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zoom RSS 大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書)A

<<   作成日時 : 2010/08/19 23:41   >>

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かつての日本は、1億総中流社会と呼ばれた。

現在は、二極化が進行して格差社会と呼ばれている。

格差は深刻である。

だがそれ以上に深刻なのは、来るべき救済の視点が不在であることだ。

ここで著者は、「リスク社会論」を紹介する。

勉強しているひとにとってはおなじみの議論なのだが、
ほとんどのひとは知らないかもしれない。

「リスク社会」とは何のことなのだろうか?

リスク社会とは、環境問題やテロのような社会的レベルから、家族崩壊や失業のような個人的レベルまでの、さまざまなリスクの可能性にとりつかれた社会である。(128頁)


格差社会の本質は、リスク社会にあるのだ。

「でも、リスクなんて昔からあったのではないか?」
と疑問に思うひともいるだろう。

そういうひとは、「リスク(risk)」と「危険(danger)」の違いを考えてみるとよい。

……リスクは、選択・決定との相関でのみ現れる。リスクは、選択・決定に伴う不確実性(の認知)に関連しているのだ。リスクとは、何事かを選択したときに、それに伴って生じると認知された――不確実な――損害のことなのである。それゆえ、地震やけ旱魃のような天災、突然外から襲ってくる敵、(民衆にとっての)暴政などは、リスクではない。……とすれば、リスクが一般化するのは、少なくとも近代以降だということになる。(129頁)


では、リスク社会にはどのような特徴があるのだろうか?

リスク社会のリスクには、2つの顕著な特徴がある。第1に、予想され、危惧されているリスクは、しばしば、きわめて大きく、破壊的な結果をもたらす。たとえば、温室効果ガス(二酸化炭素等)の増大に代表される、自然生態系の破壊……。あるいは、テロ……。
 第2に、このようなリスクが生じうる確率は、一般に、非常に低いか、あるいは計算不能である。(131頁)


温暖化のリスクの確率を計算することは不可能に近い。

だが、リスクの存在は疑いようがない。

このとき、ときに皮肉な結果に立ち会うことになる。リスクの低減や除去をめざした決定や選択そのものが、リスクの原因となるのだ。たとえば、石油等の化石燃料の枯渇はリスクだが、それに対処しようとして原子力発電を導入した場合には、それが新たなリスクの源泉となる。あるいは、テロへの対抗策として導入された、徹底したセキュリティの確保は、それ自体、新たなリスクでもある。このように、リスクそれ自体が自己準拠的にもたらされるのである。(132頁)


リスク社会の最大の問題点は、人間社会の基本を破壊してしまう点にある。

人間社会の基本とは、倫理と民主主義だ。

自称リスク専門家たちが「脅威」の存在をやたらと強調する。

彼らはそれによって儲けるから、笑いが止まらないだろう。

だが、われわれにとっては甚だ迷惑な話である。

そこでは、客観的・超越的な正義がなくなってしまう。

ひとびとが依拠すべき規準が消失してしまうのである。

このことはネットを考えると分かりやすい。

グーグルは、自らが権威ある第三者として、これらのことを判断したり、決定したりはしない。代わりに、グーグルは、ウェブサイトの間の一種の「人気投票」によって、ウェブサイトのネットワークに自己決定させているのである。その自己決定のためのアルゴリズム(ページランク・アルゴリズム)は、複雑で、その内容は公開されていないのだが、基本的な考え方は、他のサイトから張られているリンクの数が多いほど人気が高いと評価し、さらには人気の高いサイトからのリンクは人気のないサイトからのリンクよりも重要で、それ自体が人気の高さの証拠であると解釈し、表示の順序を決めよう、という点にある。(145−146頁)


そのような時代では、何が規範の役割を果たすのだろうか?

逆説的な言い方になるが、こうなる。

……リスク社会では、自由であることが規範化されている。(146頁)


誰でも「自由であれ」と命じられている。

「自由であれ」と命じられる社会では、誰も責任をとらない。

だから「自己責任論」が跋扈してしまうのである。

「自己責任論者」は、
自分たちが倫理と民主主義を破壊していることにも気づかずに。

「グーグル・ダンス」や「グーグル八分」といった言葉がある。

グーグルが社会からの批判をあまり浴びないのはなぜなのか?

それは、彼らがネット上の純粋な道具・僕として自らを示すことに
成功しているからである。

とすると、アップル社にも同じようなことが言えるのだろうか?

中国でいま起きていることを考えれば、
アップル社が激しい批判にさらされてもおかしくないはずだ。

でもなぜかそれが起きない。

ここには、すでに完璧に監視社会に絡みとられた消費者の姿がある。

かつて監視社会は、われわれの自由を抑圧するものとイメージされていた。

だが、いまやひとびとはそのように考えてはいないのではないか?

この問題を考えるのによい事例がある。

……「リアリティ・ソープ」のようなテレビ番組の異様な成功である。たとえば、フランスで2001年に放映されたテレビ番組「ロフト・ストーリー」は、11人の一般の男女を、大きなロフトに住まわせ、彼らの24時間の行動をただひたすらに撮影した番組である。その視聴率がサッカーのチャンピオンズ・リーグの中継を上回るほどだったということも驚きだが、さらに驚くべきは、監視される11人を公募したところ、3800人もの応募があったという事実である。つまり、彼らは、監視を忌避しているのではなく、むしろ監視されることを望んでいるのだ。
 つまりこうである。われわれは、監視されていることを恐れ、そのことに不安を覚えているのではなく、逆に、他者に――われわれを常時監視しうる「超越的」とも言うべき他者に――まなざされていることを密かに欲望しており、むしろ、そのような他者のまなざしがどこにもないかもしれないということにこそ不安を覚えているのではないだろうか。私生活をただ映すだけのサイトや、「ブログ」のような私的な日記を公開するサイトが流行る理由も、こうした欲望や不安を前提にしないと説明できまい。あるいは、若者が、ケータイへの着信やメールを待ち焦がれるのは、自らが誰かのまなざしと配慮の下にあることを確認し、安心するためであろう。(151頁)


さらにもうひとつ。

たとえば、Amazon.comに接続すると、私に対する推薦図書のリストが提示される。(152頁)


これを見て、
「わ、自分は監視されている、気持ちわるい」と思ってしまうひとは、
古いタイプのひとなのだ。

アマゾンは、ひとびとが欲しくなりそうなモノを提示してくれる。

そしてひとびとは、実際にそれらが欲しくなる。

ここには、自由の制限はない。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


多文化主義は、現代に適合的な思想様式である。

この多文化主義は、個人の内部にも生成している。

多重人格の問題だ。

ところで、ここで興味深い事実が浮き彫りになる。

それは、しばしば多重人格者が「偽の記憶」を語るという事実である。

なぜ彼らは「偽の記憶」を必要としてしまうのか?

「偽の記憶」はいったい何を隠蔽しようとしているのだろうか?

このことを考えるうえで参考になるのが、前回紹介した「現実の虚構化」だ。

すなわち、「カフェイン抜きのコーヒー」。

「アルコール抜きのビール」。

「煙の出ないタバコ」。

そしてアメリカの唱える「犠牲者なき戦争」。

ところが、すこぶる興味深いことに、このようにして兵士の心的なストレスや罪の意識を軽くしてやっても、兵士たちは、しばしば、敵と直接に対面して銃剣等で戦うという場面を、何度も夢想することがあるのだという。……最初は、戦争の「現実」から逃れるために、戦争を虚構に近づける工夫がなされる。だが、兵士たちは、その悲惨な「現実」へと逃げようとするのだ。マーティン・ジェイは、アブグレイブ刑務所から漏出した映像――アメリカ兵がイラク人の囚人を拷問している映像――に関して、……「だが、〔アメリカ人〕兵士たちが、いったい何のために、カメラ向けに詳細な演出を施し、わざわざポーズを取って、自分たちに不利な映像を残したのか、まったく謎である」と述べている(ジェイ『暴力の屈折』)。もっともな疑問である。だが、アメリカ人兵士たちは、虚偽記憶的なものを、単なる空想や夢想を超えて、実際の場面として構築し、まさにそのことの証拠・記録を残そうとしたのだ、と考えたらどうであろうか。つまり、アメリカ人兵士は、敵(イラク人)と直接に対面する暴力的な「現実」を欲したのではないか。(164−165頁)


以上の傾向をまとめるとどうなるか?

現代社会は、2つのベクトル――現実への逃避と極端な虚構化――へと引き裂かれているように見える。(165頁)


歴史修正主義もこの文脈で捉えることができるのだろうか?

