゃあ監督ゆうても、仕事を見回りにくるくらいで、安全の監督なんかやってないじゃないか。朝礼で長ったらしい標語を読み上げるだけなんだから、まったく……」
 彼の話は、責任者の梅元さんの「さあ、そろそろ現場へ行く時間だよ」のひと言で中断されてしまった。しかし怒りがおさまっていないことは、彼の憮然とした顔つきや、荒々しい動作からも明らかだった。(59−60頁)


日本の企業は、民主主義の否定の上に成立している。

大企業の下には、下請け、孫請け……と幾重もの階層性が存在し、
厳然たるヒエラルキーを形成している。

深刻な被曝を強いられる現場労働者は、その底辺に位置している。

「わしは原発で働く前には、白血球が7000幾つあったんよ。標準値だった。ところが、やれ敦賀(日本原電)だ、島根(中国電力)だ、福島(東京電力)だって各地の原発を歩きまわっているうちに白血球がジャンジャン下がっちゃってね。美浜(関西電力)で働くようになったときには、たしか4900だった。ところがそれも1年ほど前には3000ぐらいに落ちてしまったんよ。そんで、会社も気味悪がって管理区域に入れてくれんのよ」(71頁)


別の労働者は、こんな言葉を漏らしている。

 「これだけ厳しい身体検査に合格して(原発に)入ってきたんだから、わしらはみんな“健康優良児”ってとこだな。それが、放射能さたっぷり浴びて帰って行くんだから……。なんちゅうか、皮肉なこったなあ」(259頁)


彼らの存在に心を痛める日本人は、ほとんどいなかった。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


しばらくして著者は、別の原子力発電所へ移ることになった。

つぎの行き先は、あの福島第一原子力発電所だった。

美浜原発のときと違い、バスに乗ったままで入構。入門証の提示も求められず、運転手が守衛に「オス!」と挨拶を送るだけ。「核ジャック」をうんぬんする割には、いたって開放的だ。(143頁)


拍子抜けするほどの警戒態勢だったようだ。

厳重な警戒というのは、
情報開示を拒否するときにだけ使われるものなのか。

日本人は、原発作業員を犠牲にしておきながら、
自分たちだけはのうのうと豊かな生活を享受してきた。

そのくせ日本人は労働者たちを差別してもきた。

 「……おれたちは、“釜”の住所を書くだけで、たったそれだけで、信用されなくなっちゃうんだぜ! ……以前、“アンコ”(日雇い労働者)から足を洗おうと思って、ある会社に願書出したんよ。それが通れば、ちゃんとした社員になれる。住所欄にどう書こうかって、ずいぶん迷った。でも、ウソはアカンと思って、本当のことを書いた。そしたら……」
 「ダメだったんか?」と、森田さん。
 「ああ、パァーよ。どんなにおれたちが真面目に働きたいと思ったって、社会じゃあ受け入れてくれんやんか……」(188頁)


ある日の作業中、著者は落下してケガを負ってしまった。

ところがそのとき言われたのは、意外な言葉だった。

 「下に東電の社員が見まわりでウロウロしてるから、ちょっと立って、仕事してるふりをしろよ」
 最初、彼がなにを言っているのか、その意味がよく飲みこめなかった。薄暗い所で痛みにのたうちまわっている私に、「立て」と彼は言う。どうやら彼は、私のケガよりも、東電にこの事故がバレることの方を心配しているらしかった。(201頁)


