フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 文部省著作教科書『民主主義』(径書房)

<<   作成日時 : 2011/01/09 00:50   >>

トラックバック 0 / コメント 0

本書は、文部省が1948年(昭和23年)に発行した教科書である。

「はしがき」には、こう記されている。

 今の世の中には、民主主義ということばがはんらんしている。民主主義ということばならば、だれもが知っている。しかし、民主主義のほんとうの意味を知っている人がどれだけあるだろうか。その点になると、はなはだ心もどないといわなければならない。
 では、民主主義とはいったいなんだろう。多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をする人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの現われであるには相違ない。しかし、民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。すべての人聞を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。(1頁)


驚くではないか。

文部省(当時)は、こんなにも熱っぽく民主主義を語っていたのである。

現在でも、日本人のなかには、
この民主主義が何であるかを理解していないひとは多い。

「民主主義とは多数決だ」と言って何の疑問も持たないひとも多い。

中国には「民主主義」は存在せず、
日本だけがアジアでまともな民主主義国家だと思い込んでいるひとも多いだろう。

そういうひとたちにこそ本書を読ませたい。

 人間の尊さを知る人は、自分の信念を曲げたり、ボスのロ車に乗せられたりしてはならないと思うであろう。同じ社会に住む人々、隣の国の人々、速い海のかなたに住んでいる人々、それらの人々がすべて尊い人生の営みを続けていることを深く惑ずる人は、進んでそれらの人々と協力し、世のため人のために働いて、平和な住みよい世界を築き上げて行こうと決意するであろう。そうして、すべての人間が、自分自分のオ能や長所や美徳を十分に発揮する平等の機会を持つことによって、みんなの努力でお互の幸福と繁栄とをもたらすようにするのが、政治の最高の目標であることをはっきりと悟るであろう。それが民主主義である。そうして、それ以外に民主主義はない。(2頁)


「ボス」という言葉に時代を感じさせるが、
上司や先輩の「口車」に乗せられ何も言えないひとは今も少なくないはずだ。

 したがって、民主主義は、きわめて幅の広い、奥行きの深いものであり、人生のあらゆる方面で実現されて行かなければならないものである。民主主義は、家庭の中にもあるし、村や町にもある。それは、政治の原理であると同時に、経済の原理であり、教育の精神であり、社会の全般に行きわたって行くべき人間の共同生活の根本のあり方である。それを、あらゆる角度からはっきりと見きわめて、その精神をしっかりと身につけることは、決して容易なわざではない。複雑で多方面な民主主義の世界をあまねく見わたすためには、よい地図がいるし、親切な案内書がいる。そこで、だれもが信頼できるような地図となり、案内書となることを目的として、この本は生まれた。(2−3頁)


いかがだろうか?

現在、全国の学校で校長による管理指導体制を強化し、
教職員の自由な発言を封じ込めようとしている文部科学省官僚に読ませたい。

文部科学大臣にも読ませたい。

都知事にも、教育委員会の連中にも読ませたい。

なぜ文部省は当時、これほどまでに民主主義を熱く説いたのか?

それは言うまでもなく敗戦の反省があったからだ。

侵略戦争の反省があったからだ。

 これからの日本にとっては、民主主義になりきる以外に、国として立って行く道はない。これからの日本人としては、民主主義をわがものとする以外に、人間として生きて行く道はない。それは、ポツダム宣言を受諾した時以来の堅い約束である。(3頁)


あのときの「堅い約束」はどこへ行ってしまったのだろうか?

