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zoom RSS 土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット)

<<   作成日時 : 2011/06/28 10:38   >>

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「最近の若者ときたら……」と苦々しい表情で不平を言うのが大人の口ぐせだ。

「オレたちの時代に比べていまの若者ときたら……」。

当ブログでは、このテの不平不満を厳しく批判してきた。

今回は、その「最近の若者」について考えてみたい。

だからどうしても「最近の若者は」とか「最近の子どもは」とかいった表現が出てくる。

子どもたちを取り巻く状況について考えるのがテーマだから、
今回ばかりは仕方がない。

読んでいただければ分かると思うが、
「最近の若者は」というのはその特徴を考察するのが目的であって、
過去を美化して右傾化に手を貸すためではない。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


最近の子どもたちにとって「友だち関係」は非常に重いものになっている。

「友だち」との関係をいかにうまく築くかが、重大な関心事になっている。

著者がいまの子どもたちを見ていて何を感じ取っているのだろうか?

たとえ友だちから悪口を言われたとしても、それを無視したり、あるいは笑い飛ばしてみせたりすることなどできない、そんな余裕などまるでないかのように、「友だち関係の重さ」に追いつめられた子どもたちのすがたです。(3頁)


むろん、「友人関係」に悩むひとは以前もいただろう。

だが最近の日本の子どもたちの間では、
生活のなかに占める「友だち関係」の割合がぐっと重くなっているという。

2004年に長崎県佐世保市で起きた小学6年生の女児による殺人事件。

2005年に新潟県三条市で起きた小学6年生の男児による殺人未遂事件。

学校裏サイトをめぐるトラブルの数々、いじめ。

ここから見えてくるのは、「友だち」の重さである、と著者は言う。

読者のみなさんは、「親友」にどのようなイメージをお持ちだろうか?

何でも率直にモノが言い合える関係?

本音を語れる関係?

ときには相手に厳しいことも言い合い、ゆるぎない関係を作れること?

そんなイメージを持っているとしたら、そのひとは相当に古いひとだ。

現代の子どもたちにとって「親友」とは、そのようなものではない。

「言いたいことがあっても、どう言ったらいいかわからないし、わかっているのは、個人的な奥の奥まで触れられたら、あっというまに逃げてしまって、それまでの親友関係、全部壊れてしまうっていうことだけなんです。私たち、だいたいそうですけどね。私もだめかもしれない。会ったら、『わあ、元気してる?』で、わあっとみんなで遊びに行って、彼氏の話とかして盛り上がって、『また会おうね』でおわり。それやらなければ、みんな逃げていっちゃうんですよ」……。(4−5頁)


お互いの違和感を表面化させないよう細心の注意を払わなければならない相手。

それが「親友」だというのである。

公的な調査からもこのことは明らかであるらしい。

親しい間柄のひとに対しては、過剰とも言えるほどの優しさを示す。

その反面、見知らぬ第三者にはまったくの無関心。

これを著者は「親密圏の重さ/公共圏の軽さ」と対比させて表現する。

……たとえばアメリカ合衆国の若者は、自分の周囲の人間に気を配ることはあまりしないけれども、困った人がいれば、見知らぬ他人であっても積極的に助ける傾向にあるといいます。対して、日本の若者は、自分の周囲の人間には異常に気を配るけれども、見知らぬ他人が困っていても、なかなか助けることができない傾向にあるといいます。(14−15頁)


じつはネット右翼にもこのことは言えるのではなかろうか?

彼らは、日本国内の小さなニュースには異様なこだわりを見せる。

だが、世界的に大きなニュースにはほとんど関心を示さない。

芸能ニュースには異様な飛びつきを示す。

だが、公共的な議論はまるでできない。

たとえば、中国との領土問題やAKB48について質問してみたら?

きっと彼らはぺらぺらとおしゃべりをはじめることだろう。

では、三位一体改革やあるべき社会保障制度について質問してみたら?

きっと彼らは口ごもってしまうだろう。

領土問題に熱くなるのは私的感情からである。

それと同じように、子どもたちは「親密圏」に関心を集中させている。

若者にとって重要なのは、友だちとの対立を顕在化させないことである。

そのための「優しさの技法」がいくつも編み出されている。

「とりあえず食事とかする?」「ワタシ的にはこれに決めた、みたいな」などといった断定を避ける「ぼかし表現」……。(17頁)


メールにおける絵文字の多用も、相手に対する繊細な配慮だ。

インターネットの発達と携帯電話の普及によって、
現実の人間関係が希薄になっている、と言うひとがよくいる。

うじゃうじゃいる。

そんなひとたちばかりだと言ってよい。

そこでひとびとはこう付け加えるのだ。

「それに比べて昔は……」と。

実態はその逆なのである。

ある少女が語るように、「学校では、ほとんど毎日、友達に気を遣ってなくちゃ生きていけない」のが子どもたちの実情です。(20頁)


ときにはケンカをしながら、何でも言い合える関係。

そんな「友だち」関係は、ほとんどどこにも存在していない。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


芸能界や漫画の影響だろう、「キャラ」という言葉が日常用語になった。

 子どもから青年まで、最近の若者たちは、個性的であることを「キャラがたつ」と表現します。そして、自分もまた「キャラのたつ」個性的な人物でありたいと切に願っています。(24頁)


現代は「個性」の時代である。

誰もが「個性を尊重しよう」と言う。

際立った個性の持ち主は羨望の対象だ。

もし自分の個性が何であるかをまだ理解できないひとがいたら、
そのひとは自分のなかの可能性にまだ気づいていない、ということになる。

自分らしさをうまく発揮できないのは、自分が輝いていると感じられないのは、秘められた「本当の自分」をまだ発見していないからにすぎないのです。(25頁)


「本当の自分」。

「本当のわたし」。

ある中学生は、次のような文章を新聞に投稿しています(「中学生★ひとりごと」『朝日新聞』2002年7月25日朝刊)。「僕はいろいろ考えてる。吐き気がするような陰口を言われてること、部活、友人、好きな子のこと……。僕はそれを表に出さない。キャラじゃないから」。(26頁)


だが、こうした見方はどこかズレていないだろうか?

本来「個性」とは、社会的な関係の網目のなかで成立するものである。

 しかし、現在の若者たちにとっての個性とは、他者との比較のなかで自らの独自性に気づき、その人間関係のなかで培っていくものではありません。あたかも自己の深淵に発見される実体であるかのように、そして大切に研磨されるべきダイヤの原石であるかのように感受されています。その原石こそが「本当の自分」というわけです。「私にだってダイヤの原石が秘められているはずだ」と、さしたる根拠もなく誰もが信じているのです。(26−27頁)


ここでの「個性」は、鍛え上げていくものではない。

つくり上げていくものでもない。

すでに「あるはずのもの」なのである。

 高校教師の喜入は、自らの体験を次のように語っています。「成績が悪くて、授業にも集中できない生徒が、『私は絶対に大学に行く』と言って、大学受験用の選択科目ばかりをとってしまうとか、国語能力が低くてどうしてもまともな文章を書けない生徒が、『ジャーナリストをめざす』と言い張って、ジャーナリストを養成する専門学校へ行ってしまったり、どう見ても華のない地味な生徒が『タレントになる』と言って、学校の授業を犠牲にしてまで芸能スクールに通ったりする……このような生徒に対して、教師の側が『考え直したほうがいいのではないか』『君にはもっと別の道があるのではないか』などと言うと、彼らは猛反発して、『先生がそんなふうに決めつけるのはよくない』『やればできるかもしれないじゃないですか』などと言ってくる」。(27頁)


自分の本当の個性は、自分のなかに存在している。

自分のなかにあるはずの、わたしだけの個性。

このような個性の捉え方は、「個性」の本質を見失っている。

けれども子どもたちは、「個性」は自分のなかにきっとある、と信じている。

浜崎あゆみの歌もこうした傾向を煽っていると著者はほのめかす。

ある少女は、新聞にこう投書している。

「私は、自分らしさというのがまったくわかりません。付き合う友達によって変わってしまう自分が、気分によって変わってしまう自分を考えると、いったい何が本当の私なのかわからなくなります。自分には個性がないんじゃないかとずっと悩んでいます」。(36−37頁)


ここでSMAPの大ヒット曲「世界に一つだけの花」を連想したひともいるだろう。

♪ NO. 1にならなくてもいい/もともと特別なOnly one


「ナンバー・ワン」より「オンリー・ワン」。

この歯の浮くようなフレーズが、
多くのひとびとにとっては「感動」につながったらしい。

これは、「そのままの存在でいいんだよ」という癒やしの歌のようにも聞こえますが、見方を変えれば、どこにも「特別なOnly one」を見出せない自分に価値がないかのように思わせる煽りの歌ともいえます。(37頁)


若者は、すでに自分には個性がある、と実感できない。

だから「個性的」であろうとする。

「個性的」であらねばならない、と思う。

大人も「個性を大事に」と子どもたちをますます追い込んでいく。

文芸評論家の渡部は、昨今のスポーツ報道の過剰演出を嘆いて、その背景に観客の感動ノイローゼがあるのではないかと指摘しています。本来感動とは、「たえず予期をこえた不意の事件としてのみ生起するものの別称に他ならぬ」はずですが、現在は、「事前に予定された幸福のごとく待ち受ける者たちの反復神経症的な虚無に向けて、『演出』の限りをつくすこと、スポーツを介した観客とテレビとのこの結託」が、スポーツ報道の過剰な演出を支えているというのです。(40−41頁)


オリンピックだけではない。

ワールドカップもそうだし、WBCもそうだ。

「感動をありがとう!」。

これを著者は、
「自己の内面的世界への傾倒」による「歴史感覚の欠如」と述べている。

ここに日本人の総右傾化の土壌を見ることもできるだろう。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


ある家庭裁判所の調査官は、こう述べている。

「……たとえば、1人で昼ご飯を食べていたとすると、あの子はかわいそうな子だとか友だちがいない子だとか、そういうふうに見られるんですね。そして、それがすごくつらい。だから、誰でもいいから仲間がいるほうがいいとなります。」(46頁)


現代の子どもたちが考える「自分らしさ」とは、
生理的な感覚や内発的な衝動によって裏づけられるものだ、と著者は言う。

 彼らは、お互いに接近しすぎると傷つけあってしまいますが、かといって離れすぎても安心して生きていくことができません。その状況は、「山あらしのジレンマ」と呼ばれる葛藤状態によく似ています。……それは、他者への配慮ではなく、強力な自己承認が欲しいという自己ヘの配慮の産物であり、その意味で、いわばナルシシズムの裏返しだといえます。(48頁)


「自己承認欲求」の肥大化。

 彼らが、他者との対立を避ける「優しい関係」の維持に懸命になるのは、そうしないと自分の承認欲求が満たされないからです。皮肉なことに、内閉的に「個性」を希求する人間にとって、他者からの評価は絶対なのです。歴史学者のラッシュは、現代のナルシシズムについてこう述べています。「ナルシシストは、自分が全能だという幻想にとらわれているくせに、その実、自分の自尊心を確認するのにも他に頼らなければならない。ナルシシストは喝采を送ってくれる相手がなくては生きていけない」。(48−49頁)


これもネット右翼の分析にも役立つのではないか?

ある国を「反日」と見なし、ある国を「親日」と見なす。

あるひとを「反日」と見なし、あるひとを「親日」と見なす。

こうした産経新聞レベルのひとたちの奥底にあるのはナルシシズムだ。

現代の若者たちは、じつはナルシストだったのである。

ただし、不安に見舞われたナルシストだ。

以前にも当ブログで取り上げた話だが、
かつては「世間からのまなざし」が若者にとって「地獄」であった。

親から「見られているかもしれない」うっとうしさからいかに解放されるか、それが思春期のテーマの1つでした。
 ところが最近は、自分が親から「見られていないかもしれない」不安のほうが逆に強まっています。親のまなざしから解放されることによってではなく、むしろそれを心ゆくまで浴びることによって、自分の存在を確認したいという欲求のほうが強くなっています。(50頁)


親と仲がいい、という若者も大変に増えているように感じる。

親に何でも言える、という若者が目立って増えているように感じる。

わたしの体験からもそう言える。

そんな若者にとっては「見られないこと」が不安なのである。

 このような子どもたちの不安について、教育学者の村山がこんなエピソードを紹介しています。
「ある先生から聞いた話である。小学校の1年の女の子が、私のかばんに『ばか』と書いた紙が入っていた、という日記を書いてきた。先生はその女の子をしっかりとひざに抱いてあげた。次の日も同じような日記を書いてきたので抱っこしてあげた。でもまた次の日に同じ日記を書いてきたので、おかしいと思って、その『ばか』と書かれた紙を見せてもらった。その字は、日記を書いてきた女の子の字体であった」。(50頁)


この専門家は、もうひとつのエピソードを紹介している。

「ある高校で女子の制服を切られたという事件が起きた。でも、誰もいない教室で制服を切ったのは本人であることを友だちに見られていた」。(50頁)


「かわいそう」だと思ってもらえる幸福。

「すごいね」と言われたい願望。

「有名になりたい」という承認欲求。

他者からの視線を切実に求める若者の姿が、ここにある。

こうした欲求を強く持っているなら、
ナショナリズムは彼らにとってちょうどいいイデオロギーだろう。

「日本はすばらしい」と誰かに言ってもらいたくて仕方がない。

でも言ってもらえないので、自分たちで「日本はすばらしい」と言い合う。

このように見てみると、「オヤジ狩り」をする少年たちのことも理解できる。

そう著者は言う。

彼らにとっては、
「警察に見られてしまうかもしれない」という不安よりも、
「仲間から見捨てられてしまうかもしれない」という不安の方がはるかに重い。

だから「モラルの低下」を原因と見なすのは表面的だ、と著者は言う。

なぜなら、「オヤジ狩り」を許容する「空気」のなかで、
自分を守るためのきわめて合理的な選択の結果だからである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「友だち」という親密圏で重視されるのは、「内発的な衝動の共有」である。

若い人びとのあいだで、「ちょー、感動したね」「うん、だよね」などといった空虚な言葉のやりとりだけでも親密な関係が維持されうるのは、本質的な意味では言葉の介在を必要としない関係だからです。(53−54頁)


「カワイイ」という言葉の濫用も、これに該当するだろう。

頻繁に交わされるメールの内容も、よく見るとじつは空虚である。

ここで大事なのは「感覚」を共有することである。

それができないひととは関係を結ぶことはできない。

だから、ここでは、本質的に他者が不在なのだ。

 佐世保の事件が起きたとき、平沼赳夫前経済産業相は、「個人の尊厳が行き過ぎて教室破壊が起こり、生徒どうしが殺し合いをする荒廃した状況になってきている」と、暴論とも思えるようなコメントをしましたが、以上のように見てくれば、最近の事態はむしろ逆だということが分かるでしょう。自律した個人と個人が衝突しているのではなく、むしろ自律性を確保できず、お互いに強迫的に依存しあわねば自らの存在確認さえ危うい子どもたちの関係性から、そしてその関係性自体がプライオリティをもってしまった病的な状況から、近年のさまざまな問題は派生しているというべきなのです。じっさい、警察庁のまとめによると、友だち関係の重さを苦にした子どもの自殺は、このところ大幅に増えているようです(『毎日新聞』2004年7月23日朝刊)。(61頁)


平沼赳夫というのは、あの「笹かまぼこ」みたいな顔をした、
「たちあがれ日本」の代表である。

ウルトラ右翼の政治家というのは、いつも的外れである。

単なる的外れならまだいいのだが、有害な的外れだから、許せない。

自称右翼がこういう無能な政治家ばかり支持するのも困ったことである。

ところで、著者は『心のノート』による道徳教育も批判している。

滑稽なことに、ここには現代の若者と同じような「個性」観が見られるからだ。

皮肉なことに、『心のノート』は現代の若者と同じ水準に立っている。

その著者たちが現代の若者に向けて「モラル」を説いているのである。













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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ネット左翼の独り言ですね
これが
2011/11/12 15:33
◆これがさま

ははあ、この記事もネットウヨクの感情を刺激するのですね。興味深いですね。
影丸
2012/07/19 10:58

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土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット) フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
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