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zoom RSS 土井隆義『友だち地獄』(ちくま新書)

<<   作成日時 : 2012/05/30 01:44   >>

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対立を表面化させないようにすること。

でも他人と積極的に関わることで相手を傷つけてしまうかもしれない。

このことを危惧する今風の「優しさ」。

他人と積極的に関わることで自分が傷つけられてしまうかもしれない。

そのことを危惧する「優しさ」。

現代の若者たちは「優しい関係」を理想としている。

これが著者の主張である。

 現代の若者たちは、自分の対人レーダーがまちがいなく作動しているかどうか、つねに確認しあいながら人間関係を営んでいる。周囲の人間と衝突することは、彼らにとってきわめて異常な事態であり、相手から反感を買わないようにつねに心がけることが、学校での日々を生き抜く知恵として強く要求されている。その様子は、大人たちの目には人間関係が希薄化していると映るかもしれないが、見方を変えれば、かつてよりもはるかに高度で繊細な気くばりを伴った人間関係を営んでいるともいえる。(16−17頁)


「最近の若者は思いやりがない」と大人は言う。

そうではない。

逆なのである。

神経質なほどに気配りをするのが現代の若者なのだ。

そのような関係の下で、互いの対立点がひとたび表沙汰になってしまうと、それは取り返しのつかない決定的なダメージであるかのように感じられる。「今、このグループでうまくいかないと、自分はもう終わりだ」と思ってしまう。現在の人間関係だけを絶対視してしまい、他の人間関係のあり方と比較して相対化することができないからである。(17頁)


では、どうして「いじめ」があるのだろうか?

最近の「いじめ」の特徴は、
特定の人物だけが被害にあうわけではない、ということだ。

いつ誰が「いじめ」のターゲットにされるか分からない。

この前までいじめる側だった子が、ある日からいじめられる側になる。

ターゲットは気まぐれに選別される。

最近のいじめは、集団内の結束のための儀式ではない。

なかば仲間扱いされたままでいじめられる、という。

他方、いじめを傍観する無関心層は、どうか?

彼らは傍観することで「優しい関係」の安定化を図っているのである。

2005年に、北海道滝川市でいじめを苦に自殺した小学生の同級生たちは、翌年になって遺書が公開されるに及んで、「俺たち、何もしていないのに悪くなっている」と語っている。ひとは、どんなにひどい結果を目の前にしても、そこへ関与が明白なものでなければ、なかなか自分の責任を自覚しにくいものである。(26−27頁)


ここには一切の責任意識が欠如している。

これは近年の右派のメンタリティと同じである。

ネットウヨクと同じメンタリティである。

彼らは「オレたち、何もしていないのに」と思い込んでいる。

だからアジア諸国から批判されると「逆ギレ」する。

中野富士見中学校のいじめ自殺事件では、屈辱的な仕打ちを受けていたにもかかわらず、「むしろおどけた振る舞いで応じたり、にやにや笑いを浮かべてこれを甘受していた」……。(30頁)


この事件は覚えているだろうか?

担任教師まで加わった「葬式ごっこ」で衝撃を与えた事件である。

……2006年に福岡県でいじめを苦に中学生が自殺した事件では、同級生たちから「きもい」「目障りだ」と言われつづけていたにもかかわらず、被害生徒はけっして笑顔を絶やさなかった。いじめていた側の生徒も、「笑っていたからいじめになるとは思わなかった」と弁明している。同年に、大阪府富田林市でいじめを苦に中学生が自殺した事件でも、同じ学校の生徒たちは、「あれはいじめじゃなくて、皆でやった『おちょくり』だ」と語っている。(31頁)


ここにはやはり責任意識がまったく見られない。

ある種の当事者意識も欠落している。

 かくして「優しい関係」を営む子どもたちは、いじめて笑い、いじめられて笑う。傍観者たちもまた、それを眺めて笑う。互いに遊びのフレームに乗りきり、彼らが「いじり」と呼ぶような軽薄な人間関係を演出することで、いじめが本来的に有する人間関係の軋轢が表面化することを避けようとする。そのテクニックは、テレビのバラエティ・ショーなどから学ばれることも多い。(32頁)


