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zoom RSS 土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』(岩波ブックレット)

<<   作成日時 : 2011/07/03 04:47   >>

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「便所飯」という言葉をご存知だろうか?

年末のお笑い番組に毎年登場するちっとも面白くない漫才師のことではない。

教室でみんなとお弁当を食べることができず、
トイレに入ってひとりで食べることを「便所飯」と言うらしい。

なぜ彼・彼女はトイレに入って弁当を食べるのか?

ひとりでも教室で黙々と食べていればいいのに?

そうではない。

ひとりで食べている姿をひとに見られるのに耐えられないのである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


つながっていないと不安になるひとたちが増えていると言われる。

……ケータイ端末の画面に「圏外」の表示が出ると、不安が募ってパニックになってしまう……。(2頁)


2008年、秋葉原で17人を無差別に殺傷したK青年(当時25歳)。

彼はケータイのネット掲示板にこう書き込んでいたという。

「1人で寝る寂しさはお前らにはわからないだろうな」

「ものすごい不安とか」

「彼女いる奴にも彼女いない時期があったはずなのに、みんな忘れちゃってるんだよね」

「勝ち組はみんな死んでしまえ」


理想的な人間関係を築けないことに疎外感を抱いていたように見える。

そして興味深いのは、次のような事実である。

 秋葉原のK青年は、自分のケータイ端末のアドレス帳やメールの送受信記録を、犯行前にすべて消去していました。自分が逮捕された後で、知り合いや友だちが警察から事情を聴かれるのを防ぐための配慮だったそうです。一方で何の落ち度もない人びとを17人も殺傷しておきながら、他方で「周囲に迷惑をかけたくなかった」と過剰に気づかう意識の落差がここには見受けられます。そしてこの落差は、彼がイメージする日常世界の狭さを象徴しているようにも思われます。(8頁)


この「落差」は、きわめて象徴的であるように思われる。

この「意識の落差」は現代の若者に広く見られるものだからだ。

実際このK青年に共感する多くのひとたちがいた。

事件後の1か月間で、ネットに犯行予告を書き込んで通報された件数は、東京都だけでも100を超えたそうです。(8頁)


ネットにそんなことを書き込めばすぐにバレる。

その程度のことは誰にでも分かるはずだ。

でも犯行予告はなくならない。

ところで当ブログにも執拗に嫌がらせを繰り返した捕鯨信者がいた。

なぜネット空間だと彼らは情緒的に暴発してしまうのか?

この問題については後日取り上げる予定であるが、
捕鯨信者の問題を考えるうえでも以下の記述は示唆的である。

彼らはネット上で自己顕示欲丸出しで暴言をまき散らす。

 ただし彼らは、自分の書き込みが世界中から閲覧されうるという感覚に乏しかったようです。警察に摘発されて初めて事の重大さに気づくお粗末さは、彼らの自己顕示欲の矛先が社会全体へと開かれたものではなく、同じネット仲間に閉じられたものだったことを物語っています。(8頁)


たしかにお粗末このうえない。

数ヶ月前大きな話題になった事件があった。

京都大学その他で発覚した入試カンニング事件である。

逮捕された予備校生にも、似たものを感じないだろうか?

わたしは、あの事件に関して、
ある大人から「きっと愉快犯だろう」などという「推理」を聞かされた。

きわめてトンチンカンなご意見と言わざるを得ない。

愉快犯でないことくらい事件の経緯を見ればすぐ分かる。

実際、事件の全容がほぼ解明されてみると、
当初予想されていた複数犯ではなく、単独犯だった。

あの予備校生も、
まさかネットへの書き込みがバレるとは思ってもみなかった様子だった。

ところで、ここでひとこと付け加えておきたい。

あの事件の報道・捜査は異常だった。

世間の注目も異常だった。

単なるカンニング事件にすぎなかったのに、警察が動き出し、
予備校関係者が記者会見に引きずり出された。

あれだけ騒いだにもかかわらず、すでにひとびとの記憶から消えている。

こうして日本人は次から次へとニュースを消費していくのだ。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


