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zoom RSS 島本慈子『戦争で死ぬ、ということ』(岩波新書)

<<   作成日時 : 2011/03/09 17:48   >>

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手塚治虫の傑作漫画『アドルフに告ぐ』に、気になる台詞がある。

『火の鳥』という傑作漫画にも、気になる台詞や場面がある。

ここには手塚治虫の戦争体験が影響しているのではないか?

彼は16歳のときに米軍による大空襲を体験している。

そこで無惨な死に方をさせられたひとびとの姿を目撃しただろう。

そう考えた著者は、手塚治虫作品の深層を理解しようと取材に出かける。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


戦争を体験したひとびとのうち、
少なくないひとたちが、有名・無名を問わず、その体験を記録した。

 薬害による死、公害による死、安全の手抜きによる事故死……人が不当に生命を奪われる悲劇がいまもあとを断たない。だが、それらの悲劇においては、「殺してよかった」と殺人が正当化されることはない。「戦争で死ぬ」ということは他のあらゆる死と一線を画している、それは「正当化される大量殺人」であるという点において。
 だから武器・兵器による殺戮を目の当たりにした日本人の多くは、「どんな理屈を使っても、これを正当化することはできない」という思いを抱くにいたった。人間の肉体が飛散し、生首が吹き飛ぶ「大量殺人の現場」から生まれた思いは、その行間に、けっして言葉にはならない慟哭をたたえている。(19−20頁)


靖国神社は、だから、大量殺人を正当化するための神社にほかならない。

そんな戦争神社に「共感」してしまうひとが、当ブログにコメントを寄せてくる。

彼らには、「殺戮」に対する一片の想像力もない。

無惨な肉片と化した「いのち」への想像力さえない。

国家のためなら殺人を肯定するというひとは、
教祖のためなら殺人も肯定するひとたちと、異なるところはない。

現在の日本は、総右翼化している。

怖ろしいことに、大半の日本人はそのことを自覚してさえいない。

彼らが美化する「あの時代」とは、どんな時代だったのか?

ここで再確認しておくのも無駄ではあるまい。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


戦争末期、特攻隊に志願させられたひとがこう語っている。

「……あのころは、負けて生きるという未来がなかったんです。勝つか、勝てないなら死ぬしかない。アメリカに占領されたら殺されると、本当に思っていたから」(31頁)


当時は、「いのち」をどのように考えていた時代だったか?

「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし(危機があれば一身を捧げて皇室国家につくせ)」(教育勅語)、「死は鴻毛(オオトリの羽毛)よりも軽しと覚悟せよ」(軍人勅諭)という価値観が社会を支配し、その他すべての声が圧殺・抹殺された時代……。(34頁)


戦前の価値観を美化するひとたちは、
要するに、「ひとのいのちなんてゴミみたいなものだ」と考えている。

 「本当に、あんなことね、あんなこと、思い出したくもない。新憲法が発布されたときにね、そのときにようやく安心したですよ。ああこれで俺は特攻へは連れ出されない。あんな苦しみからは、これで解放されたと。だから安心して沈黙を続けることもできた。けれど、日本は曲がってしまったね。自衛隊のイラク派遣で。あれは自衛じゃない、日本は変わってしまった。戦争っていうのは急にはじまるんじゃないですよ。どんどんマインドコントロールをしていくんです。最近、特攻を美化する風潮がある。ああ、俺たちがやられたことと同じだと思うと、これは話さなければならない、と。
 突っ込んでいく、勇ましく、崇高な、と。そんなもんじゃないよ。自分がやってみろ。」(37頁)


愛国主義者気取りの連中には、この言葉はどう響くのだろうか?

「新憲法」への期待は、いまや「嘲笑の的」にされている。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


著者は、作家の城山三郎にインタビューをしている。

城山三郎の作品のなかに「旗」という詩がある。

「旗」

旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため

社旗も 校旗も
国々の旗も
国策なる旗も
運動という名の旗も

ひとみなひとり
ひとりには
ひとつの命

走る雲
冴える月
こぼれる星
奏でる虫
みなひとり
ひとつの輝き

花の白さ
杉の青さ
肚の黒さ
愛の軽さ
みなひとり
ひとつの光

狂い
狂え
狂わん
狂わず
みなひとり
ひとつの世界
さまざまに
果てなき世界

山ねぼけ
湖しらけ
森かげり
人は老いゆ

生きるには
旗要らず

旗振るな
旗振らすな
旗伏せよ
旗たため

限りある命のために

「支店長の曲り角」城山三郎著より

(「かならずにっき」から引用させていただいた)


この詩が書かれたのは昭和54年だった。

このころ何があったのだろうか?

