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zoom RSS 香山リカ『いまどきの「常識」』(岩波新書)

<<   作成日時 : 2011/01/02 13:24   >>

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現代日本の状況を手短に表現するとしたら、どうなるだろうか?

「想像力と共感能力の欠如」だろう。

排他的で粗暴なナショナリズム・国粋主義の高揚、および自己責任論の跋扈。

「尖閣諸島は日本固有の領土だ」と政府に言われれば、
それを鵜呑みにしてしまえる幼稚で素朴なナショナリストたち。

「神経症」や「人格障害」といった「心の病」の用語に反応し、
「自分探し」のためにせっせと「自分物語」を紡ぎ出そうとする若者たち。

周囲はみな自分の相手をしてくれるものだ、という幼稚な思い込み。

そう、例の粘着質でヒステリックな御仁のように

※ この御仁はまた退屈なコメントをいくつも貼り付けてきた。
   しかもすべてコピペ(笑)。
   「ぼくちゃんを無視するのは許せないニャー♪」と駄々をこねているご様子。

これらに共通しているのは、「かわいそうなのは、私」という欲望だ、と著者は言う。

そしてこの「私」は「私たち日本人」と容易に置き換えられる。

「かわいそうなのは、私、そして私たち日本人」。

かくして加害者であるはずの日本人がいつの間にか被害者になる。

被害妄想のお遊び。

むろん、苦悩を抱えて生きているひともいるであろう。

が、自分の苦しみへの理解が、他者の苦しみへの共感につながるわけでもない。

あくまで大事なのは「私」であり「私たち日本人」である。

「私」や「私たち」の外側にいるはずの他者は排除される。

だから、
この「私/私たち」の悩みを受け止めてくれない他者はみんな「バカ」だ、
ということになる。

 かつて、「自分も傷ついたことのある人は、他者の痛みにもやさしくなれる」と言われたことがあった。これが今ではまったく通じない。……今は多くの人たちはそれ〔心の余裕〕さえ失い、「とにかくまず、私の苦しみを聞いてくれ、なんとかしてくれ!」と“自分物語”を叫び続けているのだろうか。……このまま、大きな声で“自分物語”を語る人ばかりがどんどん増え、それに耳を傾ける人がどんどん減り続けていけば、いったいどんな風景が出現するのだろうか。(15頁)


「自分物語」を助長させているのは、「自己責任論」である。

しかし、自己責任論が幅をきかせればきかせるほど、一方で「これは私のせいじゃない、病気が悪いんだ」、「これは私がやったのではなくて、もうひとつの人格がやったことなのだ」と問題を病気という形で切り離し、自分の責任ではないとしようとする人たちが増えているように思う。(20頁)


だから、傷ついた自分を慰めるのが昨今の流行だ。

「自分へのご褒美」。

「癒やされたいわたし」。

そして「純愛ブーム」。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「この映画、泣ける」。

最近のお決まりの映画や小説の宣伝文句だ。

いずれにしても、彼らの「涙」は人間的な成長につながるような深いものではなく、あくまで自分がすっきりするための“排泄物”であり、「私っていい人」と自己満足にひたるための手立てにしかすぎないようだ。(23頁)


涙を流せるなら、まだ「想像力」も「共感能力」も失っていないのではないか?

そう思うひともいるかもしれない。

だが、ひとびとが涙を流す対象は、巧妙に区別されている。

涙の奥には、あざとさが隠されている。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


この国では、さまざまな問題が「ジェンダー・フリー」のせいにされる。

そこで叫ばれるのは、「男らしさ/女らしさ」の復権。

「家族」の崩壊が諸問題の原因だとされる。

日本商工会議所と東京商工会議所は2003年に「少子化問題とその対策について――「出産・子育てに優しい経済社会」の実現に向けた戦略」という政策提言を行っているが、その中にも次のような条項がある。
 「複数世代の同居家族促進
  2世代、3世代が近くに住むことで、家族の支えあいの機能を復活させる方向も検討すべきである。多世代同居型の住まいづくりに、住宅ローン優遇などの公的インセンティブ供与による促進策が検討されるべきである」(75−76頁)


これはすばらしい話だろうか?

要するに、セーフティネットは家族で何とかしろ、というご意見である。

少年犯罪が起きると、ひとびとはその原因探しに躍起になる。

「原因不明」では不安だ。

そこでひとびとが手っ取り早く目をつけるのは、何だろうか?