むろん被害者が笑うのは楽しいからではない。

絶望がしぼり出す笑顔。

中野富士見中学校のいじめられた生徒の笑い顔。

自分の人生を冗談めかして眺める態度は、悲惨な境遇におかれた人間がしばしば見せるものであり、自分の尊厳を守るための心理的な反応の一つである。(32−33頁)


いじめられている子が笑っていたのは、おかしいからではない。

楽しいからでもない。

いじめられて楽しいわけがあるまい。

だが裁判所はこのことをまったく理解しなかった。

本書を読むと、裁判官たちの無理解に読者は衝撃を受けるにちがいない。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


少女たちの息苦しさは、しばしばリストカットへ走らせる。

ここで著者は、有名な2冊の本を取り上げる。

高野悦子の『二十歳の原点』。

南条あやの『卒業式まで死にません』。

いずれも自殺した若い女性の日記だが、
2人のあいだには30年もの距離がひらいている。

永山則夫と秋葉原通り魔事件のK青年の対比と同じように、
高野悦子と南条あやを対比することで社会状況のちがいが見えてくる。

高野悦子は、貨物列車に飛び込み自殺を遂げている。

南条あやは、向精神薬を大量に服用して自殺している。

前者は全共闘時代、後者は現在。

 日記集のタイトルにも表われている2人の対照性は、結局、彼女たちが死を選んだ場所にも投影されることになった。高野は、はるか彼方へと続く鉄道の線路に立ち、自らの人生を終わらせた。……
南条は、遊びなれた渋谷のカラオケボックスのなかで、自らの人生を終わらせた。(88頁)


彼女たちは、生きづらさの前で「より望ましい自分」を求めていた。

しかし生きづらさの根源は異なっていた。

ひとりは「変わりゆく私」であり、ひとりは「変わらない私」だった。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


ひきこもりの青年たちの口からよく聞く言葉があるという。

「純度100パーセントの私」。

「純度100パーセントの関係」。


純粋な自分に対する強いこだわりが見られる。

かつてなら、純粋な自分を求めれば、それを拒む社会との対決が必要だった。

薄汚れた大人の社会と対決することで自分の純粋さが確証されていった。

しかし、現在は、社会という存在はほとんど意識されていない。

それより、身体性へとストレートに結びつく。

テレビ番組で「天然キャラ」が人気を博すのもこのことと関係している。

「天然キャラ」とは、「天然ボケ」のことである。

天然とは、脱社会的なものである。彼らに惹かれる視聴者の多くは、そこに演技性を超えた脱社会的な純粋さを見出しているのだろう。(111頁)


わたしも若い女性たちからよくこう聞かされる。

「わたし、よく友だちから、天然って言われるんです」

「わたしよく『天然入ってるよね』って言われるんです」


こう言うひとがとても多い。

まるで「あ、ポリフェノール入ってる」みたいなこの言い方。

しかも、そう報告してくる彼女たちは、どこかうれしそうなのだ。

わたしから見れば大した個性とも呼べないありがちな「天然」でも、
彼女たちにとって「天然」は自分を際立たせる印である。

「天然入ってる」というのは、もちろん「パーマ」のことではない。

「天然ボケ」のことである。

このようなメンタリティのもとで、死や悲劇は純愛を盛り上げる背景である。

リストカットも自分の純度を高める試みである。

近年、「泣ける」と評判の映画や小説には、死や病が不可欠な装置だ。

ケータイ小説を見てみれば分かる。

純愛ドラマを見てみれば分かる。

『五体不満足』が大ヒットしたのも、身体の障害が純粋さを際立たせるからだ。

「心の傷」というよく使われるフレーズにも、同じような要素が見られる。

傷つきやすい「心」は、わたしの純粋さの証だからである。

そして「泣ける自分」も、自分の純粋さを保ってくれているのだ。

リストカットを繰り返す少女たちは、身体で生きづらさを表現する。

そこに彼女たちの身体感覚がある。

 したがって、ある状況に対する不快感や、ある人物に対する嫌悪感を表わすために、近年の若者たちが「むかつく」を多用するという事実は、そうした社会的に不快な感情を、身体的な感覚と同じものとして感じる傾向を強めていることの表われともいえる。だから、他人から悪口を言われて「むかつく」と同時に、テストの点が悪くても「むかつく」し、恋人にふられても「むかついて」泣くことになる。心の動揺の根拠がまったく異なるはずの感情を「むかつく」の一言で表現しうるのは、彼らの最大の関心事が、心の動揺の理由にではなく、動揺している身体的感覚そのものにあるからだろう。(116−117頁)