(……昭和53年から54年にかけては、永野日商会頭が武器輸出の規制緩和を提唱する、岡原最高裁判官が審議中の「弁護人抜き裁判」法案について必要性を主張する、栗栖統幕議長が「緊急時には自衛隊の超法規的行動もありえる」と発言する、福田首相が防衛庁に有事立法の研究を指示する、国会で元号法案が可決される、などの動きがあった)。(43頁)


海軍に入った城山は、寝具のハンモックの方が人間よりも大事だと叩き込まれた。

「……『おまえらの代わりは1銭5厘(はがきの値段)でいくらでもくる。ハンモックがいくらするかわかるか』……」(44頁)

多くの日本人が死刑制度に賛成しているのは、
この時代から結局何も変わっていないからではないか?

右派が実現したがっているのは、こういう価値観の社会だ。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


戦時のメディアは、国民を戦争に動員するのに、大きな役割を果たした。

 戦時下の新聞各紙には、「眼が覚めたか黒ん坊(フイリツピン)」(『中国新聞』。これは日本軍のフィリピン上陸を伝える記事で、“黒ん坊”に“フイリツピン”とルビがあるのは原紙どおり)、「子らは歌う テキテキミナコロセー」「無心の子供でさえ憎しみに燃えている、ましてや大人」「敵を殺せ! 1人でも多く」(『毎日新聞』)、「醜鬼」「血祭り」「米鬼」(『読売新聞』)……。(60−61頁)


憎悪を掻き立てる表現が、国民を興奮状態へと導いた。

……憎しみに徹すれば、いかなる困難にも耐え抜く力が生まれる。われわれは不倶戴天の敵アメリカに対する憎しみの火を燃やそう!(『朝日新聞』……)(61頁)


こうした報道は日本だけのものではなかった。

 ジョン・W・ダワー『容赦なき戦争』によると、1943(昭和18)年4月の『モルチモア・サン』では、ある母親のエピソードが紹介された。それは、「息子が南太平洋で日本兵からそぎ落とした耳を自分の手元に送る許可をくれ」と当局へかけあったという話で、その母親は「死んだ日本兵の耳」を玄関のドアに釘で打ちつけ、多くの人に見てもらおうとしたのだった。ある兵士は日本兵の死体の骨で作ったペーパーナイフをルーズベルト大統領へ贈ろうとした(さすがに大統領は断ったという)、戦場の婚約者から送られた「日本兵の頭蓋骨」の横でにっこりポーズをとるブロンド美女の写真も、米国大衆雑誌に大きく掲載された。(62頁)


戦争は、ここまでひとびとを腐敗させてゆく。

もう1度言うが、右派が実現しようとしているのは、こういう社会である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


右派は、日本のおかげでアジア諸国は独立できた、と強弁する。

図々しいにもホドがあるというものだ。

 19世紀末以降、アメリカの植民地となっていたフィリピンは、「1946年の独立」が決まっており、1935年からはフィリピン人によるコモンウェルス政府(独立準備政府)が設けられていた。フィリピンにとって日本の占領とは、アメリカからの独立を目の前にしたコモンウェルス期に乱入した戦火の日々であり、よく言われる「日本が戦争をしたおかげでフィリピンは独立できた」という主張は通用しない。(71−72頁)


右派は、かつての日本を批判しているのは中国と南北朝鮮だけだ、と言う。

ほかの国々のひとたちは日本の占領を歓迎していた、と言う。

無知も甚だしいと言うほかない。

フィリピンでも、抗日ゲリラが激しく抵抗した。

これに対して、日本軍は徹底的な弾圧をもって応えた。

「反日」への処刑シーンはいたるところで見られた。パナイ島イロイロ市にいたある日本人少女は、当時小学生だったが、憲兵がフィリピン人を目隠しして、刀でバサッと首を落とすところを見た。また、「突けっ」と命令された兵士が、真っ青な顔をして手をぶるぶる震わせ、日をつぶって「ええいっ」と叫び、縛られたフィリピン人を突き殺すところも見た。その場面を目撃した日本人小学校の子どもたちは、「怖くて怖くて、みんなで泣いて、学校へ走って行きました」という(読売新聞大阪社会部編・前掲書)。(74頁)


リビアのカダフィ大佐もびっくりするにちがいない。

なぜ日本軍は東南アジアを侵略していったのか?

白人から解放するため?

まさか。

当時の日本が南方へ出たのは、資源を獲得するためであったことは広く知られている。フィリピンに主として期待されたものは銅・クロム・マンガン・鉄などの鉱物資源で、陸軍省の命を受け、三井鉱山・住友鉱業・石原産業・小野田セメントなどの日本企業が鉱山開発にあたった。(75頁)


東南アジアを経済発展させるため?

