フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 森巣博『越境者的ニッポン』(講談社現代新書)A

<<   作成日時 : 2010/10/17 15:46   >>

トラックバック 0 / コメント 0

森巣博は、まともなことを書く。

まともな疑問を発する。

だから、偏狭な日本人の逆鱗にふれるらしい。

偏狭な日本人から攻撃されるらしい。

あるとき彼はこう新聞に書いた。

日本のマスメディアは、フランスのルペン、オーストリアのハイダー、
オーストラリアのハンソン、オランダのフォルタインを「極右」と呼ぶのに、
石原慎太郎のことをどうして「極右」と呼ばないのか? と。

石原都知事は、欧米の極右でも言わないような露骨な人種差別発言をしてきた。

それなのに、どうして日本のメディアは彼を「極右」と呼ばないのか?

ごくごく真っ当な疑問だと思う。

ところが、この記事が発表されると、たちまち著者のもとに「ヘイト・メール」の嵐。

わたしはよくこう考える。

かつてのドイツ人は、どうしてナチスなんかに熱狂してしまったのか、と。

あんなに露骨な人種差別思想をどうして支持してしまったのか、と。

いまのわれわれから見れば、誰だってナチズムがおかしいことは分かる。

「人間として最低」だと誰でも分かる。

でも、当時のドイツ人には分かっていなかった。

じつは、それとまったく同じことがいまの日本に起きているのではないか?

自分たちが「人間として最低」であることに気づいていない日本人。

そういえば、先日もそういう類のひとからわたしもコメントをいただいた。

そのひとによれば、わたしの方が「人間として最低」なのだそうだ。

ヘイト・メールを送りつけるひとたちは、
まさか石原慎太郎のことを極右ではないとでも思っているのだろうか?

極右でなければ一体何なのか?

「中立」?

ルペンやハイダーが最低の「外道」だということは認識していて、
彼らといっしょにされたことを嫌がったのだろうか?

だがルペンなどの極右と石原慎太郎は同類である。

そればかりか、靖国神社を支持するひとたちもルペンの同類である。

さて、森巣博は、ユニークな「死刑廃止論」で知られている。

人権NGOアムネスティに寄せられたそのアイデアを紹介してみたい。

死刑廃止に向けたメッセージ

わたしはチューサン階級に所属する博打うちだ。
副業として、文章を書いてオアシを頂戴している。
ちなみに、チューサン階級とは中産階級の意味ではない。
中3階級。中学3年生程度の知識水準とご理解いただきたい。

わたしは「死刑」という刑罰に反対している。
理由は簡単だ。
死刑とは、国民の名でおこなわれる国家による殺人だ。
海外に在住しているとはいえ、わたしも「日本国民」の一人である。
わたしの名を騙(かた)り、勝手に殺人されては堪らんのである。
だから、死刑に反対する。

「死刑」という刑罰にかかわり、正真正銘の中産階級に属する「知識人」あるいは「文化人」たちが政治的、社会的、倫理的な分析をしてくれるだろうから、ここでわたしは、どうすれば日本で死刑が廃絶できるようになるのか、具体的に、かつ、チューサン階級的に考えてみたい。

ただし、まだ食事前の人は、食事を済ませてから以下をお読み下され。


ほとんどのいわゆる「先進国」で死刑が廃止されているのにもかかわらず、日本で死刑が存置しているのは、「8割の世論」があるからだ、と言われている。
それなら、その「8割の世論」をなくせばいいのだろう。
とチューサン階級は考えるのだ。

どうすれば、なくなるのか?
死刑は「国民」による殺人である、と教えればよろしい。
わたしのようなチューサン階級は難しいことを考えられないから、簡単なのである。
ではどうすれば、「国民」の大多数にそう教えられるのだろうか。

これも簡単である。

現在の死刑執行は、拘置所の刑務官によっておこなわれている。
いわば、殺人の代行だ。
これを止めればよろしい。
自分が殺したい人間を、だれか他の者にやらせて涼しい顔をしている、なんてまるでヤクザの親分である。「日本国民」は、そんなに破廉恥ではない。「つくる会」の「のすたるじじい」たちが主張するように、日本人は誇り高いのである。