右派が決まって持ち出すのは、
「インターネット」、「家族の崩壊」、「女性の社会進出」などだろうか?

実際、専門家と称するひとびとによって、次のような主張が披露されているらしい。

「非行少年の家庭は家族で食事をしたり、母親が手作り料理を出すことが少なく、少年の外泊も一般の3倍以上など、家での役割分担が薄くなっている」……。


NPO団体に「愛情家庭料理を守る会」というところがあって、
ここの「愛情お料理コンテスト」のうたい文句にも、次のように記されているという。

……「毎日のように報道される少年犯罪……。若者達がキレやすくなった背景の1つに、子供の孤食化、欠食の増加があります。“食育”という言葉があるように、食は子供たちの健やかな身体と精神を育みます。そして、愛情に溢れた食卓が重要なスパイスとなります。だからこそ“心のこもったおふくろの味・手作りの味”を復活させたい」(90頁)


「食育」という理念は、いまや保守派にとって都合のよい道具だ。

「おふくろの味」が犯罪防止につながるって?

手作り料理を食べれば不良がいなくなるって?

だからといって、「手作り料理」の少なさが本当に犯罪の誘引になっているのかどうかはわからないし、ましてや「手作り料理」さえ出せば犯罪が減少するなどという説には、まったく科学的根拠はないはずだ。(91頁)


何度も書いてきたが、少年による凶悪犯罪は急速に減少しているというのに。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


次は、あの自己責任論が噴出するきっかけとなった事件について。

 2004年4月、イラクで日本人の若者3人が武装集団に拘束され、人質となった。(94頁)


政府・国会議員から被害者の「自己責任」を問う声が出はじめ、
一部のメディアもこれに同調しはじめた。

すると、一般市民のなかにも、「自己責任論」が浸透していったのだった。

「みんなに迷惑をかけて……」と彼らは眉をひそめた。

 国会で自衛隊のイラク派遣が論議されていた2003年11月、イラクで2名の日本人外交官が殺害された。(189頁)


このときは誰も「自己責任論」を口にしなかった。

政府の命令で派遣されていたからだろう。

なぜこれほどまでに日本人は愚かになり下がったのだろうか?

ここで著者は、社会福祉論の立岩真也氏の発言を紹介している
(『AERA』2004年4月16日号)。

「『自己責任』という言葉がとくに90年代以降、経済や政治の世界でむやみに使われ、攻撃的な気分にもっともらしさをかぶせる言葉として広がってしまった。自分の力で自らを救えないものは救われなくてもいいとなると、人のために何もせずにすんで得をする人がいる。だから自己責任がそういう人たちに支持されるのはわかる。だが、どうも得をしない大勢の人たちも、乗せられてしまっているふしがある」(97頁)


自己責任論でもっとも得をしたのは、誰だろうか?

まずは政府だろう。

自衛隊のイラク派兵を進めた国会議員たちだろう。

社会のさまざまな問題で「自己責任論」がはびこれば、
もっとも得をするのは企業経営者たちだろう。

たとえば、経営者が過労で倒れた従業員の問題を「自己責任」で片づけられれば、彼は雇用者として責任を取る必要も補償金を払う必要もなくなるからだ。(97頁)


そこで切り捨てられるのは、圧倒的に多くの市民だ。

だが、その市民が「自己責任論」に絡み取られてしまった。

「それはあんたの自己責任だろう」

「ほら見たことか!」


苛立ちを若者にぶつけることで、自分を正当化したいのだろう。

「自己責任論」がいまどきの「常識」となっている。

山で遭難し、海で溺れ、救助を求めるひとにも「自己責任」が問われ、
病気や障害で苦しむひとにも「自己責任」が問われ、
貧困に苦しむひとたちにも「自己責任」が問われるのが「常識」となった。

果たしてこれが健全な社会なのだろうか?


