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zoom RSS 山本義隆『福島の原発事故をめぐって』(みすず書房)

<<   作成日時 : 2012/12/19 13:39   >>

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あの山本義隆が、原発問題の本を書いた。

あの山本義隆と言っても通じないひとは、それだけで反省すべきである。

深く己を恥じ、猛省すべきである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


原発は危険だ。

原発は高コストだ。

原発は非効率だ。

原発は被曝者を必ず生み出す。

原発はとてつもない環境破壊をもたらす。

原発は百害あって一利なしだ。

原発にはいくつもの問題点がある。

というか問題しかないのだが、
今回の原発事故から人びとが得ようとしている教訓は、
十分な対策をとっていれば原発は必要だというものだろう。

事故を招いたのは非常用電源が機能しなかったからで、
海水注入が遅れたからたまたま事故が大きくなったにすぎない。

そう人びとは考えようとしている。

だがそれはウソだ、と著者は言う。

むしろ本質的な問題は、政権党(自民党)の有力政治家とエリート官僚のイニシアティブにより、札束の力で地元の反対を押しつぶし地域社会の共同性を破壊してまで、遮二無二原発建設を推進してきたこと自体にある……。(4頁)


石原慎太郎をはじめとする原子力マフィアの手先は、
原発を廃止すると日本経済は大変なことになる、と国民を脅迫している。

橋下徹は大飯原発の再稼働を夏限定で容認したはずなのに、
冬になっても原発を止めようともしないし、
即時脱原発を主張する政治家は無責任だとまで言い始めている。

こんな脅しに屈する国民が存在することも不思議なのだが、
電気が足りなくなると困ると思っている国民が実際にいる。

電気が足りなくなるから即時脱原発には反対だというひとがいるが、
そういうひとたちは地域社会を壊してもいいと主張しているのである。


誰もこれに反論することはできない。

実際に福島第一原発で事故が起きたからだ。

現実に福島第一原発周辺地域は破壊されてしまったのである。

付け加えれば、事故が起きなくても、原発は地域を破壊する。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


1945年の敗戦。

日本人の多くは「もう戦争だけはコリゴリだ」と思った。

だが、日本の科学者たちはそうは考えなかった。

この時代、日本の多くの科学者が戦争への「反省」として語ったのは、米国との「科学戦」に敗北した自分たちの力不足であった。(14頁)


戦争をしたことがいけなかったのではない。

科学技術のレベルが低かったことが問題だったとされたのだ。

こうして日本は、
一方で「唯一の被爆国」を言いながら、原子力を導入することにした。

その目的は、ずばり核武装であった。

あの岸信介はそれを隠そうともせずに明確に述べていたし、
その方針に沿って国の政策も検討されていたのである。

日本で最初の商業用原子炉東海原発が運転を開始してから3年後、NPT(核拡散防止条約)が発効する前年の1969年に外務省の非公式組織である外交政策企画委員会によって作成された「わが国の外交政策大綱」の次の記述は、岸の語った路線がなお継承されていたことを示している。
 
核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面、核兵器は保有しない措置を取るが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャル〔潜在能力〕は常に保有するとともに、これに対する掣肘を受けないように配慮する。
(18頁)


そしていま、犯罪者の孫が、再び国家権力を手にしようとしている。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


日本は、着々と原爆の材料を溜め込んでいる。

国際社会は疑惑のまなざしで日本を見ている。

クリントン政権下の米国国会でも、日本に対する懸念が表明されていた。

にもかかわらず、使用済み核燃料の直接処理ではなく、より多くのコストと危険のともなう再処理に固執する日本の姿勢は、アジアの諸国にはきわめて危険に映っているであろうし、まちがいなくアジアに緊張をもたらすものである。(21−22頁)


日本が再処理にこだわるのは、原爆の材料を生産するためである。

日本人は北朝鮮や中国の脅威ばかり強調するのだが、
アジア最大の脅威はじつは日本だったのである。

日本が原発にこだわるのは、電気のためではない。

原爆の材料を生産したいからなのである。

今年の『朝日新聞』7月21日の記事では、日本は国内に核兵器1250発分に相当する10トンのプルトニウムを貯めこんでいるとされる。これは米露英仏についで世界で5番目で、アジアでは断トツに多い。(23頁)