そう思うと、深いため息が思わずもれる。

 しかし、民主主義は、約束だからというのでしかたなしに歩かせられる道であってはならない。それは、自分から進んでその道を歩こうとする人々に対してのみ開かれた道であり、その人たちの努力次第で、必ず繁栄ど建設とに導く道である。われわれ日本国民は、自ら進んで民主主義の道を歩み、戦争で一度は見るかげもなくなった祖国を再建して、われわれ自身の生活に希望と繁栄とを取りもどさなければならない。ことに、日本を再建するというこの仕事は、今日の少年少女諸君の双肩にかかっている。その意味で、すべての日本国民が、ことに、すべての少年少女諸君が、この本を読んで、民主主義の理解を深められることを切望する。そうして、納得の行ったところ、自分で実行できるところを、直ちに生活の中に取り入れて行っていただきたい。なぜならば、民主主義は、本で読んでわかっただけでは役に立たないからである。言い換えると、人間の生活の中に実現された民主主義のみが、ほんとうの民主主義なのだからである。(3頁)


以上が「はしがき」の全文である。

これを「えまのんさん」にも読んでもらいたいと思う。

「えまのんさん」とは、以前当ブログにコメントをくださった方である。

本書には、いまではおよそ考えられないほどの過激な記述も見られる。

たとえばこれだ。

 人間は、鳥や獣とは比較にならない知能を持っている。それにもかかわらず、たったひとりの人間が多数の鳥や獣の王様になるということは、詩やおとぎばなしの世界以外にはありえない。ところが、人間の世の中には、昔から王様というものが実際に存在した。その王様は、自分よりはるかに知能の低い動物を支配したのではなく、同等の知能を持った多数の人間を支配していたのである。それどころか、王様の方が家来よりもずっと知能の低い「ばか殿様」だった場合が、少なくないのである。(58頁)


すごい。

志村けんよりもずっと早くに「ばか殿様」と言っている。

当時、この「ばか殿様」に「天皇」を重ねなかったひとがいたであろうか?

本書では、民主主義とは何であるかを解説している。

歴史的にどう発展してきたのかも解説している。

政党政治の問題点がどこにあるのかということも解説している。

かつて日本の政治は財閥に牛耳られ、
政友会の黒幕は三井、民政党の金主は三菱だったとハッキリ書かれている。

世界各国の民主主義のちがいなども解説している。

政治体制が民主主義を採用するだけでは十分でなく、
社会生活が民主化されることもきわめて重要であると述べられている。

なぜなら、そうでなければ、
日本の民主主義はいつでも簡単に消え去ってしまうだろうからである。

もとより、社会生活の根本から民主化していくというのは簡単なことではない。

長い間、人の心にしみこんで来た民主主義的でない気持をぬぐい去り、日常生活のすみずみまで民主主義の精神を行きわたらせるには、なみなみならぬ覚悟と修練とがいる。しかも、それが行われなければ、政治の形の上での民主主義も決してほんものにはなりえないのである。(147頁)


このことを、日本人はもっと深く考えるべきではないだろうか?

「日本」は、民主主義でなかった時代の方がずっと長かったのだからだ。

 民主主義の発達する前には、西洋にも封建制度が行われていた。諸侯や貴族が広い土地の領主となって、その土地の人民を支配していた。領主にはおおぜいの家来がいて、それらの家来たちは、領主には忠節を励むが、人民に対しては大きな顔をして権力をふるっていた。そういうふうに、人間の間に身分の差別があって、身分によって人間のねうちに大きなへだたりをつけるのが、封建制度の特色である。日本にも、武家政治の時代を通じて、長い間封建制度が続いた。中央には絶大の権力を持つ将軍があり、地方には大名があって、どんなばか殿様でも、人民は土下座してこれを迎えなければならなかった。将軍や大名の家来は武士で、武士にもいろいろな階級があり、しかも、その武士はすべて一般人民の上に位していた。士農工商といって、社会生活の階層がはっきりと身分で決まり、両刀を帯びた武士は、ちょっとしたことで人民を殺しても、「切りすて御免」といって涼しい顔をしていた。(147−148頁)


「サムライ・ジャパン」や「サムライ・ブルー」などと言って、
呑気にはしゃいだひとたちは、おのれを深く恥じるべきである。

徳川時代に、女子の守るべき教えを説いた「女大学」という本には、「婦人は別に主君なし、夫を主人と思い、敬い慎みて仕うべし。総じて婦人の道は人に従うにあり、夫に対する顔色、詞(ことば)づかい、いんぎんにへりくだり、和順なるべし。」などと書いてある。明君と称せられた白河楽翁でさえ、「修身訓」の中で、「女はすべて文盲なるをよしとす。女の才あるは、おおいに害をなす。」と、説いている。(321頁)


