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zoom RSS シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』全2巻(みすず書房)

<<   作成日時 : 2012/07/01 14:49   >>

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ツヴァイクは、ウィーン生まれの歴史作家である。

当ブログでは過去に別の作品を紹介したことがある。

◯「シュテファン・ツヴァイク『人類の星の時間』(みすず書房)

本書は、ウィーンでの少年時代から書き起こされる。

  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「昨日までの世界」は安定した世界だった。

金持ちがいちばん偉いとされるわけではなかった。

権力者がいちばん偉いとされるわけでもなかった。

敬虔な者、バイブルを学んだ者が、ユダヤ人の仲間の内部では、富める者より千倍も貴ばれている。最も富めるものすら、その娘を商人の家の嫁にやるよりも、赤貧の精神人の嫁にやりたいと思うだろう。精神的なものの優位ということは、ユダヤ人全般を通じてあらゆる階級にゆきわたっている。風や嵐のなかを荷物を曳きずってゆく最も貧しい行商人すらも、少なくとも一人の息子を、あらゆる辛い犠牲を払っても学問させようと、努めることであろう。そして、誰か明らかに精神的人間として通る人、教授だとか学者だとか音楽家だとかを中心に持っていることは、彼がその業績によって家族の者全体の品位を高めるかのように、家族全体の名誉の称号と見なされるのである。(29頁)


友情も、いまのように数を競うものではなかった。

著者とポール・ヴァレリーの出会いのエピソードが興味深い。

かつて尊敬する友人ポール・ヴァレリーに対して、いったい私と彼との文学的な知己関係はどのくらい古いものかを語ったことがある。私は30年前にすでに彼の詩句を読み、愛したのだった。ヴァレリーは私に寛大にほほえみかけた。「だましてはいけませんよ、あなた、この詩は1916年に初めて出たのですからね。」しかしそれから、われわれが1898年にウィーンにおいて彼の最初の詩を発見した小さな文学雑誌のことを、その色や大きさなどについて微に入り細を鑿って述べたときに、彼は驚いたのだった。「しかしあれのことはパリではほとんど誰も知らなかったのに」と、彼はいぶかしげに言った。「あなたは一体どうしてウィーンで手に入れられたのです?」「ギムナジウム生徒のあなたが地方都市で、文壇が当時ほとんど知らなかったマラルメの詩を手に入れられたのと全く同じことですよ」と私は彼に答えることができた。そして彼は私に同意した。「若い人々というのは、彼らの詩人を発見するものですね、それを発見しようと思っているのですから。」実際われわれはいわば風が国境を超えてやって来ないうちに、それを嗅ぎつけた。われわれは絶えず鼻孔を緊張させて生きていたからである。われわれは新しいものを発見した。(74頁)


じつに美しい友情である。

精神と精神の出会いがここには確かに存在している。

しかし、「昨日の世界」は消え去ってしまった。

第一次世界大戦が勃発したからである。

今日われわれが落着いて考えながら、なぜヨーロッパが1914年に戦争に走ったかを自問してみるならば、理性にかなった理由はただひとつも見出せないし、動機さえも見出しえないのである。いかなる理念のためでもなく、小さな国境の地域のためでもほとんどなかった。私はあの力の過剰以外のいかなるものをもってもそれを説明することはできない。それは、この40年の平和のあいだに欝積し、そして暴力的に爆発しようとしたあの内面的なダイナミズムの、悲劇的な結果だったのである。どの国家も突然、強力であるという感情を持ち、ほかの国も全く同じようにそう感じているのだ、ということを忘れていた。各国はもっと多くを欲し、各国は他国の何かを欲したのであった。そして最も悪いことは、われわれが最も愛していたあの感情そのものが、われわれを欺いたことであった。すなわちわれわれの共通のオプティミズムであった。というのは、各国は、最後の瞬間には他国がしりごみするであろう、と信じていたからである。(292−293頁)