こんなことをしておきながら、
国際社会に向かって「唯一の被爆国」「平和主義」を唱える恥知らずな国。

それが、わが日本である。

日本という国は、つまり、大ウソつきの国である。

日本という国は、つまり、危険きわまりない国である。

 潜在的核兵器保有国の状態を維持し続け、将来的な核兵器保有の可能性を開けておくことが、つまるところ戦後の日本の支配層に連綿と引きつがれた原子力産業育成の究極の目的であり、原子力発電推進の深層底流であった。とするならば、脱原発・反原発は、同時に脱原爆・反原爆でなければならないと言えよう。「軍縮や核実験禁止問題など」についての「国際的発言力」を高めるためには、核兵器保有の潜在的能力を高めなければならないという岸の倒錯した論理を、原発とともに過去のものとしなければならないであろう。(24頁)


このような日本人を、いったい誰が信用するというのだろうか?


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


日本人の多くが原子力に魅惑されてきた。

どうしてなのか?

それは、原子力が「先端科学技術」というイメージを持っていたからだ。

だが、原子力は問題だらけである。

 無害化不可能な有害物質を稼動にともなって生みだし続ける原子力発電は、未熟な技術と言わざるをえない。(33頁)


未熟な技術を先端科学技術と錯覚する。

この構図は、臓器移植を先端医療だと思い込む日本人の姿と同じだ。

必然的に生み出される核廃棄物、これの処理をどうするつもりなのか?

高レベル廃棄物の管理には、何と数万年もの期間が必要なのだ。

数万年といえば、その間には日本列島の形すら変わっているであろう。そもそもがホモ・サピエンス(現生人類)が誕生したのがいまから3ないし4万年前のことである。(37頁)


いったい日本人は、どこまで愚かなのだろうか?

東京電力という企業が、数万年先も存続していると思っているのか?

日本政府が数万年先まで存在しているとでも思っているのか?


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


1950年代、人形峠でウラン鉱床が発見された。

原子力燃料公社は試掘を行なったのだが、ウラン残滓をそのまま放置した。

80年代になってそのことが発覚したものの、
公社を引き継いだ動燃(動力炉・核燃料開発事業団)は対応もしなかった。

最高裁まで争われた裁判で住民側が勝訴するのだが、
その「危険なゴミ」をいったいどうしたと思うか?

……日本原子力開発機構と名前を変えた動燃は、とくに放射線量が高い残土290立方メートルを、なんと米国ユタ州の先住民居留地に搬出したと報道されている。(40頁)


原発の稼働現場でも、深刻な汚染は起きる。

元原発作業員がこう証言している。

 冬に定検〔定期点検〕工事をすることが多いのですが、定検が終わると、海に放射能を含んだ水が何十トンも流れてしまうのです。……海に放射能で汚れた水を垂れ流すのは、定検のときだけではありません。原発はすごい熱を出すので、日本では海水で冷やし、その水を海に捨てていますが、これが放射能を含んだ温排水で、1分間に何十トンにもなります。

 定検では、放射能を有する気体も待機中に放出されている。このように原発は、それ自体が放射能と熱の二大汚染源である。(41頁)


だから筆者は、強い調子でこう述べる。

 原子力発電は、たとえ事故を起こさなくとも、非人道的な存在なのである。(44頁)


ゆえに、日本人は非人道的なのである。

日本人に人道を語る資格はない。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


原発を支えてきたのは、近代的な自然観である。

16〜17世紀に西欧で誕生した自然観である。

本書の特徴は、科学史と原発問題を結びつけているところにある。

長くなるが、引用しておく。

 自然認識における近代への転換を象徴しているのが、滑らかな斜面にそって物体を滑らせ、水時計でその時間を測定することで、真空中での物体の落下距離は落下時間の2乗にしたがって増加するという法則を立証したガリレオの実験であった。しかし自然界には真空は存在しない。それゆえこの法則は当初「思考実験」として論証によって導かれたのであり、彼の実験は思弁と経験を結合するはじめての仮説検証型の実験であった。滑らかな斜面を用いることで落下時間を引き延ばして時間の測定を容易にし、かつ空気抵抗の影響を低減させることで自然界には存在しない真空中での落下という理想化状況に人為的に近づけてなされたその実験の目的は、それまでの魔術師による自然の模倣としての驚異の再現や技術者による闇雲な試行錯誤をつうじてのノウハウの改良ではなく、時間と空間の関係としての定量的法則を確立することであった。ガリレオは、人為的に構成された理想化状況で精密な観測を行うという職人的技芸と抽象的概念を操作するスコラ的論証技術を結合させたのである。
 このガリレオの実験の意義を、カントは「理性は一定不変の法則にしたがう理性判断の諸原理を携えて先導し、自然を強要して自分の問いに答えさせねばならない」ということを自然科学者が知ったことに求めている。「それはもちろん自然から教えられるためであるが、しかしその場合に、理性は生徒の資格ではなくて本式の裁判官の資格を帯びるのである」。ここには、人間が自然の上位に立ったという自覚が鮮明に窺える。そしてそれは「自然の秘密もまた、その道を進んでゆくときよりも、技術によって苦しめられるとき、よりいっそうその正体を現す」と言ったフランシス・ベーコンから「私が元素の混合によって生ずるといわれている諸物体そのものを試験し、それらを拷問にかけてその構成原質を白状させるために忍耐強く努力したとき」と語る口バート・ボイル、そして「自然は、より穏やかな挑発では明かすことのできないその秘められた部分を、巧みに操られた火の暴力によって自白する」というジョセフ・グランヴィルにいたるまでの17世紀の論客に共通する、能動的な、というよりむしろ攻撃的な実験思想に発展してゆく。
 これとならんで、ケプラーやフックやニュートンによって、かつては魔術的文脈で語られていた自然の力にたいする物理学的で数学的な把握――力概念の脱魔術化――が進められていった。
 その延長線上に科学技術による自然の征服という思想が立場する。実際、「技術が自然と競争して勝利を得ることにすべてを賭ける」と語るベーコンにとって、自然研究の目的は「行動により自然を征服する」ことにあった。これは1620年の『ノヴム・オルガヌム』の一節であるが、そこには「技術と学問」は「自然にたいする支配権」を人間に与えるものと明記されている。機械論科学の徒デカルトもまた、1637年の『方法序説』で、新科学のもたらす「実践的な科学」によって「私たちは自然の主人公で所有者のようになることができるでしょう」と語っている。
 それと同時にベーコンは、科学技術研究の近代的なあり方をはじめて提唱した。彼は実験を語っているけれども、彼の構想した科学は事物の本質を探りだすことを目的としたことにおいていまなおアリストテレス哲学にとらわれたものであった。しかし彼は、一方で理論的学知としては、アリストテレスたち古代の哲学者たちの理論が、精緻ではあるものの現実の実践には役立たぬと切り捨て、それにたいして、自然にたいする働きかけにとって有効でかつ自然との交通の経験がフィードバックされることで次第に完成されてゆく理説を対置した。他方、技術にたいしては、それまでの職人や技術者による発明が理論的な指針にもとづかず「偶然でふとしたはずみによるもの」であったという目的意識や計画性の欠如を、その限界として指摘する。こうして彼は、近代科学技術研究のあり方として、選ばれた専門の研究者集団が国家の庇護のもとで先進的研究と技術革新を組織的かつ目的意識的に遂行するべきことを提唱し、晩年の『ニュー・アトランティス』において、その機関として「ソロモン学院」を描きだしている。近代科学技術の夢がここに語られたことになる。
 このガリレオの実験思想、デカルトの機械論、ニュートンの力概念による機械論の拡張、そしてベーコンの自然支配の思想を背景に、近代の科学技術思想が形成されていった。自然と宇宙に見られるさまざまな力を探りだし、その法則を突き止め、それを自然の支配のために制御し使役するという目的において、近代の科学技術は自然魔術思想の継承である。しかし、近代科学は古代哲学における学の目的であった「事物の本質の探究」を「現象の定量的法則の確立」に置き換えただけではなく、魔術における物活論と有機体的世界像を要素還元主義にもとづく機械論的で数学的な世界像に置き換えることで、説明能力においてきわめて優れた自然理論を作りだした。そして同時に近代科学は、おのれの力を過信するとともに、自然にたいする畏怖の念を忘れ去っていったのである。(64−68頁)


何という皮肉だろうか?