だから、殺したい奴を自分たちの手で殺すように制度を改めよう。
一回の死刑執行につき、100人くらいを選挙人名簿から無差別に抽出して、死刑執行官とする。
もちろんこれは、死刑制度を容認する「日本国民」の義務である。
拒否はできない。拒否するなんて、それは「非国民」というものだろう。

「おめでとうございます。貴殿、貴女はO月OO日に予定された******の死刑における執行官に当選いたしました。戦争以外で合法的に殺人ができる唯一の機会です。どうぞこの僥倖(ぎょうこう)を存分にお楽しみ下さい」

なんて通知の手紙を送ったら、いいのじゃないかしら。
その通知の手紙は、血の赤がよろしい。
新アカガミ、ですな。

その死刑執行に喜んで駆けつける「のすたるじじい」たちも居るかもしれないが、まあ、これでだいたい「8割の世論」は、ひっくり返せるのではないのでしょうか。

付け加えると、「絞首刑」なんて、一見「汚くない」殺人方法も廃止しよう。
選ばれた死刑執行官は、千枚通し、あるいは文化包丁を使って刑の執行をおこなおう。

やってやろうじゃないのさあ。
上等じゃないのよ。

そして、じっくり考えよう。
「文化包丁は文化的か?」
と。

(森巣博・作家、2003.03.03 up)

(「アムネスティ・インターナショナルWEBサイト」より)


この「制度」にどのくらいのひとが賛成するのだろうか?

死刑に賛成だというひとたちは、どうかご自分で執行してほしい。

著者は「死刑制度は野蛮だ」と断言する。

当然であろう。

死刑は国家による殺人にほかならないのだから。

殺人は野蛮である。

 どこをどう言い繕うとも、死刑は、「国民の名でおこなわれる国家による殺人」だ。「殺人」という認識があるからこそ、大多数の国で死刑という刑罰は廃止されたのである。海外在住とはいえ、わたしも日本国民の端くれだ。わたしの名を勝手に騙られ、人を殺されては堪らんのじゃ。(113−114頁)


わたしもたまらない。

周りの大人たちの大半が死刑に賛成だと思うだけで、息苦しくてたまらない。

国際社会では、死刑制度の廃止は常識である。

ところが日本では、そうではない。

8割ものひとたちが死刑制度に賛成している。

ワイドショーは物騒な事件をBGMつきで大きく取り上げ、
犯人がいかに極悪非道な人物であるかを伝え、
「公開リンチ」を娯楽として楽しんでいるのだ、と著者は言う。

「犯人に人権なんかない」

「被害者の立場になってみろ」


お茶の間の視聴者はテレビ画面に向かって「犯人を殺せ」と吐き捨てる。

食事をしながら、「死刑にしてしまえ」と叫ぶ。

そしてチャンネルを変えて、バラエティ番組に大笑いする。

「被害者の立場になってみろ」

「被害者の人権はどうなるんだ」


これは、死刑制度賛成派が決まって持ち出すいつものご意見である。

 被害者の立場になんか、なれるわけがねえじゃねえか。被害者というのは、「なる」ものではなくて、無理矢理、嫌でも、強引に、力ずくで「させられる」ものなのである。そして、人種・民族・国籍・宗教・性差・思想信条・前科・賞罰を問わずに誰にでもあるからこそ、「人権」なのだ。(116頁)


「人権」などいらない、と言うのなら分かる。

それなら「民主主義」も捨てるべきである。

そして堂々と「野蛮な国家」を国際社会に向けて名乗るがいい。

だが、「人権」を守りたいのであれば、死刑は廃止しなければならない。

 そうでなけりゃ、「年収3000万円以上者権」とか、「生長の家信者権」とか、「逮捕歴10回前科6犯者権」とか、「大田区田園調布住人権」とか、「時津風部屋いじめ兄弟子権」とか、やれるものなら「人権」を細分化していただきたい。
 死刑制度を支持する「8割の世論」は、間違いなく、大手メディアの無責任な煽りと「死刑は殺人である」という自覚に欠けた市民の共犯関係によって作り上げられている。(116頁)


