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zoom RSS 雨宮処凛・小森陽一『生きさる思想』(新日本出版社)

<<   作成日時 : 2011/01/08 23:40   >>

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雨宮処凛が自身の苦しかった体験を語る。

当時の心情とともに自分史を語る。

小森陽一はその言葉に静かに耳を傾け、歴史的・社会的に意味づける。

こうして2人の対談は、現在の日本の状況を浮き彫りにしていく。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


1980年代は校内暴力が吹き荒れた世代だった。

その背景には管理主義教育があった。

90年代もまだ管理主義型の教育は行なわれていた。

校内暴力は抑えられても、学校内のいじめがなくなったわけではなかった。

生徒集団の中で攻撃が1人に向けられれば、その集団はある意味で安定し、管理しやすくなるわけですね。(小森、16頁)


閉鎖的な学校空間を卒業すると、
そこに待っていたのは不安定で厳しい雇用だった。

雨宮処凛の弟の話がここでも出てくるのだが、
ここではハッキリと「ヤマダ電機」が「1日17時間労働」をさせていると書かれている。

かつてアルバイト・パートは、学生のお小遣い稼ぎや家計の補助だった。

だが、いまではそれで生活をしているひとが激増している。

アルバイトで生活を支えていかなければならないひとが増えたのだ。

1994年、OECD(経済協力開発機構)が雇用に関する研究報告を出した。

この「OECD雇用戦略」は雇用・労働市場政策のグローバル・スタンダードを示すもので、
3つの方向性を示していた。

 ……一つは労働市場の弾力化政策です。雇用保障の法的規制を弾力化してなくしていく、経済的に必要な解雇は認める……など……。(小森、42頁)


日本における雇用の規制緩和も、この線に沿って行なわれた。

 二番目が積極的な労働市場政策です。職業紹介を公共的な職業安定行政にゆだねるのではなくて、民間の職業紹介も並行して導入するという中身です。三つ目は、就業を抑制する法規制を緩和するということです。具体的には、雇い主の社会保障負担金を減らすことで「積極的に雇用できるように」する。(小森、43頁)


前にも書いたので繰り返しになるが、
日経連が「新時代の『日本的経営』」を提言するのは、この翌年のことだ。

若者は正しく認識してほしい。

自分たちの〈生きづらさ〉が何によってもたらされたのかを。

アジアの労働者たちを敵視している場合ではない。

90年代は、雇用状況が大きく変化した時代だった。

同時に戦争をめぐる政治状況も日本で大きく変化した。

冷戦の崩壊。

自衛隊のPKO参加、海外派兵。

 自衛隊の存在について、従来、自民党や政府は、合憲だとしてきました。でも、それは「陸、海、空軍その他の戦力」ではなく、自衛のための最低限の「実力」だ、日本の領海内に攻撃があった時に実力行使をするもので、戦争をするわけではないと、歴代の自由民主党政府が説明をしてきたから、自衛隊の海外派兵は憲法違反だとされてきたのです。つまり自民党政府のこれまでの説明原理に照らしても、自衛隊を海外に出すことは認められなかったのです……。(小森、47頁)


ところがこの「解釈」はいとも簡単に投げ捨てられた。

自民党は自分たちで無理矢理つくりだした理屈さえ簡単に投げ捨てたのだ。

いま自民党議員が民主党政権を批判するのを見かけるが、
ああいうのを見ると本当にヘドが出る思いがする。

こうして2005年には自民党は「新憲法草案」を発表する。

ここにおいて「戦争のできる国家」と明確に規定するにいたる。

格差が広がるとどうなるか?

収入の少ないひと、仕事がないひとが、「軍隊」に入っていく。

いまアメリカでは、ワーキングプアの若者を、
陸軍とマクドナルドが取り合っているような状況なのだという。

「格差」と貧困こそが戦争を欲望する社会の最大の原因です。(小森、55頁)


フリーターがつける仕事は、
単純作業の繰り返しだったり、指示された業務を黙々とこなしたりするだけだ。

そこに「生きる意味」を見出すのはむずかしい。

「労働のよろこび」を見出すのもむずかしい。

自分は何のためにこの仕事をしているのか?

この先どのくらいこうしたことを続けていかなければならないのか?