肋骨を折るケガだった。

そんなとき、仕事仲間がわざわざ仕事を休んで付き添ってくれたという。

日雇い労働者には有給休暇などない。

仕事を休めばそれだけ収入が減り、生活が脅かされることを意味する。

それでも仲間は著者のために仕事を休んでくれたのだという。

やがて動けるようになって著者は、事務所へ行った。

労災の相談をするつもりだった。

しかし、事務所所長が口にしたのは、つぎの言葉だった。

 「いいかい堀江さん。労災だと日当の6割しかもらえんのよ。だけど労災扱いにしなければ、うちで全額面倒みてあげる。ね、どっちがいいかわかるやろ?」カネを多くもらうのと、少ないのとではどちらがいいか――日雇い労働者でなくても、「多い方がいい」と答えるだろう。それでなくても、安全責任者から「労災にすれば、東電にバレるので……」とう〔ママ〕話があった。東電や会社に迷惑をかけてまで労災扱いにしてくれと、「使われている側」の労働者がはたして言えるだろうか。
 所長は、「労災だと日当の6割……」と言っていた。が、正確には、保険給付金として給付基礎日額の60パーセント、および、労働福祉事業の休業特別支給金として同じく20パーセントの計80パーセントが支給されるはずだ。また、残りの20パーセントについても、普通、事業者負担となっている。
 所長がこの労災補償制度を知らないで、「6割……」と言ったのかどうかは、わからない。しかし、たとえ6割しか支給されないとしても、労災扱いでなければ「全額面倒みる」ことができるのに、なぜ、労災の場合は、残りの4割を「面倒みる」ことができないのか。
 私が納得がいかないという顔つきでしばらく黙り込んでいたからだろう、所長は、「まあ、そういうことで……、労災じゃない方にしましょうよ。ちゃんと面倒は見るからさ」。
 こう言い残すと、席を立ってしまった。
 ――このようにして「労災」とその「被害者」は、法の適用を受けることなく、闇から闇へと葬られてしまうのだ。
 「無災害150万時間達成記念」。こう記された木製の塔が、福島原発構内の道路際に誇らしげにたっている。東電のいう「無災害」とは、災害が発生しなかったことではなく、災害が公にならずに済んだこと――ではないのだろうか。(206−207頁)


こういうことは、原発以外でも、全国各地の作業現場で行なわれている。

労災隠しは横行している。

何年も前に紹介した本にも、似たエピソードが紹介されていた。

ひょっとすると日本では日常的な風景なのかもしれない。

……東電(電力会社)が原発の安全性を主張するあまり、「異常」とも思える対マスコミ・対住民への“配慮”が、有形無形の圧力となって業者にはね返っているのではないか。「事故・故障隠し」や「労災隠し」は、同じ一本の根から派生しているのだ。(210頁)


いまも現場作業員たちは、被曝を強いられている。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


原発ジプシーのことを、メディアはほとんど取り上げてこなかった。

もうひとつメディアが取り上げてこなかったことがある。

「黒人労働者」の存在である。

 77年3月、福島1号機で給水ノズルと制御棒駆動水戻りノズルにヒビ割れ発見。この時期に、GE社のアメリカ人延べ118人、黒人労働者も延べ60人が動員されている(78年2月県議会で松平勇雄県知事の答弁)。……
 黒人労働者は、福島原発だけでなく、敦賀原発でも働いている。67年から69年にかけて約150人、77年4月から5月に約60人――78年2月、衆議院予算委員会で草野威議員が明らかにした数字だ。これらの黒人労働者は、いずれも高汚染エリアで劣悪な労働をしているという話を私は耳にしていた。(222−223頁)


彼らは、日本人労働者よりも多くの放射線を浴びていたという。

犠牲を強いられるのは、いつでも社会的弱者である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


原発施設内の労働者には、
彼らでなければ知ることのできない〈痛み〉がある。

 ……管理区域内に一歩踏みこんだら最後、大小便はもちろん、水を飲むことや食事・喫煙、さらには汗を手でぬぐうことも、疲れたからといって床に坐りこんだり壁に寄りかかることさえ“禁止”されている。つまり労働者は、自分が生命体であることの証しである「生理」すらも捨て去ることが強制されているのだった。(316頁)


「生理」を疎外された人間が、
コンクリートとパイプで構築された危険施設のなかで、
肉体の叫びと悲鳴を抑えながら作業に従事している現実。

それこそが〈痛み〉であると、著者は言う。

この厳重に規制された放射線管理区域と同じ放射線量、
あるいはそれ以上の線量に汚染された地域が、
すでに日本のなかに出現している。

原発のなかに、ではない。

原発の外に、である。

3.11以後、子どもたちはそういう汚染地域でいまも暮らしているのだ。

多くの日本人は、この子どもたちを見棄てることにしたのである。

……事故発生からしばらくたったある日、たまたま東電のサイトをインターネットを通して直接のぞきに行った教え子さんが、信じられないような光景を目撃している。「原子力データライブラリー」と題する情報公開コーナーが根こそぎ削除されてしまっていたのだ。それも、《皆さまからご信頼いただけるよう、これからも徹底した情報公開に努めてまいります》と、以前には誇らしくも堂々と宣言文を掲げていた、そのページさえもがきれいに消し去られてしまっていた。東電としては《皆さまから(の)ご信頼》なんてもう頂戴しなくていいと思っているのかも。いや、半分やけっぱちで、あとの半分は開き直りかもよ。教え子さんたちは一様に驚き、さかんに首を傾げていた。ちなみに同コーナーには、私たちの保存サーバーで確認してみたところ、労働者に関する情報だけでも、「原子力発電所ではどのくらいの人が働いているの?」「原子力発電所で働く人への放射線の線量は?」等々、興味深い資料が少なからず含まれていたのだが……。(342−343頁)