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


著者は、ここでおもしろい体験話を紹介している。

大学の授業で、学生に尾崎豊の歌を聞かせたときのこと。

尾崎豊の代表曲「卒業」には、こんな歌詞がある。

 行儀よくまじめなんて出来やしなかった
 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
 逆らい続けあがき続けた 早く自由になりたかった
 信じられぬ大人との争いの中で
 許しあい いったい何 解りあえただろう


その後レポートを書いてもらうと、こんな感想が出てくるのだという。

……「理由はどうあれ、物を壊して人に迷惑をかけるのはいけない」……。(102頁)


ある意味でこれはケッサクである。

「ワルぶってるだけではないか」

「おとなに支配されるなんてただの妄想だ」

「どうして学校や先生を恨んでいるのか理解できない」

「みんな不満はあっても我慢して生きているんだから、ひとりだけ身勝手なことをするのは許されない」


わたし自身は尾崎豊に何の魅力も感じないし、
むしろ嫌いな歌手のひとりである。

けれども、この学生の持った感想には少なからぬ驚きを感じてしまった。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


ラジオが発明されたときは、
「ラジオばっかり聴いているからバカになるんだ」とか、
「ラジオは子どもを暴力的にする」だとか、
「ラジオは子どもを怠け者にする」だとか言われた。

その後「テレビ」が各家庭に普及したときも、同じように言われた。

テレビゲームが広まったときも同じように言われた。

インターネットや携帯電話の普及でも似たようなことが言われる。

60年以上も前から、「いちばん新しいメディアが子どもに悪影響を与える」という言説があったのだ。こういう話をしたら、知人の社会学者が「いや、蒸気機関車ができた頃には“悪いことをした犯人が汽車で逃げたらどうするんだ”と言った人もいるし、明治時代の日本には“若者が本ばかり読んで働かない”と嘆く声もあったんですよ」と教えてくれた。根拠はともかく、とにかく新しいもの、若者が夢中になるものに対して、いつの時代もおとなは「危険だ」「有害だ」と警戒心を抱いたのだろう。(129頁)


蒸気機関車にも同じような危惧が叫ばれていたのか。

驚いた。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


とはいえ、メディアの影響力は無視できないほど大きい。

日本では、相も変わらず「占い」がブームだ。

民放各局の朝の番組には、必ず「占いコーナー」があるほどだ。

2004年4月から11月までのテレビの「血液型番組」は、コーナーとして取り上げたものも含めて49本。とくに10月には特集番組が6本もあった、という。今回のブームでは、「B型の子どもたちの遊び方をカメラで追う」、「O型の人の脳波をチェック」など、最新の機器や科学とドッキングさせて血液型性格診断の正しさを強調するような番組も多かったためか、「AB型は二重人格だといじめを受けた」、「B型は自己中心的だから採用しない、とバイト先で言われた」などの問題も発生。苦情に対応している第三者機関「放送倫理・番組向上機構(BPO)」が、各放送局に血液型を扱う番組への配慮を要望する声明を発表するという事態にまで発展した。(134頁)


特定の血液型が理由でバイト不採用にされたとなると、これは差別ではないか。

B型差別。

ちょっと前には、
血液型別の『自分の説明書』などというワケの分からない本が流行した。

そしてこれもメディアの影響なのか?

ちょっと信じられない調査が本書で紹介されている。

 2004年、長崎県と兵庫県でそれぞれ3000人以上の小中学生を対象にした大規模な「生と死」の意識調査が行われた。いずれの県でも、過去に全国を震撼させる少年事件が起きている。
 長崎では、「死んだ人が生き返ると思いますか」の問いに対し「はい」と答えたのは、小学4年生が14.7%、小学6年生が13.1%。その率は中学2年生になると18.5%に上昇している。
 兵庫県の結果もだいたい同じで、「人は死んでも生き返れるか」という質問に、小5から中2までの10%が「生き返る」、13%が「たぶん生き返る」と回答。(140頁)


これはすごいことだぞ。

子どもの約1割近くが、「ひとは死んでも生き返る可能性がある」と思っているのだから。

ここでテレビゲームの影響云々と言うのは早計だと思うが、
よく考えてみるとどうしてこんな意識調査をしているのかもよく分からない。

「死んだ人が生き返ると思いますか」と子どもたちに問う理由は何なのか?

