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zoom RSS 風間孝・河口和也『同性愛と異性愛』(岩波新書)

<<   作成日時 : 2010/10/28 18:12   >>

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7月のある日、ある女性がこっそり「カミング・アウト」してくれた。

「じつはわたしはレズビアンなんです」


「このひとには言っても大丈夫だ」と思ってくれたのだとしたら、
わたしは大変にうれしい。

だが、彼女にとっての日常はやはり苦しいもののようだ。

ほかの友だちには「カミング・アウト」していないらしいのだが、
いかに彼女が日ごろ息苦しい思いをしながら生活しているかを教えてくれた。

友だちと話をしていても、異性愛を当然視した会話が繰り広げられる。

同性愛をおちょくる会話も「笑い」のひとつとして消費される。

だから自分が同性愛者であることを友だちには言えない。

彼女には自分の本音を言える友だちがあまりいない、と言っていた。

そんな苦しみを抱えながら生活しているひとが恐らくたくさんいるのだろう。

在日朝鮮人・中国人であることを「カミング・アウト」できないひとたちもいるだろう。

別のところである若者たちと同性愛について議論をしていたら、
親から露骨で強烈な同性愛差別を刷り込まれている若者が数名いた。

同性愛差別はまだ根強い。

日本でも、アメリカでも。

アメリカでは、いま、
大学の寮で盗撮された同性愛者の男子学生が自殺するという事件が、
大きな問題になっているという。

この本は、これまでの同性愛問題をとてもうまくまとめている良書である。

先日このブログでも紹介した映画『ミルク』のことも書かれている。

ぜひ多くのひとに読んでもらいたいと思う。

超おすすめ。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


著者はこう述べる。

……カミングアウトをすると、その相手から「なぜ同性愛者になったの?」と聞かれることもたびたびある。(6頁)


異性愛者は、このような問いを投げかけられることはない。

「なぜ異性愛者になったの?」と聞かれることはない。

だが、同性愛者だけはちがう。

社会は「なぜ同性愛者になるのか?」を問い、そこに理由があるはずだと考える。

10年ちょっと前にこんな新聞報道があった。

 三菱化成生命科学研究所の山元大輔さんは、科学技術振興事業団の「山元行動進化プロジェクト」で、キイロショウジョウバエの突然変異体から、ハエにも「同性愛」や「性同一性障害」があるなど、さまざまな性行動異常を見つけた。異常をもたらす遺伝子は人間にも共通するものがあるという。ハエの“同性愛”から何が分かるのか――。
(『東京新聞』夕刊、1999年3月23日付け)


「遺伝子に原因がある」と考える科学者がいる。

これはひとつの「安心感」を社会に与える。

なぜなら、「同性愛は感染する」と心配するひとたちがいるからだ。

「ひとが同性愛者になるのは、遺伝子の異常による」と科学者が「発見」する。

しかし、その科学者のまなざしは、すでに性差別にまみれている。

ここで著者による鋭い批判が行なわれるのだが、
詳細は直接本書を読んでいただきたい。

また、同性愛者は次のような場面に出くわすこともあるという。

自分が同性愛者であることをカミングアウトしたとたんに、「俺はその気はないから」と言い返してくる異性愛者がたまにいる。ある意味、それはとんだ自惚れだが、そのような人にとっては、男性同性愛者は「男」であればどんな人でも性的対象になるとでも思い込んでいるようだ。(168頁)


たしかに自惚れも甚だしい。

ずいぶんと自意識過剰な男である。

日本でよく知られている同性愛差別事件を取り上げよう。

「日本のエイズ1号患者」のことも本書では取り上げられているのだが、
ここで見ておきたいのは「都立府中青年の家」における事件である。

経緯はこうだ。

1990年、同性愛者団体「動くゲイとレズビアンの会(通称、アカー)」は、
都立府中青年の家で勉強会合宿を行なった。

青年の家では、同じ日に、キリスト教系の団体や小学校のサッカークラブ、
大学の合唱サークルが宿泊していたという。

そして彼らから、アカーのメンバーはいやがらせを受けた。

その後、対話の機会をつくるなどして、相互理解を深める試みも行なわれた。

今後もいやがらせが起きる可能性があるため、
「動くゲイとレズビアンの会」は、
青年の家の所長との間で話し合いを行なったという。

すると、所長は「今後の宿泊利用はお断りしたい」と述べたという。

詳しい経緯と内容は本書を直接読んでもらいたいのだが、
所長は「施設利用を拒否する理由」のひとつとして、
「公然と同性愛者の団体であることを名乗っていること」を挙げている。