事故後、原子力マフィアは口を揃えて言った。

「これからは安全管理を徹底し、再発防止に努める」と。

だが彼らが真っ先にはじめたのは、これまでと同じ情報の隠蔽だった。

……原発から原発へと渡り歩く“原発ジプシー”と呼ばれる日雇いの下請け労働者……。社会的に生み出された下請け労働力を積極的に取り込み、利用し終えると「棄民」化するという構図は、原発だけでなくコンビナート等もまた同様のものを持っている。だが、原発とコンビナートとは決定的な相違点が一つある。それは、原発が吐き出す「棄民」は、放射線をたっぷりと浴びた「被ばく者」となっていることだ。原発内の労働が、作業量ではなく、放射線を浴びることがノルマになっているという事実からすれば、労働者を「被ばく者」とすることは、むしろ前提条件でさえあるのだ。こうしてみてくると、原発には、他の産業とは比較にならぬほど露骨に資本や国家権力の「論理」が投影されているように私には思えてならない。(317−318頁)


反原発の思想は、だから、資本と国家の論理を批判するものでなければならない。

反原発の運動は、デモクラシーの敵との闘いである。










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内 容 ニックネーム/日時
> 日本人は、原発作業員を犠牲にしておきながら、
> 自分たちだけはのうのうと豊かな生活を享受してきた。
とありますが、では、そうではない在り方というのは、どういうことなのでしょうか。

> 彼らの存在に心を痛める日本人は、ほとんどいなかった。
心を痛める、ということなのでしょうか。

「棄民としての原発作業員」とは、ある痛烈なる事実の一面ではあると思いますが、そのことに胸を痛めるだけでは、かえって原発への視点がぶれるような気がしてなりません。
これは当事者に聞いた話ですが、原発作業員の中にも業界を上手く渡り歩く人も当然いて、そういう人たちはかなりの額の収入を得ていました。いや、別に収入が多いことを批判するわけではありませんが、原発作業員の方たちは本当に「使い捨てられた」だけなのか――それは違うと思うのです。

現場の方々を指弾するつもりはありませんが、でも、つきつめれば、作業員の方も原発を支える側にいるのではないでしょうか。
差別され、他の仕事につけない最下層であるがゆえに原発ジプシーにならざるをえない、という面もあるのでしょうが、でも、でも、でも、それ、本当に原発だけ??
ぶっちゃけ、福祉の現場も同じようなものだけどなぁ〜
人が全然足りてないから誰でもいい来て!って状態なのになぁ〜
って思います。だったら、福祉のほうがよっぽど社会のためですよ。たぶん給料は福祉のほうが低いですけど、被曝もしないし。
そして福島の現場には東電の正社員こそ、責任を取って行けばいいんじゃないですか。

話が少しそれましたが、「原発作業員に思いを馳せる」ということがどういうことなのか。
引っかかったのでコメントしました。長文失礼しました。
パンダ
2012/12/23 01:27
◆パンダさま

1年半も前にいただいたコメントですが、お礼を言います。

原発作業員が原発に関してまったくの無実だったとは思いませんし、そう述べてもいません。ほかの記事を読んでいただければ分かると思いますが、原発作業員にも責任があるし、原発に反対してきたひとにだって、私たちにだって、責任がある。そのことは、戦争責任について書いてきたわたしの記事をご覧になれば分かると思うのですが。

しかしながら、「結構いいカネをもらってきたくせに」というイメージは、中抜きされ搾取されてきた労働者のことを見逃しています。ガンなどで人知れず亡くなっていった労働者のことを見逃しています。ほかの業界にも似たような問題はあるではないか、原発だけではないではないか、という反発は、差別問題でくり返し加えられてきたバッシングに構造がとても似ています。たとえ多額の報酬を得たひとがいたとしても、犠牲の構造は何ひとつ変わっていません。原発事故が起きてすぐに、わたしは、原発を受け入れた地域のひとも批判の対象にしました。地方のひとたちが全員犠牲者であると言ったことはありません。それでも犠牲の構造はやはり存在しているのではありませんか?

東電の正社員には一般市民よりも大きな直接の責任があるというのも、わたしが主張してきたことです。福祉の現場も似たようなものだとおっしゃりながら、福祉に来たほうがいい、被曝もないし、と述べておられるところを見ると、コメントの論点がだいぶ混乱されているように思われます。

原発作業員に思いを馳せるというのは、彼らに犠牲を強いる構造をつくっているわれわれの罪深さをじりじりと噛みしめ、苦しみ、もだえ、責任ある者たちに責任をとらせ、われわれも各自の責任を果たす、という意味です。
影丸
2014/05/12 00:31

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堀江邦夫『原発ジプシー[増補改訂版]』(現代書館) フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
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