小学校の高学年ともなれば、
「大人をからかって欺いてやろう」と思うことだってできる年齢だろう。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


著者は、ある日、大学時代の同窓生の会合に出かけたという。

そこで、ある青年医師がこう言ったという。

 「外国に行くたびに日本の良さを実感し、日本を誇りに思いながら戻ります。それなのに、日本で食事に出かけても、多くの店では季節の食材さえ使おうとしない。これではいけません。現役の学生たちには、英会話力よりもまず日本を愛する心を身につけてもらいたいと願っています」(147頁)


ああ……、多くのひとが言いそうな言葉だな。

実際言っているのだろうなあ。

巷では、「日本がいちばん」としみじみ確かめ合う会話が溢れている。

30代、40代の知人がそれぞれ久しぶりに友人に会ったところ、「中国なんかになめられちゃいかん」、「日本の男はもっと誇りを持つべきだ」など外国や外国人を敵視し、愛国心を強調するような発言を聞かされたのだという。(148頁)


ずいぶんと威勢のいいひとだ。

中国人と面と向かって議論することもできず、
飲み屋などでこうして「にわか国粋主義者」を気取っていること自体が、
相当な臆病者の証拠である。

「もっと誇りを持つべきだ」と「自分」に言うひとにロクな奴はいない。

それにしても、日本国中が総右傾化しているのはまちがいない。

外国人のせいで治安が悪化していると思い込んでいる日本人も少なくない。

最近の新聞の意識調査では、「地域の治安に不安を感じる」、「犯罪被害にあう不安を感じる」と答える人の割合がだいたい8割近くにも上る。そして、多くの人が不安の増大の理由として「外国人と少年の犯罪の増加」をあげている。
 警察庁は、2003年8月に同年を「治安回復元年」とする「緊急治安対策プログラム」を発表した。「危険水域にある治安情勢の下、犯罪増加の基調に早急に歯止めをかけ、国民の不安を解消する」という目的のそのプログラムにおいても、「犯罪増加の基調」の温床として「外国人」と「少年」があげられている。(149頁)


では、外国人犯罪は増えているのか?

言うまでもないが、増えてなどいない。

 しかし、一部の人たちが繰り返し指摘しているように、日本全体の刑法犯検挙人員に占める来日外国人の割合は、過去10年間、一貫して2%前後とほとんど変わらない。(149頁)


石原慎太郎の「三国人」発言もそうだが、
外国人と犯罪を結びつけるイメージそのものが「人種差別」的である。

こういうひとたちは、自分が海外旅行に行ったとき、
「日本人のせいで犯罪が増えている」と思われることを想像してみたらよい。

著者はここで、
アムネスティ・インターナショナル日本のあるひとによるエッセイを紹介する。

都内では、「不審なアジア系外国人を見かけたらすぐ110番」といった、町内会や警察署による防犯チラシをよく見かけるようになった。文京区菊坂町には、「犯罪は、見てるぞ、撮ってるぞ、知らせるぞ」の日本語に中国語の訳がついたチラシがあちらこちらに掲示されていたが(2004年6月)、明らかに中国人に対する警告であることがわかる。海外で「日本人風アジア人を見かけたら通報を」というチラシを見かけたらどんな思いがするか、そうした想像力のかけらも感じられない。(151頁)


ひとびとの「純粋な偏見」は広まっていく。

「外国人は犯罪予備軍」

「少年・少女も犯罪予備軍」

「精神障害者も犯罪予備軍」


そして、不安でかわいそうなのは「自分」。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


著者はある公開討論会のことを思い出して、こう語る。

「平和」という単語を口にした瞬間、その場の「空気」が凍りついた、というのだ。

テレビ出演したとき、
「戦争はいけない」と言ったのにもかかわらず、抗議が来たのだそうだ。

いまや世の中では、「平和」「人権」「反戦」などはマイナス・イメージらしい。

保守派や右派というのは、ずいぶんと一貫性のないひとたちである。

彼らは言う。

「日本の古き良き伝統を守ろう」と。

そのくせ、「9条なんて古い、人権なんて古い」とおっしゃる。

よく考えてみれば、「古いものをさっさと捨て、新しいものや変化を求めてひたすら前進せよ」と言われているのは、「平和」「反戦」「平等」といった価値観や憲法や軍事に関係した問題などに限られており、ほかの大多数の場面では「昔はよかった」的な声のほうが主流のような気もする。(158頁)


「古いものを守れ」と言いながら、「古いものを捨てて新しくなれ」と言う。

奇妙なお話である。

首相の靖国参拝に抗議する中国には「内政に干渉するな」と怒る人も、「軍隊を持って普通の国になれ」というアメリカの声には、「ほら、やっぱりそれが正しいのだ」と改憲を正当化する材料にしているのは、奇妙な話だ。(185頁)


なるほど、これも奇妙なお話である。

右派や保守派は奇妙なひとたちである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


どこの世界でも、右派は、「強がる」ことが得意である。

「テロに屈するな」「○○になめられるな」。

では、具体的にどうすればよいと言うのだろうか?