とするならば、
現代の現実を秩序づけている反現実は「不可能性」である、と著者は言う。

わたしの引用では、流れがどうにも分かりにくい、という部分があるだろう。

そういうひとは直接本書を読んでみてほしい。

さらに著者は、「不可能性」とはいかなるものなのかを問う。

そして、ここには「家族の否定」が存在していると指摘する。

ただし注意しなければならないのは、
保守派のマヌケが言うのとは別の意味においてだ、という点である。

「家族の否定」とは、
日本の伝統的な家族が崩壊してきた、という意味ではない。

なぜなら、そもそも保守派がイメージする家族は新しい現象だったのだから。

家族社会学者の定説によれば、性別役割分業、子どもが2人であること、核家族であること等を条件とする日本型近代家族がその萌芽を現すのが、1955年頃であり、それが広く普及し、定着するのは、1970年代の前半である。(173−174頁)


その後、ひとびとの性やジェンダーをめぐる規範意識に
大きな変化が見られるようになった。

たとえば、結婚する前に性交渉を持つべきではない、
と考えるひとはきわめて少数になった。

 ……「家族・男女関係」に関する意識の変化は、近代(家父長制)家族と、それを支える諸規範の衰退を示唆している……。(176頁)


そして1990年に近づくころ、
日本には不可解な犯罪が見られるようになった。

著者は興味深い殺人事件を取り上げているのだが、ここでは省略する。

ただ分かりやすい事例を指摘するなら、
オウム真理教事件はまさしく「家族の否定」を象徴する事件だったと言えよう。

……誰にとっても、家族は――選びようのない――必然として体験されるのだ。ところが、しかし、20世紀末期以降の、先に見たような若者たちの奇妙な犯罪が示しているのは、家族関係の「偶有化」とでも呼ぶべき感覚である。……あの若者たちにとって、自らの与えられた家族が、必然とは感じられていない、ということである。(177頁)


そういえば、1980年代末期に、
『ムー』や『トワイライトゾーン』といったオカルトや怪奇現象を扱う雑誌が
若者の間で人気を博したことがあった。

投稿者は、必ず、「前世名」をもっていると主張する。(178頁)


さらにわたしたちの連想はつづく。

オウム信者も「ホーリー・ネーム」を名乗っていたではないか。

あの神戸の少年も「酒鬼薔薇聖斗」と自称し、
その「聖名」を彼が創造した神「バモイドオキ神」からいただくための儀式として、
殺人行為を行なっていたと見ることができるのである。

彼らが求めていたのは、現実の家族以上に原初的な何かであった。

 本来最も自然なものとして受容されるべき家族の内的な関係を偶有化してしまう別の関係、それは何か? ……それは、他身体が自身体に参入してくるかのように感受される、極限的に直接的なコミュニケーションではないだろうか。(180頁)


彼らはそこにこそ「純粋な関係」を見出していたのではないか?

著者はある調査結果を紹介する。

それによると、若者のある意識が鮮明になってくる。

……「携帯電話の電波の入らないところにいると不安になる」者ほど、あるいは「着信がないか何度も確認してしまう」者ほど、ひとりでいること、ひとりで食事することを辛いと感じる傾向がある。(183頁)


携帯電話をほとんど必須の道具として用いる若者たち。

それがないと「生きていけない」とまで感じている若者たち。

……そこで求められているのは、近接性の感覚、ほとんど完全な同時性を覚えるほどの、他者の直接性の感覚である。(184頁)


住まいの中での電話の位置の変遷を振り返ってみるとよい。

@玄関→Aリビングルーム→B個室→C携帯電話。大まかに言えば、@が茶の間のある家に、Aがリビングルームのある家に、そしてBがワンルームに対応し、Cがそれ以降の家族と住まいの段階の電話のあり方である。@とAにおいては、外部の他者が電話を通じて個人に到達するためには、家族という緩衝帯を通らなくてはならなかった。しかし、B、そしてとりわけCにおいては、他者は、家族をスキップして個人に直結することができる。(215頁)


こうして著者は、「不可能性」の正体を解き明かす。

人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができず、〈他者〉を恐れてもいる。(192頁)


これを「他者抜きの他者」と呼ぶことができる。

……「××抜きの××」の原型は、〈他者〉抜きの〈他者〉、他者性なしの〈他者〉ということになるのではあるまいか。〈他者〉がほしい、ただし〈他者〉ではない限りで、というわけである。(193頁)


自分をかき乱す他者に恐怖しながらも、同時に他者を求める。

その純粋形態が「ひきこもり」である。

 現在、若者たちの間で人気の、恋愛物のアニメやゲームは、……一つの設定を共有している。恋愛する若い男女は、しばしば幼馴染なのである。(194頁)


なぜ彼らは幼馴染に惹かれるのか?