『国家の品格』を著した「品格なき著者」も深く恥じるべきである。

いまでも、家柄によってひとを羨んだり蔑んだりするひとは多いだろう。

そうしたひとたちはいまだに「封建思想」にまみれているのである。

こうしたことは、本当ならば「民主主義の常識」に類することのはずだ。

だが日本が民主化の発展途上にあるどころか、
どんどん後退している状況にあっては、
本書を読んで民主主義の基本的理解を身につけておくことは重要だろうと思う。

また、本書の優れたところは、次の部分にもあらわれている。

それは「民主主義の学び方」について解説した部分である。

民主主義はどのようにして学ぶのがよいのだろうか?

 
ものごとを学ぶためのいちばんよい、いちばん確かな方法は、学ぶべき事柄を実行してみることである。たとえば、野菜の作り方を学ぶにも、本を読み、人の話を聞いただけでは、ほんとうのことはわからない。しかし、自分で家庭菜園をやってみて、種をまき、肥料をやり、害虫とたたかっていると、その間に野菜作りのこつがのみこめるようになる。畳の上でいくら泳ぎ方を教えられても、けっして泳げるようにはならない。泳ぎ方を学ぶ唯一の方法は、実際に泳いでみることである。つまり、実際にやってみることによって学ぶのが、教育の根本の原理なのである。(289頁)


なるほど。

 野球を知るには、野球のルールを学ばなければならない。けれども、いくら野球のルールを研究し、職業野球のじょうずな試合を熱心に見物しても、それでじょうずに野球ができるようにはならない。じょうずに野球ができるようになるために絶対に必要なことは、自分で野球をやってみることである。それと同じように、学校の教室でいくら社会制度や社会問題のことを学んでも、実際の制度や問題を観察し、実地のうえでそれにたずさわってみないかぎり、社会のほんとうのあり方はわからない。(300頁)


そのとおりである。

だから、民主主義を学ぶには、民主主義的な生活を実行してみるのがいちばんよい。(290頁)


どうだろうか?

文部科学省の全職員に読ませたいであろう。

学校という空間が民主主義的でなければ、
子どもたちが民主主義の練習をすることができなければ、
大人になって急に民主主義の実践者になれるはずもないだろう。

民主主義を身につけてこなかった子どもが大人になって民主主義的になれるわけがない。

そのうえ日本の多くの職場も非民主的な空間だろう。

学校も非民主的、職場も非民主的。

これで日本人が民主主義的であるという方がどうかしている。

とはいえ、本書にも重大な限界があった。

それは次の記述に端的に示されている。

……原子爆弾は、今までの人類が考え及ばなかったような破壊力を持つ、恐るべき新兵器である。けれども、人間がそれを破壊のための武器としてではなく、人類の福祉のために利用しようと思うならば、その同じ原子力は平和と繁栄とのためにどれほど大きな働きをするかわからない。(350頁)


そのほかの部分にも限界は見つけることができる。

そうしたことを考慮に入れても、本書は読むに値する。

敗戦を迎え、新しい国づくりに歩み出したあのときの「約束」を思い出すために。

あのときの「約束」は、早くも破れ捨てられようとしているから。

あのときの「約束」、日本国民に対してのみならず、
世界の諸国民に対するものでもあったはずではなかったか?

民主主義の理想は遠い。しかし、そこへいたるための道が開かれうるか否かは、われわれが一致協力してその道を切り開くか否かにかかっている。意志のあるところには、道がある。国民みんなの意志でその道を求め、国民みんなの力でその道を開き、民主主義の約束する国民みんなの安全と幸福と繁栄とを築き上げていこうではないか。(379頁)


本書はこのような力強い決意とともに結ばれている。










テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
文部省著作教科書『民主主義』(径書房) フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる