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zoom RSS 上田紀行『生きる意味』(岩波新書)

<<   作成日時 : 2011/01/19 02:09   >>

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「生」が肯定されにくい社会にわれわれは生きている。

「生きづらさ」を感じているひとが増えている。

そこで、多くの論者は「生の肯定」を主張する。

著者もそのひとりである。

著者は文化人類学者(東工大)で、
〈癒やし〉ブームのきっかけを作ったひとでもある(と思う)。

わたしは〈癒やし〉ブームが嫌いなのだが、
著者に対してはなぜかそれほどの嫌悪感は抱かない。

かといって、すばらしいと思えるほどでもない。

イメージとしては国語の先生などが好きそうな本であるが、
それでもまあ読んでおいていい本だと思う。

たしか著者は春風亭小朝のいとこだったと思うのだが、
ぼんやりとした記憶だから不確かかもしれない。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「生」が肯定されにくい。

多くのひとびとが「生きにくさ」を抱えている。

「生きている」実感もリアリティも感じられない現代日本。

高度成長期・バブル期の日本では、多くのひとがこう考えていた。

「他の人と同じものを欲しがれ」

「他者の欲望を自らの欲望とせよ」


流行を追い求めるひとびとは、他のひとの欲望を生きているのと同じである。

その、他のひとも、そのまたほかのひとの欲望を生きている。

だが、バブルが崩壊して、ひとびとはこれまでの価値観の見直しを迫られた。

これを著者は「生きる意味を自ら構築していく時代への転換」と呼んでいる。

けれども、多くのひとびとはいま「生きにくさ」を抱えている。

これを象徴するのが「透明な存在」という言葉である。

この言葉を覚えているひとも多いだろう。

1997年に神戸で起こった小学生殺傷事件の犯人、
酒鬼薔薇少年が犯行声明のなかで使っていた言葉である。

彼はその中でこう記していた。

……「私は透明な存在である、しかしその透明な存在が実在であることを認めていただきたい」……。(25頁)


少なくないひとたちがこの言葉に共感を示した。

「そうだ、わたしも透明な存在だ」と。

 しかし、この「透明な存在」という言葉の意味を、教育学者をはじめとして多くの人々は誤解していた。誰からも見えない透明人間である、だからもっと大人が子どもを見てあげなければならないと誤解したのである。もっと子どもにかまわなければいけない。もっと子どもの心に介入していかなければならない。それは、「心の教育」が必要だ等の議論へとつながっていく。(25−26頁)


この発想は、本質をあまりに捉え損ねていた。

短絡的すぎた。

どういうことだろうか?

ふつう誰でもそれぞれの色やにおいや癖を持っている。

わたしはこれを「個性」と呼ぶことを注意深く回避したいのだが、
誰にでもそれぞれの「特徴」があり、それぞれに本音を抱えている。

 しかし、若者たちは、そうした色やにおいを出せば必ず嫌がられる、いじめられると言うのだ。子どもがそうした独自の色やにおいを出すと、親は、「そんなことしている間にもうちょっと勉強しなさい」と言い、学校の先生は、「君はひとつひとつのことにこだわってうるさいね」とか「もうちょっと素直になれないかな」と言う。友達からも本音を言うと「ちょっとくさいよ、そんなの」と言われてしまう。
 となれば、子どもたちは誰からも受け入れられるように、自分の色を自主的に消していかなければならない。自分のにおいも誰からも抵抗のないように脱臭していく。そのことによって、子どもたちは、透明になっていく。誰からも受け入れられる透明な人間になっていくのだ。
 「透明な存在」の「透明」とは、他者から受け入れられるために「自己透明化」していった人間の「透明」さなのである。(27頁)


そうすると、大人がもっと子どもたちをよく見てあげようとすると、
子どもたちはより一層「透明な存在」にならざるを得ないという矛盾に悩む。

ひとの目を気にして生きなければいけない社会。

周囲にあわせて自分を押し殺さなければならない社会。

これは、よく言われる日本の前近代性を示しているのだろうか?

著者は、そうではない、として、こう述べる。

そこには、効率化・合理化を旨とする近代社会システムが巧みに結合されている、と。

どういうことか?

著者の体験から見てみよう。

著者はかつて愛媛県松山市にある国立大学で教員をしていたという。

そのときの経験は驚きの連続だったという。

まず学生たちはほとんど自分の意見を言わない。周りの人間がどう行動するのかを見て、自分もそれに合わせることを考える。先生がどんな答えを求めているのかを常に気にしていて、それに合う答えを探そうとする。
 将来何をやりたいかと聞かれれば、多くの学生は「県庁に勤めたい」とか「市役所に行きたい」「銀行に……」などと言うが、「何故そこに行きたいのか?」と聞いてもけげんな顔をされる。「先生、だって県庁ですよ」と、どうしてそれ以上説明する必要があるのかと言わんばかりの態度だ。この県をもっと良くしたいとか、自分はどんな施策の実現に取り組みたいから県庁に入るというのではなく、県庁に入ること自体が目的なのだ。県庁とは最も「世間体」のいい就職先であり、子どもが県庁に入れば、親も親戚も学校の先生も一生「世間に顔だてできる」わけで、もう人生に何の心配もいらない。(40−41頁)