最近の中高生たちは、小さなグループに分かれる。

かつての若者にもそういう面はあっただろうが、
いまではグループ内の人間関係だけで世界が完結してしまうのだという。

「格がちがう」。

「身分がちがう」。

ほかのグループとの交友関係はなるべく避けようとする。

いわゆる「スクール・カースト」が形成されているのである。

彼らにとって、グループの外部は「圏外」を意味する。

グループ内部では、それぞれが自分の安定した居場所を確保しようとし、
熾烈なポジション争いが繰り広げられているという。

たとえば、漫才などのお笑い芸人たちは、自分とコンビを組む相棒を相方と呼びますが、最近の若い世代でも、友だちを相方と呼ぶ人たちが増えています。(11頁)


ここにもテレビの影響が見られる。

若者の会話もその大半はじつはテレビ・タレントのマネである。

口調から受け答えからツッコミにいたるまで。

「そこ、笑うところじゃないから」。

「それ、めちゃめちゃカワイイよねえ」。


テレビのマネしかできないことの恥ずかしさよりも、
テレビのマネをすることで自分は「異質」ではないとアピールする、
このことの方が重要なのかもしれない。

 若い人たちは、グループのなかで互いのキャラが似通ったものになって重なりあうことを、「キャラがかぶる」と称して慎重に避けようとします。それは、グループ内での自分の居場所を危険にさらすからです。しかし、グループ内に配分されたキャラからはみ出すことも、また同時に避けようとします。それもグループ内での自分の居場所を危険にさらすからです。(11頁)


「KY(空気読めない)」が流行ったのも、深刻な状況からではない。

それもかけあいのネタの一部としてやりとりされるのである。

彼らが求めているのは、摩擦のないフラットな関係なのです。私は、このような人間関係を「優しい関係」と呼んでいます。(12頁)


ここに展開されているのは、予定調和の世界である。

期待されたボケと期待されたツッコミ。

期待されたキャラ。

すべてが予想されたなかでの予定調和のやりとりなのである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


かつての若者は画一的な価値基準を押し付けられていた。

だから彼らにとっての敵は管理社会だった。

だが現在は多様性と個性の時代だ。

 多様な個性のあり方が賞揚される現代では、普遍的で画一的な物差しによってではなく、個々の具体的な承認を周囲から受けることによって、自己の評価が定まることになります。平たくいえば、そこでウケを狙えるか否かが、自己評価にあたって重要な判断材料となるのです。(15頁)


そこでは場の空気を敏感に読み取る能力が求められる。

自分がどのような評価を与えられているのかが気になる。

彼らにとっては、身近な人間からの評価が圧倒的な力を持つ。

価値観が多元化し、人びとの関心対象が千差万別になった世界で、相手の反応を鋭敏に読みとってつねに良好な関係を保ち、相手からの評価を得やすいように自分の個性を効果的に呈示し続けるのは非常に困難なことです。しかし、それは同時に、自己肯定感を保っていく上で必須の営みでもあります。(17頁)


そこで必要とされるものこそ、コミュニケーション能力にほかならない。

 スクール・カーストでの生徒たちの序列づけも、勉強やスポーツが得意か否かによってではなく、友だちと一緒にいる場を盛り上げ、その関係をうまく転がしていけるようなコミュニケーション能力の高低によって決まってきます。(17頁)


ただしここで言うコミュニケーション能力は、独特なものである。

……現在は、人びとの関心対象が千差万別になったことで、コミュニケーションされるべき切実な話題は少なくなっているにもかかわらず、自己肯定感の基盤であるコミュニケーションの場はつねに確保され続けなければなりません。その結果、コミュニケーションの形式やその能力だけが極端にクローズアップされることになります。(17−18頁)


いわば形式化されたコミュニケーション能力なのである。

反復される形式において、内容は当然のことながら空虚である。

問題は若者がその空虚に耐えうるのか、ということである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「自分らしく」「わたしらしく」、これも現代人のキーワードであろう。