 所長は、同性愛者の団体であるという自己紹介を、「公然」と「表明」した行為であると形容している。そこには、本来「秘密」にしておくべきことを口にしたという非難の意味が込められているのではないだろうか。(51頁)


同性愛者であることを名乗る団体がいることは、
「青少年の健全な育成にとって好ましくない」と言いたいわけだ。

ところが府中青年の家では、
他の団体との交流においてそれぞれが自己紹介をする決まりがあった。

だから彼らは名乗った。

ところが、同性愛者のグループであることを表明すると、
青少年の健全育成に好ましからぬ影響を与える、と受け取られてしまう。

「黙っていればよかったじゃないか」という意見もあるかもしれない。

だが、黙っていれば「隠している、ウソをついている」と言われる。

立場表明をすれば「わざわざ言うな」と言われる。

まさに差別の典型的な構造がここに垣間見える。

 「まじめな団体だっていってるけど、本当は何をしている団体かわかりませんよね」「『イミダス』なんかをみると、何のために青年の家を利用するんだか疑わしいですよね」「お風呂でいろいろあったっていうけど、そっちの方が何か変なことをしていたんじゃないでしょうかねえ」。(56頁)


これも所長の発言だそうだ。

その後、この問題は裁判に持ち込まれることになり、
「同性愛者宿泊拒否は違法である」との判決が出された。

部落差別や同性愛差別の問題に対しては、
「わざわざカミング・アウトして波風を立てない方がよい」といった意見がいまも根強い。

「昔のようなひどい差別があるわけでもないのだから、おとなしくしているべきだ」
という意見も相変わらず根強いように思われる。

本書を読むとよく分かる。

そうした意見は、おのれの差別を温存しているのである。

加害の構造を隠蔽し、被害者の側の問題にすりかえているのである。

まずは、マジョリティの側がマイノリティに対して、
どのような不安を強いているのかを考えてみる必要がある。

同性愛者たちは、自分が同性愛者であることを周囲に知られたら、
どのような反応を周囲のひとたちは示すのか、という不安を抱えている。

それだけではない。

 別の不安や恐怖もあります。これからの自分の人生はどのようになるのか、まったく想像できないことによる不安です。……会社に入るにしても、結婚しなかったら、周囲からどのような目で見られるのだろうか。年を重ねていったら、どんな老後が待っているのか。最期は誰にもみとられることなく、孤独な死を迎えるようになるのではないか。(75頁)


孤立感と絶望感に打ちひしがれて、みずから命を絶つひとも少なくない。

それが日本の現状である、と著者は述べている。

ここで歴史的な視点で捉えなおしておきたい。

同性愛が「異常」と見なされるようになったのは、じつは近代である。

歴史の勉強をしたひとなら誰でも知っているはずだが、
近代以前にはたいていの社会で同性愛はごくありふれたものであった。

だから「異性愛/同性愛」という社会的カテゴリーも存在しなかったし、
それを「異常」と見なすこともなかったし、
ひとを「異性愛者/同性愛者」と分類することもなかったのである。

「ホモ」という言葉は、「ホモセクシュアリティ」の略語であるが、
近代化の過程で「同性愛」の「犯罪化・病理化」が進められていったのだった。

「ホモセクシュアリティ」という言葉は、1869年にハンガリー人のべンケルトによってつくられました。当時のプロシアにあった男どうしの性行為を犯罪とする法律に反対するときに、ベンケル卜は、同性愛は先天的なものだから、異性愛者に脅威を及ぼさないと主張したのでした。
 しだいに「ホモセクシュアリティ」を弾圧しようとする人たちは、それを先天的な「病い」とみなすようになりました。そういうこともあって、のちの同性愛者たちは、病的な響きを感じる「ホモセクシュアリティ」を徐々に避けるようになっていきました。(38頁)


こうした意見を支えていたのは、宗教的信念だった。

ヨーロッパでは同性愛がどのように「犯罪化」されていったのか?