ミスをすれば「使えないヤツだ」と言われ、
自分がいくらでも取替えのきく存在にすぎないことを思い知らされる。

そんななかで若者は「生きる意味」を過剰に求めていく。

1995年、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。

世の中のひとたちは、戦後の日本のあり方や教育が原因であると叫んだ。

当時、オウム信者をとりあげたテレビ番組の中に、信者とその親との対話を紹介したものがあって、……「おまえは、戦争のない平和な時代に生まれて、ホントにそれだけで幸せなことで、世界には飢えている人がいるのに、こんな豊かな餓死することもない日本にいて、何も不自由していない。なのに、なんでオウムなんか入るんだ」というようなことを言っていたんです。
 それってもう、私が親に言われていた話とほとんど同じだったんですね。「なんでおまえはこんな平和で豊かな時代に手首を切ろうとするんだ」って。オウム信者の人は、「豊かで平和な時代に生まれたといっても、自分にはお父さんたちの世代にはわからない苦しさがあるんだ」って切々と訴えていたんですが、それも私の考えていたことと同じだったんです。(雨宮、59−60頁)


大人にとっては「豊かで平和な時代」かもしれない。

それをつくり上げたのは自分たちだ、という自負もあったにちがいない。

だが若者にとっては何の現実味もなかった。

彼らは彼らの固有の困難を抱えていたからだ。

だが大人は繰り返す。

「若者はモラルが低下している」

「人間関係が希薄になっている」

「心に問題があるのだろう」


学校では、「いじめ」という暴力が横行している。

学校そのものも、教師による暴力で管理されている。

さらには、社会そのものも、他者をつねに敵視する暴力に溢れている。

これを小森陽一は「『暴力漬け』のような状況」と呼んでいる。

そんななか、雨宮処凛は当時サブカルチャーに惹かれていったという。

そして右翼団体に入ることになる。

小林よしのりの漫画『戦争論』に熱狂し、感動して涙を流す仲間までいたという。

雨宮処凛は、1999年と2000年に映画祭でアジア諸国をまわり、
そこで衝撃的な体験をしたという。

すごい、責任をとれとか戦争責任について問い詰められて、そこで初めて身にしみて、「あ、アジアでは日本の右翼の考えっていうのは怒られて当たり前なんだ」っていうことを知りました。右翼団体にいた時は日本国内のことしか考えてなかったし、その主張がほかの国でこんなに問題にされるともまったく思ってませんでした。(雨宮、79−80頁)


彼女は怒られてはじめて目覚めたという。

いかに自分が「日本」のことしか考えていなかったのか、と。

こうして彼女は右翼と決別することになる。

だが、右傾化はアメリカでも日本でもまだ深刻な問題である。

他国をまるごと敵視する政策は、国民感情を高揚させる。

アメリカではブッシュ政権が「テロとの戦争(war on terror)」を実行した。

怖ろしいことに、アメリカではこの「戦争war」という言葉はイメージがいいのだそうだ。

「war」という言葉に対して、何と65%くらいのひとが「快」と反応するのだという。

warという言葉が使われた、アメリカにとっての輝かしい経験、ファシズムを打ち破った英雄的なWorld War Uという経験があります――それはハリウッド映画などで繰り返し刷り込まれて、社会的集合記憶の底にある半ば無意識化した記憶なのです。そして以来、アメリカ社会では、「war」は比喩としてしか使われていないのです。「貧困とのたたかいwar on poverty」「ガンとのたたかいwar on cancer」「エイズ撲滅とのたたかいwar on AIDS」……。(小森、87頁)


こうして「war」は人の命を救う「正のイメージ」を持つようになった。

政治家はそのイメージを巧みに利用しようとする。

もっとも、国民の側にも「戦争」への欲望がすでに準備されていたはずだ。

そうでないと、国民もそう簡単には熱狂しないだろう。

敵対的に見える他者に出会った時、相手が自分より強ければ恐怖を感じ、弱ければ怒りを感じ攻撃する――これは、動物的な弱肉強食の枠組みで生じる勘定と行動です。(小森、89頁)