だが、近年の「自分らしさ・私らしさ」はかつてと異なる。

著者はこれを「アイデンティティからキャラへ」と形容している。

このことを考えるのに適切な事例は、リカちゃん人形である。

1967年の初代リカちゃんから現在にいたるまで、
リカちゃんは世代を越えた国民的アイドルである。

しかしそのリカちゃんにも変化が見られるようになった。

1980年代になると、リカちゃんの顔立ちはネオテニー(幼形成熟)化する。

 ……平成に入ってからのリカちゃんは、その物語の枠組みから徐々に解放され、現在はミニーマウスやポストペットなどの別キャラクターを演じるようにもなっています。(22頁)


背後の物語を背負うことのない「キャラクター」。

その延長線上に「ゆるキャラ」があるのは言うまでもない。

特定の物語を背後に背負ったキャラクターから、その略語としての意味から脱却して、どんな物語にも転用可能なプロトタイプを示す言葉となったキャラへ……。(22−23頁)


なるほど。

たとえば、「あしたのジョー」は「キャラ」になり得ない。

「ナウシカ」も「キャラ」になり得ない。

主人公が背負う「物語」があまりに強烈だからであろう。

だが「トトロ」は物語性が希薄なため「キャラ」になり得る。

 ……今日の若い世代は、アイデンティティという言葉で表わされるような一貫したものとしてではなく、キャラという言葉で示されるような断片的な要素を寄せ集めたものとして、自らの人格をイメージするようになっています。(23−24頁)


まさに「キャラの時代」である。

 2008年には、ついにコンビニエンス・ストアの売上高が百貨店のそれを超えました。外食産業でもファーストフード化が進んでいます。百貨店やレストランの店員には丁寧な接客態度が期待されますが、コンビニやファーストフードの店員にはそれが期待されません。感情を前面に押し出して個別的に接してくれるよりも、感情を背後に押し殺して定形的に接してくれたほうが、むしろ気をつかわなくて楽だと客の側も感じ始めているのではないでしょうか。店員に求められているのは、1人の人間として多面的に接してくれることではなく、その店のキャラを一面的に演じてくれることなのです。近年のメイド・カフェの流行も、その外見に反して、じつはこの心性の延長線上にあるといえます。(25−26頁)


わたしが衝撃を受けるのは、事態はさらに悪化していることだ。

気をつかわないどころか、存在さえ無視されているのである。

たとえば、コンビニのレジで、
ケータイで誰かとおしゃべりしながら支払いをするひとがいる。

このひとたちにとってコンビニの店員はもはや存在さえしていない。

自動販売機と店員の区別がついていないのだ。

こうした変化は漫画の世界にも顕著に見られるという。

従来の物語とは異なって、「羅列されたエピソードの順番を入れ替えたとしても、作品に影響は無い」ものばかり……。
 エピソードの順番を入れ替えても作品に影響が出ないのは、「キャラクターの成長が無い」からです。物語がどう展開しようと、登場人物たちの性格は変わりません。(30頁)


ここで著者は「やおい」について触れているのだが、ここでは割愛する。

では、なぜ若者はキャラにこだわるのか?

 今日の若い人たちが内キャラにこだわるのは、いかに生きるべきかを指し示す人生の羅針盤がこの社会のどこにも見当たらず、いわば存在論的な不安を抱えているからです。(33頁)


「内キャラ」というのは説明がいるかもしれない。

対人関係に応じて意図的に演じられるのが「外キャラ」。

これに対して、生まれもった人格特性を示すのが「内キャラ」。

どんな状況や環境にあっても変わることのない「本当の自分」である。

そこで想定されているのは、確固とした揺るぎない何ものかである。

 ……荷宮和子さんは、若い世代に共通して見受けられる価値観の特徴に、がんばらずに良い結果を出すほうがかっこいい、何も考えずに行動するほうがかっこいい、挫折しかけた道でさらに努力を続けるのは見苦しい、の3点があると指摘しています。これらに共通するのも、「生まれもった素質によって人生は決まる」という発想ではないでしょうか。(35頁)


イケメン、キモメン、モテ系、非モテ系、肉食系、草食系……。

これらは努力によって変更可能な性質ではない。

固定的で本質的な属性で、自分の人生を大きく左右する素質なのである。

これを著者は「新しい宿命主義」と呼んでいる。

では、これこそが現代の若者の特徴と言えるものなのだろうか?