フランス革命後に成立したナポレオン法典によって、フランスでは同性間の性行為を禁止する法律が廃止され、さらにその影響を受けたベルギー、ルクセンブルク、オランダ、そしてイタリアやドイツの一部でも、成人どうしが合意のうえで、私的な空間でおこなう同性間の性行為については処罰が廃止されていったのである。(78頁)


その後、同性愛の「違法化」は広まっていった。

ドイツ、アメリカ、イギリスでは、この時期に同性間の性行為は刑法上の犯罪とされ、厳しい処罰の対象となっていった。同性間の性行為だけでなく、婚姻外の性行動や、婚姻内でも生殖を目的としない口腔・肛門性交、さらには獣姦などを指してソドミー行為と名づけ、これを禁止する法律をソドミー法と呼んだ。これは旧約聖書のなかに、「ソドム」という町の住民が同性間の性行為をおこなっていたことを理由に、この町が焼き滅ぼされたという話が出てくることが、その名の由来である。(78−79頁)


宗教上の罪として道徳的に非難されただけでなく、
各国で刑法上の罪と見なされるようになっていった。

イギリスでは、1533年にソドミー行為はヘンリー8世によって「自然に反する犯罪」として死刑にされていた。(79頁)


同性愛であるだけで「死に値する罪」だと考えられていたのである。

さらにナチスは同性愛者そのものの抹殺にも乗り出した。記録が破棄されてしまったため正確な数字はわからないものの、少なく見積もって5000〜1万5000人の同性愛者が強制収容所に送られたと考えられている。(81頁)


「死刑制度」の問題は、ここから考えることもできる。

現在ではさすがに同性愛を「死刑」に値する重大な「罪」だと考えるひとは、
ほとんどいないだろう。

だが、そうではない時代があった。

同性愛者であるというだけで、国家によって「処刑」されたひとたちがいたのだ。

時代によって変わりうる価値観にもとづいて、
取り返しのつかない「刑罰」が行なわれ、ひとの命を奪っていったのだ。

イギリスではその後、死刑の対象ではなくなったというが、
著名な作家オスカー・ワイルドは裁判にかけられ懲役刑に服している。

19世紀は、同性愛が刑法上の犯罪と見なされるようになったと同時に、
病気として治療の対象とされた時代でもあった。

……同性愛者は病気であり、懲罰ではなく治療をもって取り扱うべきである……。(82頁)


医療従事者たちは、同性愛を「性的倒錯」と見なした。

症例を集めて、「同性愛者」というカテゴリーをつくり出していった。

医療従事者の罪は大きい。

「同性愛」というカテゴリーが定着すれば、社会的排除の圧力も高まった。

……アメリカでは、ジョセフ・マッカーシー上院議員や反体制的活動を取り締まる非米活動委員会によって、共産主義者とともに同性愛者に対する「魔女狩り」がおこなわれ、同性愛者は公職から追放されることになった。いわゆるマッカーシズムである。(85頁)


マッカーシズムは、「アカ狩り」だけでなく、「ゲイ狩り」も行なっていた。

20世紀、それも戦後になっても、こうした動きはなくならなかった。

西ドイツでは戦後においても刑法175条が維持され、ナチス支配のときよりも多くの男性同性愛者が訴追されていた。なお、私的な空間において成人間の合意のもとでおこなわれる同性間の性行為が175条の適用を免除され、脱犯罪化されたのは1969年のことであり、この条文が正式に廃止されたのは1994年であった。(85頁)


同性愛を「犯罪・病気」と見なす社会に、活動家たちは声をあげはじめた。

 1970年代初頭に、アメリカの同性愛者の活動家たちが勝ち取った最大の成功は、同性愛の脱犯罪化と脱病理化だった。(90頁)


勇気あるひとびとの同性愛解放運動によって、
彼らを苦しめてきた「犯罪化・病理化」がようやく否定されるようになった。

ちなみに、アメリカ全州でソドミー法が撤廃されたのは、テキサス州のソドミー法の合憲性が争われ、連邦最高裁が違憲判決を出した2003年のことである。……それまで同性愛者に対するホルモン療法や、電気ショック療法、前頭葉の切除をおこなうロボトミー手術がなされていたのである。(90頁)


2003年までソドミー法が残っていたという事実に愕然とする。

異性愛者たちはこうした加害の歴史について鈍感すぎるのではないだろうか?

もちろん自戒を込めてこのことを書いている。

では、日本での同性愛に対する政策はどうだったのだろうか?