まさか。

 フィリピンの少女マリアは、ルソン島に上陸した日本軍の銀輪部隊(自転車に乗った部隊)を見た翌月、日本の将校にレイプされた。そのあと将校は彼女を部下に払い下げたので、続けて2人の日本兵にレイプされた。マリアはまだ初潮がきておらず、暴行によってスカートは血だらけになった。その翌月、マリアはフクバラハップに参加し、「14歳の抗日少女ゲリラ」が誕生した(マリア・ロサ・L・ヘンソン『ある日本軍「慰安婦」の回想』)。(78頁)


何十、何百の理屈を並べても、侵略を正当化することはできない。

ある日本人将校は、部隊の位置を米軍へ通報されることを恐れ、口封じのために村の住民10人ほどを殺害したと語っている。ある日本人兵士は、あやしい老人がいたので、「あやしい」というだけでその人を殺したと記している。(78頁)


フィリピンの人々の間では、
かつて日本兵がフィリピンの赤ちゃんを銃剣で串刺しにして殺したという話が、
生々しく語られていたという。

やがて米軍がレイテ島に上陸。

日本兵が潜むジャングルにナパーム弾を投下。

対する日本兵は、手榴弾を武器に敵陣地へ斬りこみをかけ、爆弾を抱えて敵戦車へ体当たりの自爆攻撃をかけた。彼らは正面の米軍と闘い、背後から襲ってくるゲリラと闘った。今日死ぬか、明日死ぬのかという極限状況のなかで、日本の兵士は、あたかも天の恵みのように、「日本が原子爆弾を発明した」というニュースを知らされた(矢野正美『ルソン島敗残実記。』)。(79頁)


この「原子爆弾発明」のニュースについては、あとでまた触れる。

 各島々で山岳地帯への退却行がはじまる。食糧はつき、補給はなく、兵士たちは雑草を食べ、蛇やトカゲを食べ、虫を食べた。マラリア、潰瘍、チフスなどの疫病が蔓延し、栄養失調と病気で次々に倒れていった。(81−82頁)


「輝かしい皇軍」の実相は、こんなものだったのだ。

飢えた日本の兵士は原住民の畑からイモを盗み、たきぎにするため畑の柵を壊し、鶏をとって食べ、大切な農耕用家畜である水牛もつぶして食べた。日本兵にとってはぎりぎりの生存をかけた行為でも、収奪される側にとってはたまらない。(83頁)


これが白人からのアジアの解放?

ふざけるな、と言いたい。

 ……フィリピン政府の公式見解(1952年)によれば、住民への虐殺を含めて(日本軍による住民の集団虐殺としては、マニラ市内における虐殺、ルソン島リパにおける虐殺などが知られている)、日本占領期の死者は100万人をこえている。フィリピンの人々にとって、それは「日本がこなければ生まれなかった犠牲」である。(84頁)


レイプ犯は、よくこう弁明する。

・ 合意のうえだった。

・ オレが彼女に「よろこび」を与えてやったのだ。


侵略戦争を正当化するひとたちは、これと同じだ。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


日本人はよく言う。

「日本は唯一の被爆国である」と。

メディアも「唯一の被爆国」と言う。

だが、これは端的にウソだ。

日本は唯一の被爆国ではない。

「唯一の被爆国」と言うことは、何が問題なのだろうか?

端的にそれが虚偽であるというだけではない。

「唯一の被爆国」と述べることで、「悲劇の独占」が起きる。

そうして、日本人はいつの間にか「戦争の被害者」になるのだ。

「日本人だけが原爆の悲惨さを知っているのだ」とナショナリズムをくすぐるのだ。

さらにもうひとつ。

じつは日本人はそもそも「原爆」に反対ではなかった、という事実を隠してしまうのだ。

どういうことか?

日本では、原爆を語るとき、しばしば「落とした側」の問題がクローズアップされる。

原爆を開発した科学者の責任。

そして、原爆を実際に投下したパイロット・兵士の責任。

しかし「原爆を作った科学者」と「それを投下したパイロット」は被爆国・日本の自画像でもある。そして、新兵器の出現に喝采した国民の姿も。(90頁)


どういうことか?