それは、内部から湧き上がってくる抑えがたい感覚である。

 このように考えると、不都合な状態や危険を示す「やばい」という表現や、恐怖の強さや気味の悪さを示す「鳥肌が立つ」といった表現が、今日の若者たちのあいだでは、それとは正反対の称賛や感動を表わす言葉としても使われる傾向にある理由がよく分かる。「この料理、やばいよね、鳥肌が立ったよ」といった表現が、非難の文脈ばかりでなく、最高のほめ言葉としても成立しうるのは、自分の気持ちが大いに高ぶったという点で、どちらも同じような身体感覚をともなっているからだろう。彼らがそこで表明したいのは、心を大きく動かされた根拠の具体的な中身ではなく、その身体感覚の高まりであり、その強度なのである。(117頁)


「あのひと、やばくな〜い?」は、しばしば褒め言葉である。

「やばいくらいに素敵なひと」という意味をあらわす。

 近年のこのようなメンタリティの変化は、社会学者のR・べラーの言葉を借りて、「善いこと」(being good)から「いい感じ」(feeling good)への評価基準の変転といってもよい……。(117−118頁)


「善いこと」の根拠は、社会的なものである。

だが、「いい感じ」は自分の身体感覚そのものである。

こうした感覚をもつひとびとは、少しでも傷がつくとパニックに陥る。

人間関係がうまくいなかったり、ひとから注意されたりすると、
まるで自分という存在が全否定された感覚に陥ってしまう。

傷は自分の存在基盤を揺るがす重大事なのである。

純粋な自分を支えるためには、しかし、周囲からの絶えざる承認が必要だ。

ここにパラドキシカルな状況がある。

感覚と直感に根拠づけられる「わたし」はきわめて不安定である。

それを解消するためには身近なひとからの絶えざる承認が必要なのだ。

それこそが不確かで脆弱な「わたし」の基盤を補強してくれるからだ。

だが、人間関係への依存を強めれば現実には摩擦が起きかねない。

これが「純粋な自分」というパラドクスである。

 国連児童基金の調査データによると、「孤独を感じる」と答えた日本の15歳は、先進主要国のなかでトップの約30パーセントである。2位のアイスランドが約10パーセント、以下、ロシアの約9パーセント、カナダの約8パーセントと続く。(121頁)


ここでわたしたちは注意すべきである。

孤独を感じるのは人間関係が稀薄だからなのではないのだ。

逆なのである。

しばしば世間のひとびとは、
「最近の若者はコミュニケーションが希薄になった」と、
まるでオウムのように同じようなことを言う。

だが、そうでなない。

逆なのである。

人間関係への依存度が高いために小さなニュアンスにも敏感になるのだ。

ある似かよった傾向を示す若者たちの一群をさして、かつては「○○族」のような括り方をすることが可能だったが、昨今ではそこまでの強い同質性が見られなくなり、「○○系」といった緩やかな括り方しかできなくなっている。(123頁)


大人から見えにくくなっている若者たちの姿。

無理解な大人たち。

 大人たちの目には、現在の若者たちの人間関係が、コミュニケーション能力の不足から希薄化しているように映るかもしれない。しかし、実態はむしろ逆であって、かつてより葛藤の火種が多く含まれるようになった人間関係をスムーズに営んでいくために、高度なコミュニケーション能力を駆使して絶妙な距離感覚をそこに作り出そうとしている。……現代の若者たちは、互いに傷つく危険を回避するために、人間関係を儀礼的にあえて希薄な状態に保っているのである。(125頁)


こうした大人の浅薄な偏見は、じつは若者自身にも共有されている。

わたしはそう感じる。

なぜなら、若者自身も同じようなことをしばしば口にするからだ。

昨今の若者たちは、可能ならどこまでも純粋な自分でありたいと願っている。そして、純粋な関係を築きたいと願っている。(125頁)