日本の保守派は認めたがらないだろうが、
男色文化の伝統が古くからあったことはよく知られている。

そこで、日本は同性愛に寛容な社会であると考えるなら早計だ、と著者は言う。

やはり日本でも近代化の過程において、
同性愛を好ましくないものと見なす風潮が生まれていった。

1872年には鶏姦条例が制定されている。

鶏姦とはアナル・セックスを意味する言葉で……鶏姦をおこなった者に対しては杖九十の刑罰が科されるという内容である。杖九十とは木製の杖で身体を90回打つ刑のことである。この条例は翌年、改定律例という刑法の266条で鶏姦罪として新たに規定し直され、鶏姦をおこなった者には懲役90日の罪が科されることになった。
 鶏姦条例がつくられた背景には、白川県(現在の熊本県)からの伺いがあった。県内の学校において男色の悪習が広まっており学生・生徒の勉学に差し障りがあるので取り締まりたいが、そのための法律がないのでどうしたらよいか、という問い合わせに対する司法省の答えがこの条例の制定として示されたのであった。(97−98頁)


もう1度指摘しておくが、
保守派の思想・イデオロギーはこうした歴史にまるで無力である。

さて、では現在の状況がどうなっているのかを見てみよう。

十数年前のある出来事を著者は紹介している。

ある高校に勤務していた養護教諭のエッセイによれば、
1人の男子生徒が保健室をしばしば訪れるようになったという。

とはいえ、何か悩みを打ち明けてくれるわけでもない。

なかなか話を切り出せない生徒に対してこの先生は、
自分の気持ちを手紙に書くことを勧めたという。

すると、生徒は保健室に来なくなった。

しばらくして養護教諭は職員室に呼び出された。

担任が生徒の隠し持っていた手紙を取り上げて、内容を読んだら、
同じクラスの男性生徒へのラブレターだったという。

そのラブレターをめぐって緊急会議が開かれ、そこへ養護教諭が呼び出されたのだった。

読者のみなさんは、こうした場でどのような意見が表明されると予想するだろうか?

読者のみなさんだったら、どういう意見を表明するだろうか?

緊急会議では、以下のような意見が次々に出されたという。

「ラブレターの宛名の生徒が襲われたら困るから退学させるべきだ」

「治療を受けさせるべきだ」


教師たちの見識を疑わせるのに十分なものである。

同性愛差別が一般市民に深く浸透していることの何よりの証拠だろう。

学校教育では、同性愛について特別の授業があるわけでもない。

 こうした環境のなかで同性に惹かれる生徒たち、また「男らしくない」「女らしくない」と周囲からみなされた生徒たちが、「ホモ」「オカマ」「レズ」「おとこおんな」といった言葉を投げつけられ、いじめの対象となることが繰り返されている。(118頁)


子どもたちの間にジェンダー規範が根強いのは、大人の影響である。

子どもたちの言動は、大人の言動をデフォルメしているにすぎない。

 同性を好きになったことをクラスメートに知られて興味本位な噂の対象にされ、さらには好きになった相手からも「気持ち悪い」などと言われる。教員もこうした状況に積極的に介入することなく、ときにその生徒の感情を笑いものにしさえする。(119頁)


同性愛者たちは、このような環境のなかで生きることを強いられているわけだ。

「性的指向と自殺未遂の関連」についての調査がある。

15〜24歳の男女約2000人を対象にしたものだ(朝日新聞、2008年10月29日大阪版)。

それによると、こんな調査結果が出ているという。

異性愛者と、同性愛者・両性愛者・その他と答えた非異性愛者の自殺未遂の割合を男女別に比較すると、男性では異性愛者が4.7%であったのに対し、非異性愛者は24.5%、女性では異性愛者が11.2%であったのに対し、非異性愛者は20.7%であった。男性で5倍強、女性で約2倍、非異性愛者のほうが自殺を試みているという結果が示されている。(119−120頁)


同性愛者にとってこの世界は、異性愛者の想像をはるかに超える息苦しいものだ。

しかも同性愛者を苦しめ、死に追いやる側の異性愛者たちは、
加害の暴力性にあまりに鈍感であり、またもやせせら笑っているのである。

2000年2月10日、JR京葉線新木場駅近くの都立夢の島緑道公園で、
30代の男性が激しい暴行を受けて殺害されるという事件が起きた。

わたしもこの事件を覚えている。

やがて犯人が逮捕された。

中学3年生(14歳)、高校1年生(15歳)、成人男性(25歳)の3名だった。

彼らは公園周辺に集まる同性愛者たちを標的に、暴行と強盗を繰り返していた。

これは「ヘイト・クライム」にほかならない。

 特定の社会集団への憎悪によって引き起こされる犯罪を、「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」という。被害となる社会集団とは、人種、宗教、性的指向、障がい、エスニシティ、国籍、年齢、性別、ジェンダー・アイデンティティ(性自認)、政治的信条などにもとづく集団であり、多岐に及ぶ。(126頁)


