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zoom RSS 大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書)@

<<   作成日時 : 2010/08/17 23:16   >>

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現実は、わたしたちの生きるそのままの姿ではない。

現実は、意味づけられたコトやモノの秩序として立ち現れる。

その意味でわたしたちは、現実と反現実の間を生きている。

「現実」の反対語は3つある。

「現実/理想」の「理想」。

「現実/夢」の「夢」。

「現実/虚構」の「虚構」。


戦後日本はそのまま「理想→夢→虚構」の時代の推移と見ることができる。

これが社会学者・見田宗介の見解であった。

@ 理想の時代:1945〜60年

A 夢の時代:1960〜75年

B 虚構の時代:1975〜90年


では、その後に来るのは「何の時代」なのだろうか?

それが著者のテーマであり、彼はそれを「不可能性の時代」と名づける。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


敗戦後の日本では、2つの「理想」が対立していた。

言うまでもなく、アメリカとソ連という2つのイデオロギー体制の対立だ。

結局多くの日本人は「アメリカ」という「理想」を選択したのだが、
敵国であったはずの「アメリカ」を受け入れるのは容易ではなかった。

ここに関わるのが、あの「8月15日」の記憶だ。

8月15日がどうして「終戦記念日」として選ばれたのだろうか?

ほかに適当な日があったはずなのに、だ。

……日本が降伏文書に調印した9月2日や、ポツダム宣言を受諾した8月14日(玉音放送で天皇が読み上げている日付も8月14日である)などがありえたはずである。なぜ、それらの日ではなく8月15日になったのか。第1に、その日であれば、「敗戦」ではなく「終戦」の日になるからである。日本が対外的に敗北を認めた日ではなく、天皇が国民に向けて戦争の終結を告知した日だからである。第2に、お盆との関係を考慮すべきであろう。このことは、戦争の(自国の)死者たちが、こともなく、先祖たちの集合の中に統合されてしまったことを意味する。
 ……しかし、「8月15日」という認識が国民的に確立するまでに、なぜ10年の時間を要したか……。(33−34頁)


著者が「なぜ10年の時間を要したか」と問うているのは、
「終戦記念日」の記憶が戦後10年経ってやっと定着しことを指している。

ではなぜ?

それは、日本人がこのときになってアメリカと自己を同一化させたからである。

彼らはこう自分たちに言い聞かせた。

戦争に負けたのではない。

戦争は終わったのだ、と。

やがて政治問題への関心を急速に失っていった日本人は、
「マイホーム主義」という名の経済的利己主義へと邁進していった。

だが、この「理想の時代」を揺さぶる「微妙な軋み」もあった。

1960年代にあるミステリー作品が大ヒットするのである。

それが『砂の器』と『飢餓海峡』である。

ここにはある共通点がある。

それはいったい何なのか?

知りたいひとは本書をお読みいただきたい。

さて、「理想の時代」は長く続かなかった。

それは、日本人のアメリカへの信頼が低下していく時期と完璧に一致する。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


戦後日本のなかで、突出して注目された少年犯罪が2つある。

ひとつは、1968年に起きたN少年による連続射殺事件。

もうひとつは、1997年に起きた神戸児童連続殺傷事件。

2つの事件をつなぐ符号は、決して偶然ではない。

N少年は、死刑判決が確定しても、長らく執行されずにいた。

だが、死刑判決確定から10年以上経って、突如死刑が執行された。

1997年のことだった。

なぜこのときに死刑が執行されたのか?

神戸の事件が世間を震撼させていたからである。

「虚構の時代」を象徴しているのは何だろうか?

ひとつは、「家族」である。

映画『家族ゲーム』(監督・森田芳光)が描いていたように、
家族はそれぞれ互いの視線を交わらせることがなくなった。

家族の結びつきは解体に向かった。

交わらない視線の先にあったのは、虚構のボックス、テレビであった。

もうひとつ「虚構の時代」を象徴する現象がある。

それは「東京ディズニーランド」だ。

「虚構の時代」とは、「消費社会」のことである。

消費社会では、商品は、ときに有用性からはまったく独立した、情報的差異を通じて消費される。商品は、使用価値(現実)ではなく、一種の情報的な差異(虚構)の領域に定位されるのだ。(79頁)


「差異性の幻想」と無邪気に戯れる時代。

それが「虚構の時代」である。

だがこの時代も終わりを告げた。

もはやわれわれは、「虚構の時代」の欲望をさらに徹底化させている。

どういうことか?