そうではない、と著者は述べる。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


先に見てきたように、現代の若者にとって「友だち」とは、
「対立の表面化の回避を最優先にする予定調和的な関係」である。

ここで興味深いのは、同じ傾向が大人にも見られるという点である。

中学生の娘をもつ親が、ケータイの利用料金が高い理由を子どもに問い詰めたところ、逆に子どもを怒らせてしまったので、それ以来は直接ものを言うのをやめ、その代わりに娘がネット上に開設しているプロフを密かに読んで、様子をうかがうことにしているというのです。その親は、「あれを見ると、話さなくても子どものことが分かりすぎちゃうの」と語ってくれたそうです。(38頁)


したがって、こうだ。

親子の間にも「摩擦のないフラットな関係」が期待されているわけだ。

まさに「優しい関係」=「友だちのような親子」である。

似たような心性が親と子の間で共有されているのである。

「摩擦のない関係」は、しかし、他者との間には成立しない。

このことを考えるのに格好の例がある。

「モンスター・ペアレント」という言葉である。

「モンスター・ペアレント」の「ありえない実例」をTVが紹介する。

お茶の間では「いまの日本はどうなってしまったのか」と嘆いてみせる。

ふむ、ありがちな光景ではなかろうか?

学校側に理不尽な要求を突きつけるのが「モンスター・ペアレント」と言われる。

お店に理不尽な苦情を言いつけるひとを「クレーマー」と呼ぶ。

問題は、「モンスター」とか「クレーマー」とか名付けるその心性である。

理解不能な存在を「モンスター」と呼ぶことで排斥するのだ。

この影響は、学校や百貨店のなかだけのことではなさそうである。

現在の日本を広く覆っている傾向なのではないだろうか?

たとえば、少年犯罪が過剰に演出されたかたちで報道される。

殺人事件や児童虐待がBGMつきでおどろおどろしく報道される。

かつては、犯罪は社会の産物だ、という視点があった。

犯罪少年の更生、犯罪者の矯正によって、
社会復帰を果たすのが刑事政策の目的だった。

しかし昨今は、犯罪者の特性を生来的な資質とみなし、矯正不能なモンスターと捉える風潮が強まった結果、彼らを社会に包摂するのではなく、排除することで社会の治安を守ろうとする思想が広がっています。(50頁)


こうして厳罰化だけが進行していく。

山口県光市の母子殺害事件では、世間の感情が暴走した。

もっぱら弁護団の法廷戦術がバッシングの的になった。

加害少年の育った家庭環境や社会的背景にはまったく関心が集まらなかった。

 このような意見を述べると、決まって次のような反論が加えられます。同じように劣悪な境遇を生きながらも、多くの少年たちは犯罪に手を染めない、だとしたら、やはり犯罪には個人的な資質の側面が強いのではないか、と。このような反論に対しては、次のように問い返してみたいと思います。そんな弱き人間であっても、周囲の環境さえ良好ならば、犯罪に手を染めずにすんだかもしれない、世の中には、幸いにも良い環境に恵まれたおかげで、たまたま犯罪者にならずにすんでいる弱き人間も大勢いるのではないか、と。(51頁)


「劣悪な環境のなかでも真っ当に生きているひとはたくさんいるじゃないか」。

なるほど、耳にタコができるほど聞かされた言葉である。

率直に言って、わたしはこういう意見を聞くと、吐き気がする。

こういうセリフを発するひとを決して信用してはいけない、と思う。

こういうひとたちに限って、わが子を私立に入れようと受験させるのだ。

「子どものためにいい環境」を求めて。

さらに言っておこう。

こういうひとたちに限って、イラク戦争に反対もしていなかったのだ。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


異質な人間は理解不能な存在である。

だから圏外へと追いやればいい。

同質な人間とだけつながっていたい。

ケータイは、孤独を解消する便利なツールである、とよく言われる。

だが、本当にそうだろうか? と著者は言う。

 今日では、1人でいることの孤独から逃れようとして多用されるケータイが、かえって1人でいることの恐怖を募らせるという皮肉な事態が生まれています。自己肯定感の揺らぎを手っ取りばやく解消しようとして、同質な人間だけで固まってしまいがちになっているからです。(55頁)


コミュニケーションの機会は増えている。

だが、コミュニケーションの内容は不足している。

それが現代人の悩みなのではないだろうか?