これはまるで現在の日本を言い当てているようだ。

「日本をもっと強力に!」。

「強い日本!」。

「圧力を加えれば、中国も北朝鮮も屈するだろう」。


著者も言うように、こうした強権的政治にはオプティミズムが潜んでいる。

自称リアリストに隠されたオプティミズム。

現実主義者の非現実主義。

リアリストこそが楽観主義者なのである。

すでに日本も、「強い指導者」を求めはじめている。

つぎに紹介する話は、著者が目撃した恐ろしい光景である。

……トゥール市で、映画館に行ってみることに決めた。
 それはちっぽけな場末の映画館で、クロームとぴかぴかするガラスとで出来ている現代の映画の殿堂とは、まだ少しも似通ったところがなかった。ただ必要なだけの設備を持った広間で、微賤の人々、労働者、兵隊、物売女というようなほんとうの大衆があふれ、彼らは愉快そうにしゃべり、禁煙になっているにもかかわらず、スカフェルラーティとかコポラールとかいう粗悪な煙草の青い煙りを、むっとする場内の空気に吐いていた。まず「世界ニュース」がスクリーンに映された。イギリスのボートレースである。人々はしゃべり、かつ笑っていた。次にフランスの兵隊行進が現われた。このときも人々はほとんど関心を示さなかった。それから第三のカットとして、「ドイツのウィルヘルム皇帝、ウィーンにフランツ・ヨーゼフ皇帝を訪問」であった。突然私はスクリーン上に、私の見慣れている汚ならしいウィーンの西停車場のプラットホームを見た。そこに2、3の警官が立って、進入して来る列車を待っているのであった。それから字幕が入った。賓客を迎えるため儀仗兵の列前を歩むフランツ・ヨーゼフ老皇帝。老帝がスクリーン上に現われ、すでに少し背中の曲がった姿で少しよろめきながら最前列に沿って歩むと、トゥールの大衆は、白い頬髯を蓄えた老帝を面白がって笑うのだった。次に画面上に列車が進入し、第一、第二、第三の車輌が入って来た。貴賓車の扉が開き、口髯を高く逆立てて、オーストリアの大将服姿のウィルヘルム2世が降りて来た。
 ウィルヘルム皇帝が画面に現われたこの瞬間に、全くおのずからに真っ暗な室内には烈しい口笛と足踏みとが始まった。すべての人々が叫び声を発し口笛を鳴らし、女も男も子供も、自分が侮辱されたように罵るのであった。新聞に書いてある以上のことを政治や世界について知ってはいない、トゥールの善良な人々は、一瞬のあいだ狂気のようになった。私は驚いた。私は心の奥底まで驚いた。なぜならば、この小さな地方都市においてさえ無邪気な市民や兵隊がすでに、スクリーンの画面をちょっと見ただけで怒りの爆発に誘われるほどに、皇帝やドイツに反対するよう煽動されているのであるから、何年も何年も前からされていた憎悪の宣伝による毒化は、どんなにか深刻に進んでいるにちがいないということを感じたからである。それはほんの1秒ほどのことであり、せいぜい2、3秒ほどのことであった。また別な画面が映ったとき、すべては忘れられていた。人々は今くり拡げられる滑稽なフィルムに腹いっぱい笑いこけ、満足の余り音をたてて膝を叩くのであった。ほんの1秒間のことではあったが、この1秒、ただの1秒は、あらゆる協調の試み、われわれ自身の努力にもかかわらず、深刻な危機の瞬間にはそこかしこの民衆を刺激することがどんなに容易でありうるか、ということを私に教えたのであった。(311−313頁)


オーストリアでは、反仏・反英感情が高まっていった。

商店に掲げられていたフランス語や英語の看板文字は、消えなければならなかった。修道院の「天使童女会」さえも改名しなければならなかった。なぜならば、民衆はこの「エングリッシュ」という言葉が天使のことを言っているのであって、アングロサクソンを意味しているのではない、ということを知らずに、興奮したからである。愚直な商人たちは、封筒に「神がイギリスを罰し給わんことを」という標語を貼りつけたり、押印したりした。社交界の婦人たちは(それを新聞の投書欄に書いたのであったが)、一生涯けっして二度とフランス語を使わない、と誓った。シェークスピアはドイツの舞台から追放され、モーツァルトとワーグナーとは、フランスとイギリスの音楽堂から追放され、ドイツの教授たちはダンテがゲルマン人であったと宣言し、フランスの教授たちはベートーヴェンはベルギー人であったと宣言した。容赦なく精神的文化財を敵国から徴発することは、まるで穀物や金属を徴発するのと同じであった。毎日互いにこれらの国々の平和な市民を何千となく、前線において殺すことでは飽き足らず、銃後では互いに、幾百年も前から沈黙してその墓に眠っている、敵国の偉大な死者たちをののしり、中傷するのであった。精神の混乱はいよいよ馬鹿げたものになっていった。自分の町を出たことはなく、学校以来地図を開けて見たこともない台所の料理女さえ、オーストリアは「ザンジャク」(ボスニアのどこかの小さな国境の一地区である)なくしては生きてゆけない。ということを信じた。(346−347頁)


日本でも現在、似た状況が生まれつつあるのではないか?