まさにおっしゃるとおりである。

「人権」は、条件をつけて認めるものではない。

端的に言って、日本人はまだ「人権」を理解していないのである。

だから他者の人権侵害にも鈍感でいられるし、
他国の侵略戦争にも協力してしまえるのであろう。

その人権意識の欠如の結果、また死刑制度の支持が高まっていくのだ。

したがって、日本の右傾化は、人権意識の欠如の産物である。

本書でも著者は独自の死刑制度廃止論を展開している。

 死刑制度を継続したいのであれば、それを支持する「8割の世論」を形成する社会の市民が、自らの手で死刑確定者の処刑をおこなうべきである、とわたしは考える。憲法に明記して、日本国民の義務とする。
 処刑ごとに、選挙人名簿から数人無作為抽出して、死刑確定者を「殺人」するようにすればよろしい。つまり「市民参加の死刑執行を」だな。
 それも、(本当はそうじゃないのだが)絞首といった一見「汚くない」方法では駄目だ。千枚通しとかのこぎりとかで、無抵抗な死刑確定者の生温かい生き血を浴びながら、盛大にやってもらおうじゃないか。
 現行の制度では、殺したい者を誰か他の者に殺させ、その制度を維持する市民たちは、涼しい顔をしていれば済む。
 「俺(わたし)がやったんじゃないよ。若い衆が勝手にやったんだ」
 これじゃまるで、暴力団の親分だ。
 「美しい国」の市民たちは、もっと誇り高かったはずだろう。(117−118頁)


非常に鋭い提案だと思う。

「誇り高い日本人」なら、逃げないでいただきたい。

ちなみに、臓器移植についても同じことをわたしは提案したい。

以前にも当ブログで紹介した話なのだが、「臓器移植くじ」の導入だ。

◆「臓器移植くじ

ぜひこの新制度もあわせて成立させていただきたい。

さて、つぎは「レイシズム(人種差別)」である。

 レイシズムは悪である、とする合意が、現在では地球的規模で成立している。(125頁)


当然である。

合意ができているということは、心の問題だけではない。

実際にレイシズムの解決に向けた政策を実行するということだ。

 2005年に開催された第60回総会の報告で、国連は「人種差別を禁止するための立法を促し(第10項)、人種差別を犯罪と規定し、いかなる人種差別行為に対しても、権限のある国家機関を通じて効果的な保護と救済措置を利用する機会を確保する(第12項)」よう勧告した。
 どこの国に対して? 日本に対してだった。ぎやっ!
 国連人種差別撤廃委員会の報告は、日本にはレイシズムにかかわる包括的な認識が欠けている、として、とりわけ以下の3点を指摘した。

 (1) 歴史を編纂する問題。
 (2) 一部の高官による、排外的かつ人種差別的な発言の反復。
 (3) 日本には、人種差別や排外的な発言・行動を規制する法規がない。(127頁)


これも、これまでにわたしも繰り返し書いてきたことである。

日本はレイシストの国である、と国際社会から批判されているのである。

最近ではそれが嵩じて、田母神俊雄前航空幕僚長みたいなのまで現れた。田母神の論文を読んでみると、もうこの人は、妄想とお伽噺の世界に住んでいるのだとしか思えない。(127頁)


本来ならこの男も刑務所へ行くべきひとなのに、
どういうわけか日本ではバラエティ番組にまで出演している(「笑っていいとも!」など)。

彼によると、日本は侵略戦争をしていないのだそうだ。

 日本は、欧米の抑圧と搾取から、アジアを解放したんだって。
 おや、そう、よかったね。ならば、アメリカの抑圧と搾取から日本を解放するために、来月北朝鮮軍が日本に攻め込んできたとしたら、あんたらはそれを歓迎するつもりなんだね。そんな奴が、自衛隊のトップをやってたのか。おい、こりゃ、がんばれよ。(128頁)


まさにそうである。

彼らのような極右は、じつは北朝鮮や中国が日本を「解放」しに来たら、
大歓迎してしまうひとたちだったのである。

ここで石原慎太郎にも再登場してもらうとしよう。

彼は以前、中国人が凶悪な犯罪をおこなっているとして、つぎのような発言をした。

……「こうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」……。(128頁)