だから、「ひきこもり」に対してお説教をしてみても、無意味である。

ひきこもりの青年たちは、「優しい関係」に付随する自己欺瞞に耐えきれず、純粋な自分を守ろうとして他人とのコミュニケーション回路を切断しているのかもしれない。しかしその結果、今度は他人からの承認という支えを失って、その純粋な自分の肯定感を維持すづらくなっているようにも見受けられる。純度100パーセントの自分への想いをどこかで断ち切らない限り、このジレンマから逃れる道を見つけだすことは難しいだろう。(126頁)


ずっと前にも書いたことだが、もう一度触れておきたい。

「ひきこもり」を非難する大人も、じつは「ひきこもり」である。

「日本」という小さな薄汚れた空間の「ひきこもり」だ。

ベネッセ未来教育センターが中学生を対象に2004年に行なった調査では、7〜8割の生徒が親との関係は良好だと答えている。ひきこもりになる青年には、思春期に反抗期がみられないという特徴があるとよくいわれるが、それは彼らだけに見られる特別な傾向などではなく、近年の若者たちに共通する一般的な傾向なのである。(131頁)


彼らは、だから、自分の純粋な世界にヒビが入るとパニックに陥る。

たとえば、「友人が無視したから死にたい」「両親が自分を置いて出かけたから死にたい」「恋人と別れたからリストカットした」「だれとも電話が通じないから死にたい」などです。〔中略〕1人でいることができず、常に出会いや携帯電話、メールでだれかとつながっていないと寂しくていられない。ちょっとした失敗や心に刺さる一言で、がたがたに心を傷つけられてしまう。」(137頁)


ここに溢れているのは、「見られないことへの不安」である。

 ……「見られることの不満」から、「見られないことの不安」へ……。(137頁)


高度成長時代の意識とはまったく逆の「不安」なのである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


現代の若者はコミュニケーションが希薄化している、と世間のひとは言う。

だが、若者は、1日に100通や200通のメールをやりとりしている。

希薄化どころかきわめて活発なのである。

とはいえ、そこでやりとりされるのは「内容」ではない。

……彼らのコミュニケーション欲求の背後にあるのは、何かを伝えようとする「意味伝達指向」ではなく、つながること自体をめざす「接続指向」である……。(144頁)


だからケータイ・メールは、「用件」を伝えるためのメディアではない。

「ふれあい」を目的としたメディアなのである。

 ある高校生は、自分の気に入らないメールが入ってきたケータイ端末を、思わず両手でひねって壊してしまったという。この生徒が激高したのは、ケータイがたんなる情報伝達の道具ではなかったからである。ケータイは、……「極限の直接性」を有している。(159頁)


おそらくこの直接性は身体と直結する感覚にほかならない。

 ……彼らが求めてやまない純粋な関係とは、思想や信条のように社会的な基盤を共有した関係でもなければ、役割関係のような集団の秩序に支えられた関係でもない。いわば直感的な感覚の共有のみに支えられた情緒的で不安定な関係である。(164頁)


情緒的な関係は、当然のことながら不安定である。

しかしそれによってもたらされる「不安」に若者は苛まれる。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


いま若者を飲みこんでいるのは、「不安」である。

評論家の芹沢俊介はこう書いているという。

……「おそらく若い自殺志願者たちの共通にかかえる苦悩があるとすれば、この世に生まれたことに意味を見いだせないことではないか」……。(181頁)


社会学者の大澤真幸は、こう書いているという。

……生活に不自由のない若者がオウム真理教へ入信した背景を考察して、「生の名状し難い空虚」があると推察し、「生のどこにもめりはりのきいた不幸や苦難がないということ、つまり(理想状態に対する)「欠如」がどこにもないということ、このことが、オウムへと参加する選択を規定している」と指摘している……。(182頁)


ゆえに、自殺願望者が不安を抱えているというのは、
いまも昔も同じなのではないか、と考えるのはまちがっている。

「若者よ、夢を持て」とアドバイスするのも、完全にまちがっている。

トラウマのグループセラピーへのある参加者は、「自分の存在意義を確かめたい。その手がかりが欲しいんです」と語っている……。(192頁)