2001年の「9・11同時多発テロ事件」のあと、
ブッシュ大統領もジュリアーニ・ニューヨーク市長も、同じようなことを呼びかけた。

「みなさん、いつも通りの生活をしてください」と。

テロに屈しないとは、通常通りの生活を営むことなのだそうだ。

おびえたり悲しんだりせずに、いつも通りの生活を送ることなのだそうだ。

だが、ここには重大な問題がある、と著者は言う。

あることをなかったことのようにして振る舞う、これは精神医学で「否認」と呼ばれる心の防衛メカニズムである。たとえば、愛する人が亡くなって悲しみに暮れるはずの時期に、「平気だよ」と仕事に出たり旅行に行ったりする人もいる。こういう人は、心が強いのではなくて、逆に悲しみにも向き合えないほど弱いから、そうするのだと考えられる。そして、「否認」で先送りした悲しみや痛みは、いつか思わぬ形で突然、戻ってくることもある。だから、精神医療の現場では、悲しいできごとを体験した人には、「悲しいのはあたりまえ、泣くのは悪いことではない」と伝え、存分に涙を流し、苦しい胸のうちを吐き出せる環境を用意する。(190−191頁)


ところが、政治指導者たちは、「通常通りのふるまい」をせよ、と述べた。

「さあ、昨日までと同じように仕事やレジャーに出かけよう」とテロの被害にあった都市で語りかけるリーダーたちは、市民に積極的にこの「否認」を勧めているようにも見える。(191頁)


日本でもそうだった。

自民党の政治家どもも、「テロに屈してはいけない」と言っていた。

そうして自衛隊のイラク派遣を正当化していた。

イラクがテロと何の関係があったのかは分からないままだが、
「テロに屈するな」と言った自民党議員や保守派の論客の矛盾は明らかである。

アメリカという「国家テロ」の親玉には「屈服」していたという最大の矛盾のことだ。

テロリストの子分になり下がったのは、他ならぬ日本の保守勢力だったのだから。

精神科医の立場からすれば、彼らは心に重大な問題を抱えていることになろう。

いまどきの「常識」を疑う。

「当たり前」だと思い込んでいることが当たり前ではないかもしれないと疑う。

これは理性的人間にとって不可欠な批判的知性だ。

民主主義にとって欠かせない要素だ。

本書にはそれほど深みはないが、手ごろな入門編となっている。

わりとおすすめ。









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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
初めまして。大学の課題でアメリカの宗教事情について調べていてここに辿り着きました。大変論理的且つ平易で分かりやすい言葉遣いをされていて、とても興味深く読ませて頂いてます。
昨今の保守化、右化の潮流は私も常々不安に感じています。池上彰さんの教養番組などに出ている芸人やタレント達がやはり、「中国はけしからん」みたいな事ばかり言っているのを見ると、今後の日本の世論の行く末が不安になります。右派の主張は感情論的な面が大きいので、本来日本社会に由来する不満や憤りを発散したいという欲望にマッチするのかなぁ…なんて考えてます。
stranger
2011/01/03 01:09
◆strangerさま

はじめまして! うれしいコメントをありがとうございます。それなのにお返事がすっかり遅くなってしまって、大変に失礼いたしました。

そう、「池上彰ブーム」は大変に危ういものだと、わたしも感じていました。わたしの好きなあるコラムニストが述べていましたが、「池上彰ブーム」とは、「ものの見方」を教えてもらうだけでなく、「ものの感じ方」まで教えてもらおう、というブームに思えます。ああいうソフトな語り口だからこそ、中国脅威論が老若男女にどんどん浸透していくわけですね。

右派の主張は感情的で、かつ独善的で、かつ暴力的です。真の敵を見すえることができないひとたちが、「外敵」を強調することで安心しようとする。そんな心理がはたらいているのでしょう。大学生の方にも役に立つ情報を提供していきたいと思っていますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。あなたのまわりにも右派がたくさんいると思いますけど、大学の勉強、ぜひがんばってくださいね。
影丸
2011/03/18 03:27

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