もう少し詳しく見てみよう。

戦時下の『沖縄新報』(1944(昭和19)年12月29日付)には、
「木っ葉微塵 独、原子爆弾使用」という見出しで、次のような記事が掲載されていた。

「〔リスボン27日発同盟〕 ロンドン来電によれば、ドイツの一放送局は27日、ルントシュテット元帥麾下のドイツ軍が目下原子爆弾を使用している旨放送した。同放送によれば、原子爆弾が投下された地域では、一切の動植物が生存を停止し、森林は焼きつくされ、広大な地域が焦土と化し、大爆風にあったものは誰も微塵になってしまうと言われる」(91頁)


この記事に著者は驚愕する。

まず、広島に原爆が投下される7ヵ月以上も前に、日本の新聞が「原子爆弾」とはっきり書いていることに驚いた。そして、その記事が「一切の動植物が生存を停止」「大爆風で誰も微塵」と爆弾の破壊力をリアルに描いたうえ、明らかに「やった!」という思いを表わしていることに、目まいがするほどショックを受けた。(91頁)


そうだ。

日本も、原爆の研究・開発を進めていたのだ。

実は日本も、戦争のさなか、陸海軍ともに原子爆弾の開発に手を染めていた。資材の欠乏・組織の弱さ等で成功しなかったものの、日本も原爆をつくろうとしていたことは、関係者多数の証言により、いまでは周知の事実となっている……。(91頁)


日本のどこで研究・開発が行なわれていたのだろうか?

 原子爆弾の開発では東京の理化学研究所や京都帝国大学が中心となった。(103頁)


日本が原爆の開発に成功したという噂が、兵士の間にも広まった。

そのとき、兵士たちは、歓喜したのだった。

「これで劣勢を挽回できるぞ」と。

もし日本かドイツが原爆投下に成功すれば、日本人の多くは喝采して喜んだのではないかと。日本軍のなかに、原爆の投下を命じられ、「そんな非人道的なことはできない」と断るパイロットがいたとは思えない。(99頁)


日本人は、「日本は唯一の被爆国だ」と言う。

だが、戦時の日本人は、「原爆開発」に反対していなかった。

もし日本が原爆開発に成功していたら、間違いなく使用していただろう。

国民も、それを願っていただろう。

日本人は「原子爆弾」に期待していたのだ。

だから、原爆を投下したアメリカは、じつは日本の「自画像」なのだ。

そんな国民が「唯一の被爆国」と言い張るのは、図々しくないか?

「唯一の被爆国」と言い張ることで、こうした事実が隠されてしまったのである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


日本は、毒ガス兵器も製造していた。

……「三井鉱山(三井化学)・三菱鉱業・住友化学・旭電化などの大財閥直系企業やその関連企業と、日本曹達(ソーダ)・日本鉱業・昭和電工などの新興財閥の中心的企業、およびそれらの周辺にいる多くの化学関連会社が、陸海軍の毒ガス生産を支えていた」……。(147頁)


毒ガスの材料は、サイパン島からも届けられていた。

 当時のサイパン島は砂糖の生産地で、エチルアルコールはサトウキビから製造できる。サイパン島へは多くの日本人が移住していたのだが……、サトウキビ畑で汗を流して働いていた人々は、自分たちの労働がイペリットという猛毒ガスに結びつくとは夢にも思っていなかっただろう。(148頁)


イペリットといえば、オウム真理教を思い出す。

オウム真理教は、戦前の日本と地続きなのではないか?

 西欧列強の毒ガス合戦となった第一次大戦の反省から、1925年にはスイス・ジュネーブの国際会議で、毒ガスの使用を禁じる議定書が採択された。アメリカも日本もその議定書を批准しておらず、生産そのものは禁じられていなかったものの、すでに「毒ガスをつくること」は国際社会の目をはばかる後ろめたい行為になっていた。(152頁)


毒ガス兵器の生産に携わっていたのは、労働者である。

ガスを吸い込んでしまうひとも出てきた。

 1952年には、毒ガス障害者の団体がはじめて組織され、障害を受けた人々が救済を求めて粘り強い運動をはじめていく。ところが、その運動は「毒ガスをつくっていたということを公式に認めることはできない」という国の壁にぶつかって困難をきわめた……。(160頁)


国家は国民を守らない。

軍隊も国民を守らない。

この「真理」は、ここからもよく分かる。

元工員のなかには毒ガス症状に苦しみ、自殺した人もいた。(160頁)


右派は、こうした歴史的事実も隠蔽していくのだろう。

何しろ都合がわるいから。

研究者、作家、ジャーナリストなどによる以後の地道な掘り起こし作業によって、日本軍の毒ガス戦は徐々に明らかになってきている。(162頁)


とはいえ、いまやこの国では、「反戦」は時代遅れとされてしまった。

「戦争待望論」まで登場している。

「靖国神社に祀られたい」と呑気に言う若者まで出てきてしまっている。

そんなに人殺しがしたいのか?

そんなに誰かに殺されたいのか?


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


手塚治虫の漫画作品が本書とどのようにつながってくるのか?

それは本書を手にとって確認していただきたい。

必読書である。







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