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zoom RSS 廣松渉『廣松渉 マルクスと哲学を語る』(河合文化教育研究所)

<<   作成日時 : 2010/08/14 14:33   >>

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廣松渉の単行本未収録の講演集が出版された。

生前の廣松先生の講演を聞くことがでなかったひとたちも、
この本のおかげで講演を聞くことができるわけだ。

めでたい。

素直に喜びたい。

そして、いまもこうして出版をしてくれる編集者・出版社に感謝したい。

講演録なので、とにかく読みやすい。

どのくらい読みやすいかというと、このくらい読みやすい。

……国民経済学者の連中は私有財産の運動の法則は確かにいろいろ明らかにするが、私有財産なるものが一体どうやって成立したかということについては一向明らかにしてくれない。……
 マルクスとしては、国民経済学者の連中が前提してしまっているように、私有財産というものを前提としてしまうことはとうていできない。さりとて当時マルクスがつき合っていたプルードンみたいに、「財産とは盗みなり」ということでも彼は満足することができなかった。ヘーゲル法哲学の学徒として出発したマルクスですから、私有財産とは盗みなりといっても、盗みということが成り立つためには、私有財産が前提になっていることにはすぐに気がつく。私有財産があってこそ、盗みが成立するのであり、盗みによって私有財産が成立したというのは論理的には循環論法になるわけです。これでは満足できない。(66頁)


新自由主義も同じである。

彼らは、いかにして他人の財産を巻き上げるかについては悪知恵を絞るが、
経済の秘密や謎については一向明らかにしてくれない。

彼らは、市場経済が「自然」であるかのように扱う。

市場経済がとても「自然」であるはずもないことは、誰でも分かるだろう。

だが、それが分かっているひとでも、
「使用価値」は対象物に内在する「自然な性質」だと思ってしまう。

しかし、「使用価値」でさえ「自然」であるはずもない。

 ……使用価値は差当って自然的な性質のように思えるけれども、使用価値といっても、未開人の所に行ったら恐らくこの時計などという物はおよそ何の価値も無いでしょうし、テープレコーダーだって未開人の世界に行ったらおよそ価値ないでしょう。使用価値それ自身、ある意味からいうと社会的・歴史的に決まるのであって、単なる自然的な性質ではない。(85頁)


このようにとっても分かりやすい。

廣松先生の射程は、
もとより新自由主義の克服といったレベルにとどまらない。

近代知の乗り越えという壮大な思想なのである。

では近代知とはどのようなものなのか?

……近代合理主義のメルクマールとして、実証主義との結合、それから効率主義、さらには数量化手続きということを申しました。そういう合理主義と言ってよいかどうか知りませんけれども、近代合理主義を支える発想としては、やはり要素主義的、アトミズム的、機械論的ということが基調になっている。(193頁)


さて、廣松哲学といえば、「意識の四肢的構造」であろう。

難解と言われる廣松哲学だが、これほど魅力的で独創的な哲学もない。

なにせ西洋の哲学者たちが苦闘しながらも解決できなかった数々の難問を、
すっかり解決してみせてしまったのだから。

では、「意識の四肢的構造」とはどのようなものなのか?

第1に、意識の歴史的・杜会的被規定性がいかにして可能的であるか? という問題であります。……私共は往々にして、自分の意識も他人の意識も、現代人の意識も未開人の意識も、人間である限り、根源的には同型的isomorphicだと考える傾きをもっています。しかし、他方、現代人と未開人とでは、知識内容の点で全く異っているばかりではなく、ものごとを感覚的に知覚する際の、知覚の仕方そのものが既に甚だしく異っていることは、よく知られている処であります。(198−199頁)


人びとは社会から大きな影響を受けている。

だが、さらに一歩進めてこう言うことができる。

……社会的なフェアケールは、思考方法や知覚の仕方すら規定し、端的にいえば、意識作用の発現しかたそのものを規定するということを認めなければならないのではないかと思います。言い換えれば、感性的な知覚をも含めた広義の知識内容が社会化されているのと相関的に、そもそも意識主体の側も社会化されているのではないか……。(198頁)


「フェアケール」が何を意味しているのかが分からないひとは、
各自で調べていただきたい。

これはマルクスのきわめて重要な基本概念である。

こうして、“意識の歴史的・社会的な被規定性はいかにして可能か”という先の問題は、意識の主体が共同主観的になることはいかにして可能的であるか、それはいかなる意識構造にもとづいているのか、という問題に帰着いたします。(199頁)


次がまた、すごいのである。

わたしたちの「思い込み」をラディカルに抉り出す。

……第2のことは、意識の非人称性ということであります。意識は必ず私の意識だという考え方、意識のJemeinigkeitという考えは、極めて根強いものであり、かつての精神的実体という考え方と同様、それはいわれのないことではありません。しかし、私の考えでは、意識というものは、本来的にはむしろ非人称的なものであって、人称的な意識、この私の意識、この汝の意識というのは、むしろ非本来的なありかたではないかと思われます。(200頁)


「わたしの意識」と言えるのは、
「意識」を「わたし」の内部に押し込めるからだ。

そこには「錯覚」がひそんでいる。

 第3には、いわゆる意識内容なるもの、すなわち、対象とは別個の存在だと見做されるところの、意識に内属する心像とか表象とかは、存在しないということであります。(200頁)


さて、これらのことをふまえて、意識はどのような構造をもっていると言えるか?

意識とは、あるものをあるものとして意識する、ということである。

何かについての意識ではなく、何かを何かとして意識する、ということだ。

ここに2つの契機が隠されていることが分かる。

さらに意識する側も2つの契機から成り立っている。

 ……各主観は、この私としての契機と、いわば“共同主観化された主観”としての契機との、二肢的な構造をもっていると言えましょう。(208頁)


この四肢的構造を見落とすことで、ひとびとは容易ならざる「錯覚」に陥る。

……私が挙げました4つのグリートを自立化させて考えるイドラについてであります。第1に、Materieを自立化させて、つまり他から切り離してそれ自体を考えようとするとき、センス・データならざるセンシビリア、ひいては超越的実在としての物質が考えられることになり、第2に、かのetwasたるForm、意味をそうするとき、いわゆる意味の第三帝国、ひいてはイデアの世界といった形而上学的実在が考えられることになります。そして第3に、主観一般を実体化するとき、絶対的な精神、ひいては神格的な主観が考えられることになります。そしてまた、第4に、いうところの意識作用、覚識Bewußtheitを自立化させるとき、純粋な意識作用といった無が要請されることになるのではないかと思います。(212頁)


ここがじつに感動的なところなのだ。

興奮を抑えることができないところなのだ。

歴史上の著名な哲学者たちが陥った誤りの原因まで
こうして説明してしまうのだから。

見事というほかない。

ここまで読んで、たぶんチンプンカンプンというひともいるだろう。

そういうひとは、まずこの本から手にとるといいかもしれない。













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