それは、幼馴染が親子関係を超えた宿命性を感じさせるからだ、と著者は言う。

 「現実」から逃避するのではなく、「現実」へと逃避する者たちがいる。……この場合、「現実」というのは、日常のそれではない。それは、現実の中の現実ともいうべきもの、つまり激しく、ときに破壊的でもある現実である。(218頁)


ここに看取されるのは、破局への衝動である。

ここで著者は、「物語る権利」と「真理への執着」の対立を読み取る。

が、この話の詳しい紹介は割愛。

ともかく、「信仰の外部化」という論点に著者はたどり着く。

このことを考えるうえで参考になるのが、「スタジオのお客さま」である。

テレビのバラエティー番組でよく見られるあの「お客さま」だ。

「スタジオのお客様」は、ある種の民族が有する「泣き女」と同じ機能を果たしている。「泣き女」は、葬式に参加し、他の参列者の代わりに、泣き悲しんでくれる。これによって、実際には泣かなかった参列者も、泣いたことになるのだ。(232頁)


日本では、いわゆる「ひな壇の芸人たち」も同じ役割を果たしているだろう。

やたらと手を叩いて過剰に、そして必死に「笑う」彼らの姿は、
冷静に考えてみれば相当に異様な存在であるはずだ。

ちっともおかしくないのに、彼らは大笑いする。

だが、それを観ている観客はなぜか楽しんでいる気になってしまうのである。

ここに見られるのは、
「ほんとうは信じていないのに信じているふりをすること」である。

彼らは無自覚に「信じている」のである。

これを「アイロニカルな没入」と呼ぶ。

アイロニカルな没入とは……意識と(客観的な)行動との間の、独特の逆立の関係を指している。意識のレベルでは、対象に対してアイロニカルな距離を取っている(「ほんとうは信じてはいない」と思っている)。しかし、行動から判断すれば、その対象に没入しているに等しい状態にある(実際には信じている)。多文化主義的な社会とは、人々のアイロニカルな没入によって成り立っているのだ。
 アイロニカルな没入は、本気で信じている他者の存在を、外部に前提にしているときに帰結する。「信仰」が、その他者に転移されるのだ。(233頁)


そういえば、現代の企業はアウトソーシングを積極的に進めている。

現在のグローバル資本主義の下では、「外部委託(アウトソーシング)」が広範に活用される。シンボリック・アナリストが担当するような仕事(企画、デザイン、広報、会計等)は、親会社が引き受けるが、いわゆる3K仕事――直接の物質的生産――は、しばしば「第三世界」にある子会社に委託するのだ。(233−234頁)


汚い仕事はすべて外部化してしまえばいい。

公害も人権侵害もすべて外部化してしまえばいい。

戦争までアウトソーシングされている時代である。

これと同じ構図が、私たちの日常生活にも見られるというわけだ。

いわば「信仰の外部化」だ。

ここからさらに細かな議論が乱雑に展開されるのだが、
その紹介も省略する。

そして、著者は例の「愛の矛盾」という概念へと向かう。

たとえば、われわれは、「絵に描いたような美人」や「非のうちどころのない優等生」を愛するわけではない。……逆に、もし「完全に均整の取れた美人」がいたとすれば、「とても知的で道徳的にも完全な男」がいたとすれば、彼/彼女はどこか魅力を欠き、情熱を引き出すきっかけや手がかりをもたないという印象を人に与えるのではないか。つまり特異的な欠点がない者を、われわれはかえって愛することができないのだ。(261頁)


それゆれ、憎悪と完全に合致した愛こそ、新たな可能性を秘めているのではないか?

裏切りを含んだ愛こそ、ひとびとを連帯へと導くのではないか?

「欠点は、愛のために不可欠な要素」である、と著者は言う。

「体臭は、人を嫌悪させると同時に、人を魅惑する」と、著者は言う。

ここで著者は、数学の新しい理論を取り上げているのだが、これも割愛。

最後に、著者は、民主主義の可能性に言及している。

1つは、アフガニスタンで活動している医師中村哲氏と「ペシャワール会」の実践だ。

彼らは、他者の他者性を感受する活動を展開している。

もう1つは、松本サリン事件の被害者河野義行氏の実践だ。

彼は、敵対する相手との間に関係を築いている。

つまりオウム信者と直接交流を持ち、議論を重ねている。

これらの実践にこそ、真に徹底した民主主義への希望がある、と著者は述べる。











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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
 意識的・無意識的とに係わらず、人類の苦悩、「自らの存在意義」。私はそんなアプローチで考えます。
 ところで、いつも興味深い内容に感謝してます。お礼は言えるときに言っておく主義ですので唐突ですが…。
山路 独
2010/08/20 03:05
◆山路独さま

いやあ、どうもありがとうございます! こちらこそ、いつもコメントをいただいて感謝しております。

山路さんのおっしゃるアプローチは、じつはマルクスやヴェーバーという思想家のアプローチに似ています。山之内靖という著名な研究者が『受苦者のまなざし』という本を書いています。これはやや期待はずれの本でしたが、ご参考までに。
影丸
2010/09/04 13:55

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