こうした事件は東京以外の各地でも発生しているという。

いま日本は右傾化が強まっていることもあって、
路上生活者や在日外国人をターゲットにした「ヘイト・クライム」も多い。

まさに「ヘイト・クライム」天国である。

にもかかわらず、日本のメディアは「ヘイト・クライム」として取り上げない。

上の事件も各メディアは「ヘイト・クライム」であることを巧妙に隠して報道した。

同性愛者に憎悪を向けることを「ホモフォビア」と言う。

つまり、ホモフォビアとは、同性愛者に対する嫌悪や恐怖心であり、病んでいるのはレズビアンやゲイの側ではなく、同性愛を嫌悪し恐怖する社会の側なのだ、とする概念なのである。(133頁)


上の事件の加害者も「ホモフォビア」の持ち主だった。

実際被告たちは次のような供述をしている。

……「こいつはホモで人間のクズだ、変態野郎だ」(15歳少年の供述調書、2000年2月29日)、「ホモ連中は人間のクズでウザイ連中だ。そんな連中はどうなってもかまわない」(同、2000年3月1日)……。(141頁)


路上生活者を襲撃したり殺害したりする連中の発言内容と驚くほど似ている。

でも最近は日本もいい方向に変わってきたのではないか、
と思うひともいるだろう。

ゲイであることを表明しているタレントも活躍するようになった。

たとえば、最近、テレビをつければ、多くの番組で「オネエキャラ」が登場しています。実際にはほとんどがフェミニンなゲイ男性です。(147頁)


レズビアンのタレントもほとんど見られない。

多くのゲイ・タレントたちは「過剰な女らしさ」を身につけたひとたちだ。

ゲイ・タレントを見て「わたしたちよりもよっぽど女らしいわよね」というのは、
一般女性たちがしばしば使うありがちな「褒め言葉」でもある。

このこともわたしにとっては興味深い現象である。

ともあれ、同性愛者に対する偏見・差別・暴力はいまもつづいている。

同性愛者への暴力をなぜわたしたちは問題にしなければならないのか?

それは「人権問題」だからである。

日本よりもはるかに進んだ取り組みを行なっている国が意外なところにある。

南アフリカ共和国である。

 1996年5月8日、南アフリカ共和国は、性的指向にもとづく差別を禁止する条項を含めた新憲法を制定した。(149頁)


過酷なレイシズムの経験をもつ国がたどりついた反省である。

このあと、本書では、日本の各自治体の取り組みを紹介している。

最後に「性同一性障害」にも触れておきたい。

日本で注目されるキッカケとなったのは、埼玉医大でのケースだった。

大きく報道されたのでわたしも覚えている。

1995年に性同一性障害患者の性転換手術を認めたのだ。

その後、いくつかの病院でも同様の申請が行なわれたという。

TBSドラマ『3年B組金八先生』でもこの問題が取り上げられ、
性同一性障害の学生を演じた上戸彩の熱演ぶりは記憶に新しい。

これまで日本では性転換手術は認められていなかったために、
これによって救われたひとたちはもちろんいただろう。

ただし、これは悩ましい問題を含んでいる。

「性同一性障害」は「心の性」と「体の性」の不一致による病である、と説明される。

だから医療の力を借りて手術をしなければならないと説明される。

 これは、同性愛者が運動のなかで主張してきたような、「同性愛は病気ではない」という語り方とは反対の説明のしかたである。(164頁)


もうひとつ悩ましい問題がある。

性転換手術によって「心の性」と「体の性」を一致させることによって、
かえって異性愛規範が強化されてしまうということである。

どういうことかお分かりになるだろうか?

たとえば、ここに性同一性障害に苦しむAさんがいるとする。

生物学的な性別ではAさんは女性なのだが、心の性は「男性」だとしよう。

『3年B組金八先生』の事例と同じものと思っていただいてよい。

Aさんが恋愛対象として好きになるのは「女性」だ。

Aさんは「心の性」と「体の性」が一致していないことに苦しんでいる。

そこでAさんが性転換手術を行なうとどうなるか?

Aさんは男性の身体を獲得し、「心の性」と「体の性」と一致させる。

そして、晴れて女性との恋愛をたのしむことができる。

世間もこれをごく普通の異性愛と見なせるため、受け入れやすい。

そこでなされたふるまいや語りは、「男らしさ」「女らしさ」というジェンダー規範に合わせて自分をつくり上げなければならないという、ジェンダー化する作業ともなる。ジェンダー化する作業は一面でジェンダー規範を強固なものにする可能性もはらんでいるだろう。(165−166頁)


著者は述べていないのだが、じつはもうひとつ問題がある。

これは医療側の問題なのだが、
「性同一性障害」といっても、身体は健康体であることに何ら変わりがない。

医療というのは、病気を治すものである。

その限りで、身体にメスを入れ、傷つけることが許されている。

ところが、「性同一性障害」においては、身体は健康そのものなのだ。

健康な身体にメスを入れるのが果たして医療なのか?

そうかといって、
「性同一性障害」を「心の病」と見なして、治療を「心」に向けてしまえば、
これはこれで異性愛規範の強化につながる。

これは今後の課題である。

長くなったので、そろそろ終わりにしよう。

同性愛者にも家族がいる。

同性愛者は、しかし、大半は異性愛の家族から生まれてくる。

したがって、同性愛者は親や親戚からさまざまな圧力を受ける。

親の無理解に苦しむ同性愛者は多いだろう。

「結婚だけはしてほしい」

「将来結婚せずに1人で生きていくつもりなのか」

「結婚だけはして、孫の顔をみせてほしい」


そんな言葉が投げかけられるという。

異性愛者たちによるこうした言葉はそれなりに切実なものなのだろうが、
差別と暴力に鈍感であってはならないだろう。

そして、これらの言葉はよく見ると、
同性愛者だけに投げつけられるものではないことも容易に見てとれるのではないか?

多くの独身女性たちに投げつけられる言葉でもあるだろう。

この記事のはじめの方で、同性愛差別を刷り込まれている若者のことを書いた。

もちろんそんな若者ばかりではない。

高校生のときに海外のゲイ・パレードに参加したことがある、
というすばらしい若者がいたこともここに記しておきたい。














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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
影丸さん
良い本をご紹介して頂きました。
日本のセクシャルマイノリティの問題に興味があるので、時間があけばこの本を読もうと思います。
以前、AIV患者やポジティブの支援者、同性愛者支援者、外国人支援者、芸術家、キリスト教関係者が立ち上げたコミュニティカフェでボランティアスタッフをしていたことがありました。
それ以来、日本の同性愛者たちの現状には関心があります。
やはりテレビを見ていて、普通に差別的表現が出てきてしまうことに違和感があります。
そして、ホモフォヴィアで有名なアメリカのHIP HOPアーチスト、エミネムがホモフォビアであることをほとんどスルーして、受け入れられてしまう日本、そして差別発言が反骨心を表す発言として受け入れられる日本。ものすごく疑問です。
(エミネムに関しては、同性愛者であるエルトン・ジョンは「彼の音楽的才能は素晴らしい」と受け入れていることは太っ腹だと思います。だけど、嫌悪主義を認めているわけではないですからね…)

それはそうと、私のブログにも初めて厄介なコメントが書き込まれました。
丁寧に返答したのですが、論争嫌いな僕としては憂鬱です…
フットチーネ
2010/11/07 20:31
◆フットチーネさま

再びコメントをくださって、どうもありがとうございます。お返事がすっかり遅くなってしまって大変に失礼いたしました。

そうでしたか、フットチーネさんは、やはり只者ではないと予感しておりましたが、そういう活動もなさっていたのですね。衷心から敬意を表したい気持ちでいっぱいです。

>差別発言が反骨心を表す発言として受け入れられる日本。ものすごく疑問です。

じつは最近わたしもまったく同じことを考えておりました。これについてはこれまでも批判してきましたが、これからも批判しつづけていこうと思っています。

あらら、やっぱり厄介なコメントが書き込まれてしまいましたか……。わたしもいま面倒なひとにつきまとわれているのですが、うんざりさせられますよね。

またよかったら当ブログにお立ち寄りください。わたしもフットチーネさんの記事を読ませていただきます。あなたのような方と知り合うことができて、うれしいです。ブログも書きつづけてみるものですね。ありがとうございます。
影丸
2010/12/30 14:16

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