ケータイがなかったころは、友だちから連絡がなくても、不思議ではない。

また学校に行けば会える。

だが、ケータイがあるのに誰からも連絡がないのは耐えられないだろう。

そういえば、わざわざ2台のケータイを用意して、
一方のケータイからもう一方のケータイに自分で伝言を残していた、
というさみしい若者の話をどこかで聞いた覚えがある。

秋葉原の事件のことだっただろうか?

人生にはやり直しのチャンスがある、と思えないのが現代人なのか?

宿命主義的な人生観を持つひとたちにとって、
一度転んだ人生はどうしようもない悲観的なものになる。

 読売新聞が2003年に発表した全国青少年アンケート調査によれば、75パーセントが「努力しても成功するとは限らない」と回答しています。2006年に行なわれた高校生新聞の調査でも、40パーセントが「競争の結果、格差が広がるのはしかたない」と回答し、30パーセントが「努力しても報われない」と回答しています。この結果について、斎藤環さんは、「学習や修練によって自分が変わるという期待すら存在しない。まるで『自信がないこと』にかけては誰よりも自信があるとでもいうような、『確固たる自信のなさ』とでも言うべき態度」が若い世代に蔓延しつつあると指摘しています。(57−58頁)


ここから何を考えるべきなのか?

それは、不都合な他者と出会う場が奪われているということである。

雑多な人間と出会う機会が奪われているということである。

人間関係への強迫観念から解放され、真に自己の安定を得るためには、たとえ一時的には自己肯定感が揺らごうとも、異質な他者とも付きあっていかなければなりません。もはや普遍的な価値の物差しを内面にもちえない現代人は、そうやって多種多様な人間どうしの人的ネットワークの網の目のなかに、自分肯定の基盤を見つけていくしかないのです。(60頁)


秋葉原の事件のあと、あるカウンセラーのもとに、
「自分も被害者になってみたい」と訴える相談が子どもから寄せられたという。

無垢な被害者は周囲から尽きることのない自己承認を得られる。

そう考えたのかもしれない、と著者は指摘する。

自己承認を与えてくれるのは「優しいひとたち」だ。

だから異質な他者とは存在してほしくないもののことである。

異質な他者と関わってこそ世界観も人生観も深まっていくものなのに。

 ところが、青少年による犯罪が大きな社会問題となるたびに、我が子もその被害者になるかもしれないと恐怖におびえた親たちは、そして、将来は我が子も犯罪者になるかもしれないと不安に駆られた親たちは、できるだけ子どもたちを安全圏内へと囲い込み、セキュリティを強化して純粋培養しようとしてきました。しかし、その過剰な介入こそが、じつは自己の耐性力を我が子から奪ってきたことに気づくべきです。(61頁)


こうした傾向の背景には何があるのだろうか?

保守派なら、きっと、
「女性が社会進出したから」というワケの分からないことを言うだろう。

凡人なら、「コミュニケーション能力の養成」と言うだろう。

それに対して著者はこう述べる。

近年、新自由主義の浸透によって、一面的な自己責任のかけ声の下に、連帯の精神だけでなく、共生の基盤すらも根こそぎ浚われてきました。流動性を増す社会のなかで価値観も多元化し、多様な生き方が認められるようになったのに、いや、だからこそ、確固たる拠り所のない存在論的な不安から逃れようとして、付きあう相手をキャラ化して固定し、そして自分自身もキャラ化して固定し、許容しうる人間の幅を極端に狭く見積もるようになっています。そんな隘路を乗り越え、人生に新たな希望を見出すためには、多種多様な人たちとの世代を超えた出会いと共闘がどうしても必要です。(61−62頁)


コミュニケーション能力の重要性を言うだけでは無意味である。

それはこれまで書いてきたことを見れば分かる。

その圧力こそが子どもたちをさらに追い詰めるからである。

重要なのは、「排除型社会」の克服である。

そう著者は主張している。











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