石原慎太郎はハッキリと述べている。

DNAという言葉を使って、中国人は「犯罪者」である、と述べている。

こんな暴言は、世界では、極右ですら言わない。

 「将来の日本社会に禍根を残さぬためにも、我々は今こそ自力で迫りくるものの排除に努める以外ありはしまい」(石原慎太郎「日本よ/内なる防衛を」。2001年5月8日、「産経新聞」。……)
 こんな露骨にレイシズム・排外主義に根差した主張を、公的な場でおこなえば、ほとんどの先進国(OECD加盟国)では、発言者は「人種差別煽動」容疑で、逮捕起訴される。他の先進国にも、石原と同じような思想信条を持つ者たちが居ないとは言わない。居る。居るのだが、公的な場でこんな発言をすれば、艦の中でしゃがんでいるのである。(129頁)


ところが石原慎太郎は、刑務所へ送られるどころか、
いまものうのうと都知事という職に就いている。

しかもその極右を持ち上げる恥知らずなメディアまで存在しているのだ。

もうひとり、すさまじい人種的偏見の持ち主を紹介しておこう。

やや古いものだが、覚えているひとも多いだろう。

 「日本人は真面目に借金を返すが、アメリカには黒人やヒスパニックなんかがいて、破産しても明日から金返さなくてもよい。アッケラカのカーだ」
(意味は不明だが本人の人種的偏見だけはよく伝わる、自民党政調会長当時の故・渡辺美智雄の発言)(134頁)


そう、「みんなの党」の党首の父親である。

戦前は国民もいろいろと言い訳ができたかもしれない。

言論の自由はなかっただとか、思想の自由もなかっただとか。

特高に見張られていたのだとか、洗脳されていたのだとか。

だが、いまは国民主権の時代である。

それにもかかわらず、どうしてこうしたレイシストたちが政治家でいられるのだろうか?

その理由は「多くの日本人がレイシストだから」ということしか考えられまい。

日本人にはレイシズムの「民族的DNA」が受け継がれているのだろうか?

こんなレベルの低い話をしなければならないほどに、日本は腐敗している。

 さて当たり前の話で恐縮なのだが、日本国憲法とは、日本国民が日本政府に負託した契約のことだ。基本的に憲法は、国民が国家権力の行使を制限するために存在する。この点をビミョーにわかっていない人たちが多いのではなかろうか。
 それゆえ、閣僚に任命された者たちは、認証のための式で皇居に出掛け、1人ひとり日本国憲法(つまり日本国民から負託された契約)を遵守する、と天皇の前で誓約するのである。
 そう誓っておきながら、歴代政府は、「他の法律・命令を以って変更することが許されない」憲法を破り続けてきた。契約履行をずっとサボってきた。いわゆる解釈改憲である。内閣法制局が、勝手に憲法を解釈し、任意に行政判断をしてしまう。(139頁)


行政は憲法遵守を誓っておきながら、自分でその誓いを破ってきた。

天皇の前で堂々とウソをついてきた、ということだ。

 ……日本の軍事支出はストックホルム国際平和研究所のランキングでは、世界第5位、退役軍人の年金や戦没者遺族年金等まで含めるNATOの算出方式では堂々世界第2位となる。
 それだけ巨大な軍事費を持ちながら、公民が餓死しかけている北朝鮮が攻めてきたらどうすんべえ、などとメディアは国民を煽っとる。(140頁)


メディアは危機感を煽って視聴率や売上げや行部数を稼ごうとする。

戦前・戦中の反省はどこにもない。

改憲派の連中もおめでたいというほかない。

新しい憲法に変えても、どのような憲法に変えても、
日本政府はそもそも憲法を守るわけはないのである。

なぜならこれまで彼らは1度たりとも憲法を守ったことがないからだ。

「法」は守らなくていい、という考えが「美しい国・日本」の伝統のようだ。

「美しい国」といえば、
近ごろメディアに登場することが増えてきた安倍晋三だ。

 従軍慰安婦に対する狭義での強制はなかった、などとトンデモ発言をし、それがアメリカのメディアで批判されると、安倍晋三首相(当時)はワシントンに行き、ジョージ・W・ブッシュに謝罪した。(143頁)


安倍くんにお尋ねしたい。

ブッシュはいつ「従軍慰安婦」だったのか?

ブッシュはいつ日本軍の性奴隷だったのか?

