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zoom RSS 中島みち『患者革命』(岩波アクティブ新書)

<<   作成日時 : 2011/05/31 00:52   >>

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原発事故のかげで、重大なニュースがいくつも埋もれている。

中東の民衆革命、大阪府のファッショ化、布川事件などなど。

国内ニュースはどれも日本人の人権意識の低さが際立つものばかりだ。

原発問題から日本人は何を学ぶのか?

何も学ばないつもりなのか?

責任ある者に責任をとらせるのか、それともまた曖昧にしていくのか?

戦争責任と同じように?

今回から、しばらく中断していた本の紹介を復活する。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


いまでこそ「インフォームド・コンセント」という考え方は当たり前になった。

これは「的確な情報を与えられたうえでの患者の承諾」とか、
「正しい説明にもとづく患者の自己決定権」とかいった意味である(3頁)。

しかしそれまでの医療界は古い体質を強固に残していた。

「よらしむべし、知らしむべからず」。

患者にていねいな説明をする必要はない、と多くの医師は考えていた。

隠すことが「患者に対する思いやり」であるとさえ彼らは考えていた。

隠蔽体質の東京電力や政府・各行政機関とまったく同じである。

「よらしむべし、知らしむべからず」。

著者が長男を出産したときのエピソードが紹介されている。

1960年代のことである。

帝王切開で産むことになり、当時は全身麻酔を行なうのが通例だったが、
著者の強い希望で局部麻酔にしてもらったのだという。

 さて、子どもが産湯をつかわせてもらっているのを、手術台の上から近眼の目を凝らして眺めていますと、医師がまた、私のおなかの中の何かを切りはじめたような気配なのです。
「先生、今、何をしていらっしゃいます?」
「ついでに盲腸も取ってあげようと思って」
「えーっ、困ります。私、肥り体質で、体型保つのに苦労してるんです。盲腸取ると肥るそうですから、お願い、切らないで! わが家には盲腸炎を起こす遺伝はなさそうですから、そのまま大事にしておきたいんです」
「そおぉ、でも、もう切りはじめてしまったから勘弁してよ、……この盲腸の手術の分はタダにしてあげるから」
 「?!」(8−9頁)


盲腸を切り取ることに患者は説明も受けていなければ同意も与えていない。

ところが医師は自分の判断で勝手に切りはじめたのだという。

……(当時は、虫垂いわゆる盲腸の、免疫等への働きにはあまり注目されておらず、虫垂炎を防ぐために帝王切開の際に切除してしまうことは、ありがちだったようです)。
 真面目なはなし、今でも、盲腸切除の際の癒着が折にふれて痛みます。(9頁)


アメリカだったら裁判で訴えてもいいケースだっただろう。

医師中心主義から患者中心主義へ。

とはいえ、「インフォームド・コンセント」が広まったのは、
裁判対策という側面もあるのだということを忘れてはなるまい。

ここには患者に責任を転嫁する要素がないわけではないからだ。

本書では、「誤診」によって苦しめられた著者の家族の事例が紹介される。

詳しくは直接本書をお読みいただきたい。

むろん医師も完璧ではない。

「医師を選ぶも寿命のうち」とも言われる(71頁)。

患者やその家族には、医師に対して遠慮も気後れある。

だからこそ、患者や家族の声に耳を傾けようとしない医師は頼りにならない。

そう著者は述べる。

 かの、日野原重明氏、あまりにも著名な方で今更ご紹介の必要はないと思いますが(2001年秋、現役で活躍中の内科医として90歳を迎えられました)、私の『悔いてやまず』(文春文庫、1988年)の解説に、このようなことを書いておられます。
 「……この本は、“力のない咳”から始まる。煙草喫みの夫の咳が、だんだん力のないものになってゆく……。だが咳の力の変化は、診察室でのみ患者に接する医師には比較できない。毎日の生活を共にしている者だけが感じとれる変化なのだ。……医師の方はそのような訴えを聞いても、ただの「咳」としかカルテに書き込まないだろう。その変化にまで留意するのはよほどの臨床のベテランか、過去にガンの発見に失敗した医師に限られる。
 私の周囲にも似たような体験があった。
 夫が夜遅く、勤めから帰ってくる。車のドアの閉る音がして、それから玄関まで石段を上ってくる。車のドアの音から玄関に着くまでの時間が少しずつ長くなっている、どうもおかしい、と奥さんは気づいた。問いただしても体重は減っていない、よく食べている、身体に変調はない、とご本人はいうし、酒を飲む人でもない。でも、どうしても心配だから、という奥さんからの電話を私は受けた。無理矢理に当人を呼んで診察してみると、後に穿刺して分ったが4リットルも腹水が溜っていた。体重が減らないのはそのせいだったのである。この人は末期の肝硬変だった。肝硬変という病気は症状が出にくい。結局入院後、10日で腹腔内出血で亡くなった。
 医師が病気を発見する医学から、患者と家族と医師が共同で診断する医学へ――というのが、最近の私の考え方である。血液検査やレントゲン写真では分らない、患者や家族がもたらす小さな情報を的確に受けとって、診断に資する度量を医師は持つべきだ、というのが、失敗の経験を重ねた私の持論になっている」。(84−85頁)


医師は間違えることもある。

担当医の態度に納得できない患者もいる。

そこで患者には「セカンド・オピニオン」という制度が整備された。

だが、このセカンド・オピニオンにも注意すべきことがある。

著者はこのような事例を紹介する。

 ある女性が、自分でも手遅れの乳がんではないかと案じていたのか、かなり強引に急ぎの紹介を得て乳腺外科の専門医、A医師を訪ねました。見るからに手遅れかと思われましたが、A医師は診察の結果、ただちに乳房の切除手術をすれば何とかいのちが助かるギリギリのところと判断し、急ぎ1週間先の手術室を押さえ、各種検査のために4日先に入院してもらうように女性に告げました。
 ところが彼女は、2日後の新聞に革新的な治療法として紹介されていた、ある治療法の記事を読み、翌日、その治療法を行うB医師への紹介者を訪ね、さらに翌日、つまりA医師の病院への入院予定日には、入院を取り止めてB医師を訪ねました。待ったなしで決まった手術スケジュールにパニック気味になっていた彼女は、その記事の、「自分の身体のことは自分で決める」という論調にも、共鳴したようでした。
 結果、乳房を切除しないで、B医師の許での治療だけに頼ることになりましたが、それは彼女が、乳房を取らずに治せることを喜んだからです。
 B医師は、その治療の前提となった「どう治療したところで、どっちみち死ぬに決まっている病状なのだから、身体に楽な治療のほうがよい」という自分の判断のホンネの部分を彼女に伝えなかったのです。さすがに、そこまでは言えなかった医師の気持ちも分からないではありませんが、彼女が、その医師のホンネを聞いたなら、果たしてABどちらを選んだでしょうか? A医師のところへ詫びを入れて戻ったのではないでしょうか。(87−88頁)


これはセカンド・オピニオンの盲点である。

文脈を切り取って中途半端な説明しかなければ、適切な自己決定は行なえない。

言いにくいことであっても説明すべきなのではないか?

医療者の「中途半端な思いやり」は、無責任と表裏一体である。

本書では、患者や家族の側の問題にも触れている。

いま日本人の多くは、「人間らしく死にたい」と思うようになっている。

「人間らしさ」への欲望は、「スパゲッティ症候群」への強い拒否につながり、
チューブにつながれた状態を非人間的であると見なすものである。

「そこまでして生きたくない」と思うひとが増えている。

「尊厳死」に憧れるひとは次のエピソードを読むとよい。

都内のある大学病院でこんなことが起きたという。

 がんの末期で、医師からは、今夜にも亡くなるのではないかと言われていた50代の男性患者が、昏睡状態に陥ってから1週間ほど経ったとき、患者の家族が、夜中に見回りにきた若い病棟医に、点滴を外すことを強く要請しました。患者本人から常々「一切、延命処置はしないでほしい」と言われていたからというのです。
 当然、病棟医は、自分の一存でそんなことは出来ないとしぶりましたが、今夜にも危ないと言われてからは泊り込みで付き添っていたためか見るからに疲れ果てた様子の妻と、20代の子どもたちに詰め寄られ、遂に、しぶしぶ点滴をストップしました。
 ところが、その後、患者の身体はぶくぶくにむくんでしまい、顔かたちも醜く変わって、亡くなったそうです。
 その死に顔を見た遺族は、これでは亡くなった人があれだけ頼んでいた、尊厳ある死に方どころではない、点滴を外せばこういうことになるかもしれないと、なぜ言ってくれなかったのかと、嘆き怒り、病棟医は頭を抱えてしまったということです。(107−108頁)


「尊厳死」を美化したせいでこうした誤解が生まれる。

医療者なら家族のこうした動揺を「だから素人は困る」と見なすかもしれない。

しかし著者はそうした受け取り方も問題だと言いたいようである。

詳細は直接本書をどうぞ。

もちろん一般市民の感覚がおかしくなっているのもある。

 20年近く前のことですが、私は看護婦さんの集まりで、こんな話を聞きました。せっかく看護婦さんが湯灌の下準備をして家族の参加を勧めても、父母や舅姑への場合はもちろんのこと、夫の場合にすら「死んでいる人に触るのは気持ちが悪いから、看護婦さんだけでやって」と、これを拒否する女性たちが増えており、ほんように嘆かわしいというのです。そして、その看護婦さんたちは、運動というと大袈裟になるけれども、なるべく湯灌に遺族を参加させようと、みんなで頑張っているということでした。(126―127頁)


彼らにとって遺体はもはや「汚いもの」にすぎないのか?

福島原発の近くに放置された遺体のことが思い出される。

この場合は遺族が引取りを拒んでいるわけではない。

遺族は苦しい思いをつのらせているにちがいない。

「生きていたひとの身体」とは見なしていないのは、政府や社会である。

人肌のぬくもりの伝わるケアを、著者は「人明かり」と呼ぶ。

「人明かり」に照らされながら生をまっとうできる社会。

そんな社会を著者は求めているように思われる。










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