彼らが抱えているのは、自分の存在への不安だ。

近年、自らのトラウマ体験をむしろ積極的に語ることで、それを自らのアイデンティティの核にしようとする若者が目立つようになっている。(192頁)


こんなことを深刻な表情で語る若者までいるという。

……「治ったらどうしようかと今、真剣に悩んでいます」……。(192頁)


よく考えるとおかしいのだが、
彼らにとっては「悩みのない自分」は「無」に等しいのかもしれない。

 トラウマとは、いまの自分がけっしてニセモノではなく、正真正銘のホンモノであることを示してくれる品質保証ラベルのようなものである。(194頁)


神戸の児童連続殺傷事件で酒鬼薔薇少年が、
「透明な存在」と言っていたのを思い出すひとも多いだろう。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


よく雑誌で「モテるタイプ/嫌いなタイプ」のアンケート調査を行なっている。

わたしの不確かな記憶によれば、
1980年代後半の「モテるタイプ」は「おもしろいひと」だった。

「嫌いなタイプ」は「清潔感のないひと」だったように思う。

博報堂生活総合研究所の原田曜平が2002年から5年間にわたり、10代の若者を対象に行なってきたヒアリング調査では、好感のもてる同性のタイプを男子に聞いたところ、第1位は「他人に配慮ができる人」であるのに対し、嫌いなタイプの第1位は「場の空気が読めない人」である……。(200頁)


この調査は同性間のイメージを調べたものだが、
わたしの学生時代には絶対に出てこなかった答えだと思う。

では、場の空気になじむ没個性的な自己が理想的なのか?

もちろんそうではない。

……若者の側は、「純粋な自分」への憧れという形で、「潜在的な可能性を秘めた自分は高く評価されて当然だ」という内閉的な自己期待感を、周囲からの評価とは無関係に高めている……。(208頁)


「周囲からの評価とは無関係に」という点が重要だ。

 彼らが抱く「自分は特別だ」という感覚は、具体的な人間関係のなかで自覚され、それゆえに社会的な根拠にもとづいて培われたものではない。ダイヤモンドの原石のごとく生得的に備わった実体であるかのように、ただ内閉的に思い込まれた特別感である。(208頁)


ここで誰もが想起するのは、あのフレーズだろう。

「ナンバーワンより、オンリーワン」。

この点をふまえると、ネットでつながる集団自殺も理解できる。

 ネット集団自殺を企てる仲間は、「自殺を肯定する」という一点のみを絆として築かれた関係である。しかし、死という絶対的で純粋な接点だけでつながっているからこそ、純粋な関係と彼らが感じうるようなリアリティがそこに成立することになる。互いの内面的な問題について彼らがあまり触れたがらないのは、それにともなってさまざまな雑音が侵入してくるのを避け、互いの関係における純粋さのリアリティを保つためである。(211頁)


純粋な関係はかくも若者を捕らえて放さない。

 ……ネット上で募られる自殺仲間も、「スタジオの観客」や「泣き女」とほぼ同じ役割を果たしている。あたかも純粋な関係が成立しているかのようにふるまう他者の存在が、あたかも純粋な関係が成立しているかのように自分もふるまうことを可能にする。(214頁)


「スタジオの観客」というのは、
バラエティ番組のスタジオに来ている観客のことだ。

大しておもしろくもない番組でも、彼らが大笑いしてくれることで、
視聴者は「おもしろい番組」「おもしろい芸人たち」と錯覚できるのだ。

「泣き女」というのは、葬式のときに泣く役を演じる女性のことだ。

 日常生活においてある特定の相手に親密な感情を抱くことと、その人物の社会的な属性をよく知っていることとは、かつてのようには連動しなくなっている。互いの職業や学校などをあまり詳しく知らなくても、親密な関係が成立しやすくなっている。(219頁)


相手を深く知ろうとすることで関係を築くわけではない。

相手との関係で重要なのは、「優しい関係」であるかどうかである。

摩擦のないフラットな「優しい関係」。

ここでわたしはさらに加えておきたい。

逆に、相手の社会的属性を知ったからといって、
そのひとを深く理解したことにもならない、ということだ。

中高年のひとたちが理解できていないのは、このことである。













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