アメリカでは、イスラム教徒に対する「恐怖心」が煽られている。

日本では、北朝鮮や中国に対する「恐怖心」が煽られている。

……猟奇殺人事件や一家離散のような悲惨な報道がなぜ人気を博すかといえば、「自分はこの人に比べれば幸せだ」と、読む側が優越感を感じることができるからですね。報じられた対象に同情しながら、そのあまりに悲惨な物語との対比で自らの深刻な状況を肯定するということです。そのためには、その物語は悲惨でなくてはならない、つまりより悲惨な状況を欲望することになるわけですから、そこには非常に残酷で攻撃的な感情が働いています。拉致被害にあわれた家族の方々の話も、そういう残酷な感情を満足させるために消費されたという面があると思います。(小森、96頁)


だからこそというべきか。

拉致被害家族を支援する組織が全国につくられたが、
支援金の使い込みが発覚するなどのスキャンダルが出てしまう。

ここには「正義」はない。

見せかけの「正義気取り」しかない。

その証拠に、自分たちの平穏を乱す「敵」に対して、
容赦のないバッシングを加える暴力性は何も変わっていないからだ。

「バッシング社会」の構造は、1人の「悪者」を叩くことで、不安定化した社会に一種の「安定」をもたらします。それは、学校でのいじめの構造にもよく似ています。(小森、99頁)


「バッシング社会」。

たしかにこれは現代日本を特徴づける言葉であるだろう。

子どもが苦しいと訴えたり、学校に行きたくないと態度に表したりしたとき、親や周囲の大人が、たとえばアフリカの貧しい国の子どもの話を持ち出して、「あの子たちは貧しくて、学校に行きたくても行けなくて働いている。お前は日本に生まれて働かなくてもいいのに、なぜ学校に行かないのか」みたいな話をすることもあるんです。もう全然、見当外れなんですけど。(雨宮、115頁)


イデオロギーは大人の意識を深く蝕んでいる。

つまり「お前の言ってることは贅沢なことなんだ」という意味ですよね。子どもはそれによって、自分が苦しいということを言語化することを封印されてしまう。(小森、115頁)


そうして、いまとは別の社会があり得るという想像力も奪っていく。

親の言う通り、学校で勉強してそれなりの点数を取ってきたけれども、いざ就職となった時に行き場所がない。つまり親の語ってきた物語がうそであったということを、わかってしまう世代が背負った困難ですね。そういう状況に立たされた若者が、悪いのは、その物語によって自分を抑圧してきた親だという形で被害者としての自己像を獲得する――それは「アダルト・チルドレンという物語」で自分のアイデンティティを見つけるということですね。(小森、125頁)


ちゃんとした仕事に就いていないと親に認めてもらえない。

でもそのちゃんとした仕事にはなかなか就けない。

親は世間の目を気にして「ちゃんと仕事を見つけろ」と怒鳴る。

だから若者をもっとも苦しめているのは、身近な親でもある。

親戚に救われたという人は、私の知っている例ではいないんです。みんな、親と親戚の攻撃がいちばん苦しいって言いますね。場合によっては、親戚とかおじいちゃん・おばあちゃんは、……より強く、働いていないことを責めるという面があるんじゃないでしょうか。「自分が若い時はもっと大変だった」みたいな、自分の苦労話を持ち出して「お前は甘えている」というように。(雨宮、130頁)


「自己責任論」の威力である。

雨宮処凛がそうした苦しい状況から抜け出すことができたのは、
プレカリアート運動でデモをしていくことによってであったという。

……メンヘラーの人が、運動の中で、自分を責める回路から脱していく……。(小森、132頁)


ちなみに「メンヘラー」というのは、
「メンタル・ヘルス」を害したひとたちのことを言う。

先日の記事でも書いたが、
海外には「暴動」という形で社会への批判を表現する若者いる。

だが日本の若者はおとなしい。

むろんこれは別の形で深刻さを表現しているということでもある。

 ……この国では、暴動が起きる代わりに、98年から毎年3万人以上が自殺し続け2008年で11年連続です。その間、33万人以上が自ら命を絶っていて、ある意味で、「内戦の犠牲者」という言い方もできるほどなのです……。(小森、144−145頁)


ついきのうも、
自殺者の数が13年連続で3万人をこえたと発表があったばかりだ。

昨年の自殺3万1560人 前年より3・9%減少

 警察庁が7日まとめた自殺統計の速報値では、昨年の自殺者は3万1560人で、前年より1285人(3・9%)減った。1998年から13年連続で3万人を超えたが、過去10年では2番目に少なかった。
 民主党政権は2009年秋の発足から「命を大切にする政治」(当時の鳩山由紀夫首相)を掲げ、自殺リスクのある人への支援策を打ち出してきた。昨年は政府が自殺防止キャンペーンをした翌月の4月と10月に前年同月比でそれぞれ15・9%、13・5%減り、一定の効果があったことをうかがわせる。
 ただ、11月には逆に同10・0%増加。不況の長期化などもあり、減少傾向に転じたとは言い切れず、異常な状況は続いている。
(共同)