つまり、地方の国立大学は「世間体」が最大に確保される場になっていたのだ。

これを聞いて丸山真男の「であること/すること」という議論を思い出す。

近代以前は、「であること」がひとびとの評価基準になっていた。

「高貴な生まれであること」

「農民であること」


ひとは「何であるか」によって判断され、「〜であること」という評価基準が中心だった。

だが、近代化というのは「すること」という判断基準に転換することである。

「正しい行ないをしていること」

「優れた活動をしていること」


そのひとがどういう評価を得るかは、職業や地位によってではなく、
活動内容によって判断されるべきだと考えるようになる。

あるひとが優れているのは、「社長だから」ではなく、優れた行ないをしているからだ。

あるひとが非難されるのは、地位や身分が低いからではなく、
批判されるような行ないをしているからだ。

ところが、日本ではいまもまだ「〜である」価値が残っている。

こういう話である。

著者をさらに驚かせたのは、学生がこれまで受けてきた教育だった。

 例えば、授業開始のチャイムが鳴ると、そのときまだ教室に入らず、廊下を歩いている生徒はその場でストップモーションで停止しなければいけないという高校がある。この校則を学生から聞いたときは、あまりの滑稽さというか理不尽さに我が耳を疑い、とても信じられなかったのだが、講義中にこの話を「笑い話」として学生たちに紹介してみると、「いや、それは嘘じゃない。うちの学校では廊下で停止し、その上、目をつぶらなければならなかった」と真面目な顔で学生から反論されたのでまた驚愕することとなった。その学校では、廊下で目をつぶって停止している生徒を、見回りの先生がチェックし、出席簿に遅刻と書き込んだ後に「解凍」されるのだという。(42頁)


理不尽でワケの分からない校則は、過去の遺物ではなかった。

現在も健在だった。

 また、男女交際が禁止されているという高校もあった。いまの日本でそんなことが許されるのかと驚かされたが、まずその是非はさておき、私が気になったのは、共学の高校で何をもって「男女交際」と認定するのか、ということであった。そこを聞いてみると、同じクラスの男女が話をしていても男女交際とは認定されないが、「違うクラスの男女は話をしてはいけない」のだという。(43頁)


1980年代は、おかしな校則がよく話題になっていた。

「男女が話をするときは背中合わせで話さなければならない」

「トイレットペーパーの使用は1回につき30cm以内」


そんなバカげた校則が本当にあったのだと聞いたことがある。

では、これらの校則は単なる理不尽で非合理的な規則ではないのではないか?

しかし、これらの校則はそんなに理不尽なものではない。実はこの校則はどちらも極めて合理的な判断に基づいて施行されている「近代的」なものなのである。(43頁)


そう、管理する側にとってはきわめて「合理的」なものだったのだ。

それはある意味では合理性の追求の果ての、「狂気」とも言うべき合理性であった。(45頁)


学校は勉強をするところだ。

その目的から外れることは、雑音・ノイズとして排除されなければならない。

「狂気の合理性」に馴致せられていくことで、何が起きるか?

校則を守っているひとたちは、校則を守ること自体が重要なことに思うようになる。

校則を守らないひとたちは自分勝手でずるい。

何はともあれルールはルールなのだから守るべきで、
それに従わないひと、ルールを共有しないひとは、排除すべき異質な存在だ。

そう考えるようになるだろう。

君が代の斉唱に抵抗しているひとたちが、まさにそうした視線にさらされているだろう。

それに対して、「個の確立」が重要だ、ともよく言われる。

グローバル化の時代、強い個人が生まれないといけない、と。

「個」が確立していなかったから日本は戦争に突入してしまった。

だから「個の確立」が重要である、と。

こうして「構造改革」が支持された。

では、ここにきてやっと近代的な「個の確立」が理解されてきたと見てよいのか?

そうではない。

「構造改革」を支持したのも、
じつは日本人の世間意識が反映していたのではないか?

 というのも、この「構造改革」路線の選択も、「グローバル・スタンダード」に従わないと、世界から排除されてしまう、世界中から奇異の目で見られてしまうのではないかという「世界の目」を気にした選択であったように思われてならないからだ。先進国のコミュニティーには規則があって、それを守らないと仲間はずれにされてしまうらしい。それなのに、その規則に気づかずにずっとやってきてしまった。何て恥ずかしいことなのだろう。これじゃあ世間の笑いものだ。早く「グローバル・スタンダード」を学んで、仲間に入れてもらわないと……。こういった感覚だ。(94頁)


このときの「先進国のコミュニティー」というのも、
せいぜい「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれた特定の「コミュニティー」
にすぎなかったわけだが。