日本人ナショナリストが依拠しているのは、西欧由来の自然観だったわけだ。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


原発などという危険なものは、本当は誰も引き受けたくない。

原発に賛成だと言うひとも、段階的になくすべきだと言うひとも、
誰も自分の近所に原発を誘致しようとしない。

原発はないと困る、だけど近くにあってほしくない。

それなら田舎に押し付けてしまえ。

外国に押し付けてしまえ。

未来のひとたちに押し付けてしまえ。

このエゴイズムが日本人の本音なのだ。

税金をもちいた多額の交付金によって地方議会を切り崩し、地方自治体を財政的に原発に反対できない状態に追いやり、優遇されている電力会社は、他の企業では考えられないような潤沢な宣伝費用を投入することで大マスコミを抱き込み、頻繁に生じている小規模な事故や不具合の発覚を隠蔽して安全宣伝を繰りかえし、寄付講座という形でのボス教授の支配の続く大学研究室をまるごと買収し、こうして、地元やマスコミや学界から批判者を排除し翼賛体制を作りあげていったやり方は、原発ファシズムともいうべき様相を呈している。(87−88頁)


再確認しておこう。

原発は民主主義と共存できないのだ、ということを。

原発支持派は民主主義の敵なのだ、ということを。

原発に賛成するというひとは、ファシストである。

ファシストの本質は、幼稚なエゴイズムにほかならない。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


核の利用(核爆弾と原子力発電)は、決して人間が手にしてはいけないものだ。

 実際、原子力(核力のエネルギー)はかつてジュール・ヴェルヌが言った「人間に許された限界」を超えていると判断しなければならない。(89頁)


どういうことか?

 第一にそのエネルギーは、ひとたび暴走をはじめたならば人間によるコントロールを回復させることがほとんど絶望的なまでに大きいことが挙げられる。(89頁)


福島第一原発は、いまも深刻な汚染をつづけている。

 第二に、原子力発電は建設から稼動のすべてにわたって、肥大化した官僚機構と複数の巨大企業からなる“怪物”的大プロジェクトであり、そのなかで個々の技術者や科学者は主体性を喪失してゆかざるを得なくなる。プロジェクト自体が人間を飲みこんでゆく。(90頁)


「自主憲法の制定」と言っている政治家自身が、
アメリカの軍事戦略に飲み込まれているのと同じだ。

 3月11日の東日本の大震災と東北地方の大津波、福島原発の大事故は、自然にたいして人間が上位に立ったというガリレオやベーコンやデカルトの増長、そして科学技術は万能という19世紀の幻想を打ち砕いた。今回東北地方を襲った大津波にたいしてもっとも有効な対抗手段が、ともかく高所に逃げろという先人の教えであったことは教訓的である。私たちは古来、人類が有していた自然にたいする畏れの感覚をもう一度とりもどすべきであろう。(91頁)


原発を支える思想は、科学論としても、自然観としても、人間論としても、
あまりに時代錯誤なのである。

それなのに日本は史上最悪の原発事故をまだ解決できていない。

日本人は、あがないきれない罪を犯した。

その罪が、自分たちだけに影響を与えるならまだよい。

原発に賛成したり反対してこなかったりしたひとだけを苦しめるなら、
彼らだけが勝手に被曝してくれるなら、まだよい。

しかし原発は原発反対派にも被害を与えた。

そればかりか日本人は「子孫にたいする犯罪」を重ねている。

 日本人は、ヒロシマとナガサキで被曝しただけではない。今後日本は、フクシマの事故でもってアメリカとフランスについで太平洋を放射性物質で汚染した3番目の国として、世界から語られることになるであろう。この国はまた、大気圏で原爆実験をやったアメリカやかつてのソ連とならんで、大気中に放射性物質を大量に放出した国の仲間入りもしてしまったのである。(93−94頁)


日本人は、すでに取り返しのつかない罪を犯した。

日本の保守派・右派によれば、
「死んで罪を償うのが日本の伝統文化」だそうだ。

それならば、わたしはこう言いたい。

原発に反対してこなかった日本人は、どうか死んで罪を償ってほしい。








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