韓国人タレントを起用したという理由で企業が批判される。

中華街や朝鮮学校に対する脅迫・暴力が行なわれる。

民衆の悪意を利用して、扇動家は支持を集める。

歴史を振り返れば、こうした扇動家こそがもっとも卑怯だった。

……ヴェルフェルがその美しい詩において弾劾したあらゆる「戦争の法螺吹きども」……危惧を口に出す者は、彼らの愛国的な仕事を乱すとされ、警告する者を彼らは悲観論者と嘲り、彼ら自身はいっしょに苦しんでいない戦争に対して闘う者を、彼らは裏切り者と烙印した。慎重な人々を卑怯者と呼び、人間的な人々を弱虫と呼び、やがて彼らが軽率に招き寄せた破局の時になるとみずから途方にくれたのは、いつも同じ連中、あらゆる時代を通して永遠な徒党であった。(375頁)


突出した卑怯ということなら、エンペラーも同じだった。

最後の一兵一馬が生きている限りは戦うと誓ったウィルヘルム皇帝が国境を越えて亡命し、自分の「勝利の講和」のために何百万という人間を犠牲に供したルーデンドルフが青眼鏡を掛けてスウェーデンに遁走した日は、われわれにとって大いに慰め多い日であった。(415−416頁)


日本人ならここで、
敗戦とともに真っ先にマッカーサーに擦り寄ったヒロヒトを思い出すだろう。

岸信介や児玉誉士夫や笹川良一を想起するひともいるだろう。

彼らはいずれもアメリカのスパイだったのだ。

戦争を体験したものたちは、為政者がいかに卑怯であるかを知った。

だからアメリカ大統領ウィルソンは歓迎されたのだった。

あの時代を経験した人は、ウィルソンを地上に快癒をもたらす者として迎えるため、あらゆる町々の街路が歓呼の声で轟いたということ、敵対していた兵士たちが相抱き、接吻し合ったということを、思い起すのである。(416頁)


ひとびとは、平和に飢えていた。

平和を熱望していた。

ところが、である。

世界は再び暗黒の世界になった。

下の文章をじっくりとご覧いただきたい。

「昔は人間はただ身体と魂だけを持っていたのものです。ところが今日ではそのうえ旅券が必要なのです。それがないと人間らしく取り扱ってもらえないのですよ。」
 実際、人間の個人的な行動の自由の制限とその自由諸権利の減少くらい、第一次大戦以来の世界が陥った非常に大きな退歩を、眼に見えて明らかに示すものはないであろう。1914年以前には、大地はすべての人間のものであった。各人はその欲するところに赴き、欲するだけ長くとどまった。許可もなければ承認というようなこともなかった。私が1914年以前にインドとアメリカに旅行したときには、旅券を持っていなかったし、あるいはおよそかつてそのようなものを見たことがなかったのだ、と若い人々に語り聞かせるとき、その年若い彼らの驚きを、私はいつも興がって眺めたものである。当時は聞くこともなければ聞かれることもなく乗ったり降りたりし、今日要求される無数の書類のうちのただのひとつでも書き込む必要はなかったのだ。許可証も査証も煩瑣な手続きもいらなかった。今日税関や警察や憲兵屯所などの、万人対万人の病的な猜疑によって鉄条網に変ってしまった同じ国境は、当時はただ象徴的な線を意味するにすぎず、グリニッジの子午線を通り越すのと同じように気にも留めずに越えられたものなのである。大戦後になって初めて、国家主義による世界の混乱が始まった。そして最初の眼に見える現象として、このわれわれの世界の精神的流行病は外国人嫌いを熟さしめたのである。外国人をきらうか、あるいは少なくとも外国人に対して不安を感じることである。到る所で外国人に対して自己を守り、到る所で外国人を閉め出した。以前ならばもっぱら犯罪人に対してだけ見られたようなあらゆる侮辱が、今は旅行の前や旅行の最中にあらゆる旅行者に加えられるようになった。人は右左から、横顔と正面とから、写真を撮らせなければならないし、耳の見えるように頭髪を短く切らなければならないし、指紋をとらねばならない。それも初めは拇指だけであったが、やがて十指全部となった。そのうえ証明書類、健康証明書・予防注射完了証明書・警察の行状証明証、紹介状などを提示しなければならないし、招待状や親戚の住所を示さなければならず、素行や財政上の保証を提出しなければならず、さまざまな法式を完全にみたして、三重、四重の文書に署名しなければならない。そしてもしこれらの紙片の累積のうち、ただのひとつでも欠けていると、もう駄目なのである。
 こんなことは些細なことのように見えるし、ちょっと見ただけでは、およそそんなことを述べることも些細なことに見えるであろう。しかし、このような無意味な「些細事」によって、われわれの世代は二度とは戻らない貴重な時を無意味に浪費しているのである。旅行ごとの申告、関税の申告、外国為替の証明、国境通過、滞在許可、外国旅行の許可、滞在申告、退去申告等の法式をこの幾年かのあいだにどんなに多くみたしか、どのくらい多くの領事館や官庁の控室に立っていたか、親切なのや不親切なのや、退屈げなのや忙殺されているのや、どのくらい多くの役人の前に坐ったか、国境でどのくらい多くの検査や訊問を経験したか、ということを総計してみるならば、私は初めて、われわれが若かった頃自由の世紀、世界市民の訪れつつある時代として信じ夢見たこの世紀において、いかに多くに人間の尊厳が失われたかということを感じ取るのである。われわれの思考からどのくらい多くのものが、この非創造的で同時に魂をいやしめるあら探しによって奪われたことであろう! というのは、われわれの誰もがこの幾年かにおいては精神的な書物よりも役所の指令のほうをいっそう多く研究したのである。外国の町、外国の国土における最初の道は、もはやかつてのように博物館や風光に通じているのではなく、「許可」をとるために領事館や警察の部屋に通じたのである。以前にはボードレールの詩を語らい、精神的な情熱を傾けてさまざまな問題を討議したのと同じ人間であるわれわれだが、そのわれわれが相寄ると、捉え合っては宣誓書や許可書のことを話し、滞在の査証を申し出るべきか、観光客の査証を申し出るべきか、を話し合うのであった。待つ時間を短縮してくれる、領事館の微々たる女事務員を知るということは、最近の十年間においてはトスカニーニとかロランとかいう人々との交友よりも生活上大切なこととなった。人は絶えず、自由に生まれついた魂をもって、自分が客体であって主体ではないということを、何ものもわれわれの権利ではなくして、万事がただ官庁の恩寵である、ということを感じるのであった。人は絶えず訊問され、登録され、番号をつけられ、仔細に調べあげられ、スタンプを打たれるのであった。そして今日もなお私は、もっと自由な時代のどうにも仕込みようのない人間、夢見た世界共和国の市民として、私の旅券のなかのこれらのスタンプのどれをも烙印のように、これらの訊問や検査のどれをも屈辱のように、感じるのである。どれは些細なことであり、つねにただ些細なことにすぎないし、自分でも知っているとおり、人間生活の価値が貨幣価値よりも急速に下落した時代には、些細なことといえる。しかし、この小さな徴候をはっきりと掴んだときに、初めて後代は、二つの大戦にはさまれたわれわれの世界を捉えたところの、精神的情況と精神的混乱との正しい、臨床的な実情をはっきりと描くことができるであろう。(608頁)


現代では、パスポートを持って海外旅行に行くことに、誰も疑問を持たない。

ボディ・チェックを受け、指紋や顔写真をとられることにも疑問を持たない。

監視される世界は、当たり前ではなかったはずなのに。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


本書は、外国滞在中のホテルの一室で書かれた。

しかも戦争の只中だ。

メモも資料も見ずに、友人からの手紙も手元にないなかで、
ただ「頭脳のうちにだけある回想」によってイッキに書かれた。

そして、1942年2月。

再婚して間もない妻とともにツヴァイクはブラジルで自殺した。









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