ひとびとの安全性への欲求が強まっている。

その欲求は、現実を虚構化し、現実を虚構へと近づけようとしているのだ。

それは、たとえば「エロゲー」「ギャルー」あるいは「美少女ゲーム」等という名で呼ばれている、「危険抜きの恋愛」「恋愛抜きの恋愛」のゲームの形で、実際に、具体化されてもいる。
……すなわち、危険や害悪をもたらす要素を抜き去って、快楽をもたらす要素だけを分離したと見なされている、さまざまな製品に、われわれは囲まれている。スラヴォイ・ジジェクは、こうした製品の代表例として、カフェイン抜きのコーヒーを挙げている……。類似の例はいくつも見つかる。ノンアルコールのビール、脂肪抜きのクリームやミルク……。こうした系列の極限には、麻薬抜きの麻薬があるはずだ。そして、実際、ある。大麻がそれだ。大麻の解禁を求める世界的な運動があるが、その主張するところは、要するに、大麻は危険ではない――ノンアルコールのビールのようなものだ――ということである。(82頁)


こうした現象は風俗の領域だけのものなのだろうか?

もちろん答えは否、である。

すでに時代に適合的な政治思想が準備されている。

リベラルな多文化主義思想こそ、この時代のイデオロギーなのだ。

多文化主義は、カフェイン抜きのコーヒーの思想版なのである。(83頁)



  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


ここで著者は、「オタクという謎」へと分け入っていく。

オタクの街といえば「秋葉原」だが、
ここには独特の雰囲気が漂っている。

独特の雰囲気というのは、そこに集うひとびとのことを言っているのではない。

街そのものの独特の雰囲気のことである。

まるでオタクの個室がそれ自体都市空間へと拡張したように見える。

その秋葉原の建築物には、共通の傾向がある。それらは、オウムのサティアンのように、きわめて窓が少ない、箱状の建物なのだ。たとえば透明なガラスを多用した、渋谷の建築物と対比させてみるとよい。(90頁)


ここで著名なマンガ原作者・竹熊健太郎のある著作が取り上げられる。

竹熊健太郎は、「国鉄鉄民」と呼ばれるある人物のエピソードを紹介している。

その名から分かるように、「国鉄鉄民」さんは「鉄道マニア」だ。

だが、国鉄鉄民さんは、とりあえず、総武線にしか興味がない。彼は、総武線を複線電化することに、異常な情熱をもっていた。(91頁)


この部分を読むだけでも、相当に興味をそそられる。

総武線にしか興味を示さない「鉄道マニア」。

そこで彼は、総武線の複線電化を実現すべく、涙ぐましい努力を重ねるのだが、
それがまためっぽうおもしろいのである。

興味のあるひとは本書を読んでいただきたい。

ところで、「オタク」に関して、ぜひ引用しておきたい箇所がある。

 オタクに関して、しばしば、「虚構と現実を混同している」と言われる。これは、馬鹿げた批判である。彼らもまた、虚構と現実とを区別するだろう。だが、虚構を現実と見なしてはいないが、逆に、現実を、虚構として、虚構と権利上異ならないものとして感覚する感受性は、オタクの特徴である。現実も、意味的な構築物であると考えるならば、さまざまな可能世界(虚構)の一種でしかない、ということになるからだ。(102−103頁)


オタクに対して、現実と虚構を混同していると批判するのは、的外れである。

それでは何も見えていない。

また、オタクを批判する多くの「ふつうのひとびと」は、重大な点を見逃している。

それは、彼らもオタクと似た世界をじつは生きているのだ、という事実だ。

オタクはそれを見やすいかたちで生きているにすぎない。

ともあれ、オタクにはある特徴が見られる。

著者はそれを、身体的な活動性の低下、身体の具体性からの逃避、と呼ぶ。

他方、これとは正反対の現象も見られる。

身体加工の流行だ。

タトゥーやリストカットや整形手術はこのカテゴリーに入る。

身体の直接性からの徹底と身体の直接性への回帰。

この矛盾する現象が、現代を特徴づけているのである。










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