「構造改革」が支持されたのは、
「経済成長さえすれば幸せになれる」と考えていたからである。

政府や産業界がTPPを推進しようとしているのも、
「経済成長さえすれば幸せになれる」と考えているからである。

何より大事なのは「経済成長」。

こういう考え方を、著者は、「経済成長教」と呼ぶ。

一種の宗教だというわけだ。

 そもそも日本のGDPは500兆円であり、ドイツとフランスとイギリスの合計に匹敵する。そのような規模まで経済成長を成し遂げたにもかかわらず、経済活動の「中身」よりも、経済成長を追い求めてしまう愚かさ……。(101頁)


「経済成長」に終わりはない。

だから、永遠に競争させられる。

「もっと成長を」。

「もっと流行を」。

長い間、この日本社会で私たちは「他者の欲求」を生きさせられてきた。他の人が欲しいものをあなたも欲しがりなさい。そして「他者の目」を過剰に意識させられてきた。他の人が望むようなあなたになりなさい。しかし、そうやって自分自身の「生きる意味」を他者に譲り渡すことによって得られてきた、経済成長という利得は既に失われ、私たちは深刻な「生きる意味の病」に陥っている。(132−133頁)


そうした状況で、小泉政権が誕生した。

そこで彗星のごとく現れ出た「構造改革」は、私たちをがんじがらめの不毛な「生きる意味」から解放する、自由の使者のように登場した。しかし、それは一見自由に見えて「生きる意味」においては私たちに全く自由を与えない。「高い報酬を与えられる」ということ、「高い数字を得る」ということが誰にとっても究極の価値であるという目標が与えられ、その目標を達成するための競争においていままではいろいろな障壁があったのでそれを取り除き、これからは自由に競争できるようにしましょう、という社会ははたして自由な社会であろうか。それは「競争の自由」であって、決して「生きる意味の自由」ではない。(133頁)


「生きる意味」は、経済成長のなかにはない。

「生きる意味」は、強い国家のなかにもない。

いま求められているのは、
わたしたちひとりひとりが、
自分自身の「生きる意味」の創造者となることである、
と著者は言う。

これをもっとも象徴的にあらわすのが、
『釣りバカ日誌』のハマちゃんだ、と著者は言う。

……「これぞ21世紀社会における一番『強い』人間像だ」……。(134頁)


ハマちゃんこそは自分の「生きる意味」の創造者だからだ。

 私たちの社会はもはや物質的には十分豊かなのだ。いま真に求められているのは、生きることの創造性、「内的成長」の豊かさなのである。(147頁)


では、その「内的成長」のきっかけとなるのは何であろうか?

それは、「ワクワクすること」と「苦悩」の2つである、と著者は言う。

なるほど。

日本は、「ワクワクすること」を子どもたちから奪っているように見える。

「苦悩すること」も子どもたちから奪っているように思える。

いや、子どもだけではないかもしれない。

大人もこれらを持てないようにさせられているようにも思える。

なぜか?

「世間の目」があるからだ。

 数年前、私の教えている東工大で留学生向けの講義を受け持ったとき、「日本の大学のどこに一番違和感を感じたか?」と聞いたことがある。その答えにびっくりした。ひとりが「学生が授業中寝ていることです」と答えたところ、皆が「そうだ、そうだ」と大きくうなずいたのである。「どうして大学生が教室で寝ているんですか? それでも大学生ですか!」と言うのだ。(207−208頁)


なるほど。

必死に学ぼうとする外国人留学生から見れば、日本人学生は異様に見えるだろう。

 それを日本人大学生にぶつけてみると誰もが「だって、誰にも迷惑かけていないんだから、寝ようが勝手じゃないですか」と言う。「寝ていて、授業についていけなくて後で困るのは自分なんですから、別に他人に何か言われる筋合いじゃないでしょう」。しかし、海外からの留学生にとってショックなのは、「大学生にもなって教室で寝ているあなたには、大学生としてのプライドがないのか?」ということなのだ。寝ていたら先生から怒られ、成績が下がるならば寝ない。友達から非難され、最低人間だと思われるのなら寝ない。しかしそうした「人の目」がなくなれば、寝てしまう。しかし、「人の目」がなくなっても、「自分の目」から見て教室で寝ることは大学生として恥ずかしいことだと思わないかと留学生たちは問うているのだ。(208頁)


「生きる意味」を自分で創造することのできない日本の若者の姿が、ここにある。

「プライド」と言うと、すぐ日本人は国家主義の方向へそれる。

排他的な民族主義の方向へそれる。

「日本人としてのプライド」。

そうではない。

ここで言う「プライド」とは、個人レベルのものである。

国家とか民族とかそういう大きな存在にすがるのではなく、
自分のなかから自分の生きる意味を創り出すことができているのか?

そう著者は問いかけている。










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内 容 ニックネーム/日時
最初の開国は明治維新である。二番目の開国は戦後である。三番目の開国はこれからである。


考え方にはいろいろある。自分たちの考え方が理に合わないものであることを証明するのは難しいことである。だが、それが証明できなければ、おかしな考え方を改めることも難しい。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

noga
2011/01/19 06:20
◆nogaさま

コメントありがとうございます。

ただ、何がおっしゃりたいのか、よく分かりませんでした。わたしの記事とどう関係しているのかよく分かりませんでしたが、とりあえず、ありがとうございました。
影丸
2011/03/22 09:52

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