(『東京新聞WEBサイト・2011年1月7日17時42分』から)


昨年も3万人をこえてしまったのだ。

異常である。

失業問題も自殺問題もいじめの問題も貧困問題も、
いつでも世の中のひとたちは「そのひとのこころが弱いからだ」と言ってきた。

いまでもそう言うひとは少なくないだろう。

だが、雨宮処凛は、
「こころの問題」がじつは「労働問題」に深くつながっていることに気づいていく。

きっかけは、彼女の弟がヤマダ電機に入って過酷な労働を強いられていたことだった。

1日17時間も労働させられていたことは、前回の記事でも紹介した。

……弟は正社員になる時、「労働組合には加入しない」という誓約書を書かされていた……。……ボーナスは出ない、残業代は出ない、あと労働組合に加入できませんっていう書類にサインさせられるんです。(雨宮、148頁)


こうして彼女は、プレカリアートの運動に関わっていくことになった。

そこでは、弱者をバッシングする社会を批判していた。

「無条件に生存を肯定する運動」に出会ったのだ。

条件をつける・つけられるという関係性は、権力的関係ですし、どちらかがどちらかを支配するという関係があるから生じるわけで、それが新自由主義のもとで蔓延していますから。「無条件の生存の肯定」は、そういう意味でいうと、権力的な人間関係をなくそうという思想にも結びついていくわけですね。(小森、158頁)


「自己責任論」は、「ひとに迷惑をかけるな」という日本的規範でもある。

自分が生きていることが世間に迷惑をかけるという感覚は、見かけは世間主義ですが、その「世間」は実体としては助けてもくれないし、考えてもくれない競争社会です。(小森、169−170頁)


「ひとに迷惑をかけるな」という規範意識は、
やさしく秩序を守ろうとするものでもある反面、
どうしようもない「弱者への攻撃性」を内包したものでもあるだろう。

……ホームレスやネットカフェ難民、ワーキングプアといった問題を当事者の自己責任だという人たちって、そのことによって「許されてる」というか免責されてるという面があるんじゃないかと思いました。当事者の自己責任なんだから、自分は何もする必要がない、心を痛める必要もない。そうやって何もしないことが正当化されることと、まったく同じですね。(雨宮、174頁)


こうして「自己責任論」の問題が明確になっていく。

……自分の罪障感を感じないようにするためにしがみつく「自己責任」論……。(小森、175頁)


そう、自分の罪障感から逃避するための便法だったのだ。

ここにおいて、歴史修正主義との共通点も明確になったのではないだろうか?

なぜなら、中国や北朝鮮への敵視は、
おのれの「罪障感」からの逃避から発しているからだ。

さらにここから指摘できることがある。

それは、大人がなぜ若者を「自己責任論」でバッシングするのか、である。

現在の日本社会の中に、もしかしたらその子に生きづらさをもたらしている何かがあるかもしれないと、どこかで思っていても、現在の日本社会をつくってきた人――たとえば団塊世代――は、社会構造それ自体に内在している生きづらさを直視することは、いわば「自分の罪」をさらすことにもなりますからね。(176−177頁)


ここにもおのれの「罪障感」からの逃避という構図が見えるわけだ。

じつは、多くのひとが「うしろめたさ」を感じているのかもしれない。

その「うしろめたさ」と向き合うことができないために、
弱者をバッシングして開き直っているのかもしれない。

「罪障感」と向き合うことを許さない社会が日本である、ということだ。

この構造は、またわれわれを戦争の問題へと連れ戻すだろう。









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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
面白かったです

ちなみに

きっかけは、彼女の彼がヤマダ電機に入って ×
きっかけは、彼女の"弟"がヤマダ電機に入って ○
K助
2011/01/09 08:49
◆K助さま

コメントありがとうございます。そして、誤字のご指摘、ありがとうございます。さきほど訂正しておきました。

またこれからもよろしくお願いいたします。
影丸
2011/03/18 03:35

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