謝る相手がちがうだろう。

どうして安倍はこれほど人間の尊厳を踏みにじることができるのか?

 安倍晋三の顔写真にちょっといたずらしてみよう。鼻梁の真下の位置から唇まで、幅の狭い助平ヒゲを書き込んでいただきたい。ぎゃっ、歴史上の超有名人にそっくりだ、とひっくり返ってしまうのはわたしだけか?(145頁)


「法の支配」が日本では確立できていない。

「人権思想」も日本では確立できていない。

そのことは、警察の腐敗にもあらわれている。

オウム真理教(現アレフ)の信者なら、私有地の駐車場を横切っただけで、逮捕・長期勾留となった。(148−149頁)


オウム信者なら何をしてもいい、ということか。

 オウム真理教信者が、駅に向かおうとすると、私服刑事に暴行を加えられ、「転び公妨」でパトカーで連れ去られる。駐車場を横切っただけで、「非現住建造物不法侵入」容疑で長期勾留される。(163頁)


オウム信者には「人権」などない、ということか。

警察権力の暴走だけが問題なのではない。

 日本全国津々浦々の警察署で裏ガネが作られていた……。(165頁)


これはれっきしとした犯罪である。

この裏ガネがつくられる過程で、いったいどれだけの犯罪が重ねられたのか?

嫌だ嫌だと言っても、下っ端警察官は偽造領収書に署名捺印させられた。これが虚偽有印私文書作成・同行使。これだけで5年以下の青ベベ(懲役囚が着せられるユニフォーム)である。書かせた奴は、強要罪。その偽造領収書は、会計課で処理されるから、ここでは、虚偽有印公文書作成・同行使、詐欺、公金横領がおこなわれた。こうしてできた裏ガネは、一部は警察庁に上納、残りは所轄でいえば課長職以上に配られた。もらった連中は(おそらく)雑所得として税金申告しなかっただろうから、ここで反国家的犯罪である脱税が派生したわけだ。おまけに公務員は、不正を見つけた時にはそれを告発しなければならない義務(『刑事訴訟法』)を負う。警察の裏ガネに関しては、ざっと見積もっても、8つの犯罪が、組織的に繰り返された計算となる。(166頁)


警察は犯罪者集団だったわけだ。

しかも彼ら犯罪者集団はピストルを携帯している。

武器を持った犯罪者集団。

怖ろしい。

言うまでもなく、これら裏ガネの出どころは税金である。

裏ガネ、天下り、政官財の癒着構造。

その結果、背負った借金が、国民1人あたり600万円とか700万円とか発表されている。でも、あれはウソです。地方自治体が持つ長期債務や年金の給付金不足、特殊公益法人の隠れ債務まで合わせれば、国民1人当たりの借金はその約2倍だろう、と専門家は推計している。
 1人当たり1300万円。一家4人で、5000万円を超す借金。
 ……
 ……あんた、テレビのバカ番組を見ながら、よくへらへらと笑っていられるな。(156頁)


権力は必ず腐敗する。

その腐敗を監視するのが本来ならメディアの仕事だ。

だが、メディアの腐敗も目を覆うばかりである。

 北京オリンピックがおこなわれる。だから日本のマスメディアは、中国政府によるチベット弾圧がキャンペーン的に指弾された。当然、人権侵害は指弾されるべきだろう。
 しかし、なぜチベットのケースだけで人権を持ち出すのか。中国政府がチベットの自治権拡大活動家に対しておこなえば非難すべき「人権侵害」となるのだが、一方中国ウイグル自治区の自治権拡大活動家たちが、アメリカ政府によって悪名高きグアンタナモ(キューバ)の捕虜収容所に6年間も無裁判で拘束されていれば、「テロの戦い」となる。んっ、んっんっ、なんじゃ、こりゃ?(160頁)


つまり、こういうことなのだろう。

中国がやることはいつも「人権侵害」であり、
アメリカや日本がやれば「人権侵害」に当たらない、ということだ。

日本人のレイシズムは許されるレイシズムである、ということだ。

こういう日本人のあり方をどのように形容すればよいのだろうか?

本書の最初の言葉に戻ればこうなる。

日本人は「無知」である。



おわり










テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
森巣博『越境者的ニッポン』(講談社現代新書)A フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる