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zoom RSS 生命倫理会議編『いのちの選択』(岩波ブックレット)

<<   作成日時 : 2010/08/10 11:08   >>

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とうとう改正臓器移植法が施行されてしまった。

メディアは、おおむねこれを歓迎する報道に終始した。

右派・保守派は、知的能力の欠如からこれに沈黙した。

ひとびとは、無関心という名の思考停止に陥るか、
問題の深刻さを受け止めずに素朴に「良いこと」と見なしてきた。

あるいは、「やりたいひとはやればいい」と無責任な態度をとった。

そしてきのう、改正臓器移植法関連の大きな報道があった。

家族同意の摘出臓器、国立循環器センターなどで移植へ

 交通事故にあった20歳代の男性が脳死判定され、臓器提供手続きが始まった関東甲信越地方の病院で10日未明、臓器摘出が終わり、早朝から臓器移植を実施する国立循環器病研究センター(大阪府吹田市)など全国の5カ所の病院に各臓器が運ばれた。

 7月17日の改正法施行で、脳死になった人の意思が書面で確認できない場合に家族の承諾で提供できるようになったが、実際に提供されたのは初めて。

 10日午前4時50分、同地方の施設に、ヘリコプターが到着。同4時57分、臓器の入った青いクーラーボックスを担いだ白衣姿の医師2人がヘリコプターに乗り込んだ。

 一方、日本臓器移植ネットワーク(移植ネット)は同日、男性が家族で臓器移植関連のテレビ番組を見ていた際に、本人が口頭で、臓器の提供意思を表示していたことを明らかにした。

 心臓は国立循環器病研究センター(大阪府吹田市)、両肺は岡山大病院(岡山市)、肝臓は東京大病院(東京都文京区)、一つの腎臓は群馬大病院(前橋市)、もう片方の腎臓は膵(すい)臓とともに藤田保健衛生大病院(愛知県豊明市)でそれぞれ移植される予定。

(『朝日新聞WEBサイト・2010年8月10日9時21分』から)


当ブログは、脳死移植について繰り返し批判してきた。

きょう紹介するのは、薄いブックレットだ。

どんなにゆっくり読んでも2時間もあれば読み終えられるほどの薄い本だ。

日ごろ本を読まないひとでも、このくらいなら読めるはずだ。

ぜひ多くのひとたちに読んでもらいたい。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


さて、内容に入ろう。

◆第1章 知っておきたい、考えたい、脳死・臓器移植13のこと

「13のこと」とは、どのようなことか?

@ 脳死・臓器移植とは何か

A 日本における脳死・臓器移植

B 2009年の臓器移植改定

C 脳死とは実際はどのような状態なのか

D 脳死になると、ほどなく心臓が止まるのか

E 「脳死=人の死」と科学的にいえるのか

F 臓器移植によって本当に長生きできるのか

G 「他人の臓器を待つ」とはどういうことなのか

H 法改定で、私たち誰しもが備えるべきこと

I 虐待を受けた子どもが「脳死」とされるとき

J 臓器移植の代わりになる治療法はないのか

K 脳死の保険治療打ち切りから尊厳死法へ

L 科学技術と法律と倫理の関係


この見出しをみれば、おおよその内容が予想できるだろう。

今回はこのなかから、一部を紹介していきたい、と思う。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「脳死はひとの死である」と多くのひとは思い込んでいる。

「死者から臓器を摘出することは許される」と考えている。

 ところが、2008年3月23日、米国のNBC Newsが「四輪バイクの事故で“死んだ”若者が生還」を放映し、驚くべき事実を明らかにしました。(16頁)


わたしが確認したところでは、まだサイトを見ることができる。

英語放送だが、ぜひご覧いただきたい。

ご存知ない方々はショックを受けるにちがいない。

韓国でも脳死判定された患者が生還したというニュースが前にあった。

この事実から考えても、「脳死はひとの死である」とは言えまい。

それどころか、脳死患者は意識をもっている可能性さえあるのだ。

脳死とは植物状態と同様に、意識障害ではなく意思「疎通」障害である可能性があります。(17頁)


もし脳死患者にも意識があるとすると、どういうことになるのだろうか?

その場合、全盲の人に向かって黙って舌を出すことや、全聾の人を陰からののしることなど、本人にはおそらく気づかれない侮蔑の行為の善悪を考えてみてください。それらが許されないことだとするなら、脳死者にたとえ意識がなくわからないからといって臓器をえぐり出すことは、とうてい許されない行為なのではないでしょうか。それは侮蔑をはるかに超えて、その人の命そのものを奪うことにほかならないのです。(17頁)


多くのひとたちは、脳死移植は善意の医療だ、と思い込んでいるだろう。

だが、ここからも分かるように、脳死移植は、
脳死患者に対する「陵辱」であり、「暴挙」であり、「殺人」である。

専門家は、これまで次のように考えてきた。

「脳死者はどんなに長くても1週間以内で心停止を迎える」と。

だが、それを裏切る事例が数多く報告されるようになった。

「長期脳死」については当ブログでも紹介してきたが、
なんと脳死状態を21年間も生きつづけた患者まで実在しているという。

これは海外だけの話ではない。

著者のひとりが実際に面会してきたという長期脳死患者の女の子は、
3歳9ヵ月であり、約1年間の脳死状態を生きつづけているという。

お母さんによると、添い寝をしてとくに「となりのトトロ」や「おかあさんといっしょ」の挿入歌を歌ってあげると、よく反応し、心拍が90台から110台に上がるそうです。3人のお兄さんが見舞いに来たときも、同様とのこと。(18頁)


いま進められている移植医療とは、
こういう今現に生きている子どもを「死者」と見なすことにほかならない。

ここで、なぜ臓器移植法が改正されたのかを考えてみよう。

それは、旧臓器移植法のもとでは臓器提供者(ドナー)が増えなかったからだ。

だからドナー不足を補うために、供給不足を改善するために、
「生きているひと」を「死んでいること」にしてしまおうと考えられたのだ。

その証拠に、ドナーの条件はどんどん緩和されている。

 しかも、米国では、移植の順番を待っている間に亡くなってしまう患者を救おうと、脳死者だけではなく、植物状態の患者、大脳のない無脳児、重度の精神障害者や知的障害者や認知症の老人、このような確実に生きている人々を死者にして、移植臓器を増やそうとする議論が何度もなされてきました。まさにヨーロッパの古いことわざ、「地獄への道は善意で敷きつめられている」の象徴といえないでしょうか。(28頁)


目的のためなら手段を問わない。

これが移植医療のしていることなのだ。

これによってひとびとの意識のあり方も大きな影響を受けざるを得ない。

新たな「差別」の誕生である。

 現在でもさまざまな差別が残っていますが、医療だけは少なくとも公には、患者と患者を比べて差別することはしてきませんでした。しかしながら、脳死・臓器移植はこの医療倫理の大原則を根底からくつがえしたのです。なぜなら、脳死・臓器移植が脳死者と臓器移植の待機患者とを比べて、前者を手遅れと見て、後者に全力を傾けることを前提とするものだからです。(29頁)


これが「いのちの選別」でなくて何であろうか。

では、どうして臓器移植をそんなに進めたがるひとたちがいるのだろうか?

理由は簡単だ。

「バイオ産業は脳死・臓器移植の実現によって、大きく発展していく機会を得ることができたのです。バイオ産業については、通産省、農水省、科学技術庁、文部省、それに厚生省の5つの省庁の大臣が『2010年のバイオ産業を年間25兆円規模の基幹産業に育成する』という同意書を交しています。」……こう記した野本亀久雄は当時、日本移植学会の理事長でした。(33頁)


臓器移植ネットワークを中心とした「ハゲタカ」が、臓器を待ち構えているのだ。

日本は移植医療が遅れているだとか、
海外渡航で移植を待つ子どもがいるだとか、
日本のメディアはそういった報道ばかりを垂れ流した。

その一方で、海外で提供される臓器のドナーに、虐待によって脳死状態に陥らされた子どもが少なからず含まれていることは、まったくといってよいほど語られませんでした。(36頁)


移植医たちは、素人が反論できない言い方で、移植を正当化しようとする。

「移植を受けないと助からないいのちがあるのです」と。

こんなふうに言われると、素人は「そうなのか」と思ってしまうだろう。

だが、ほんとうにそうなのだろうか?

じつはそうではないのである。

……「拡張型心筋症」……に対して近年、病気の原因物質を取り除く「免疫吸着療法」に効果のありそうなことがわかり、日本でも重症患者が社会復帰できるまでになった例が報告されています。……乳児の拡張型心筋症に対してペースメーカーを埋め込む「心臓再同期療法」によって、小学校に通えるまでになった例が報告されています。(38頁)


心筋と胸の筋肉とをつなぎ合わせ、
心臓の収縮力を高める「バチスタ手術」も専門家の間で注目されている。

さらには、「脳低温療法」という画期的な治療法も期待されている。

事故や病気で脳に深刻なダメージを受け、従来なら「脳死状態」になるのを待つしかなかったような患者を救命し、重い後遺症を残さずに回復させる可能性が、この治療法によって開かれました。(38−39頁)


「移植によってしか助からない」というのは、
移植をぐんぐん進めていきたい側の一方的な言い分でしかない。

「アメリカの救急医が脳低温療法のような画期的な救命治療法を創造できなかった背景には、移植医療優先の風潮が強すぎたという事情があったことは見逃せない」……。(39頁)


こう述べるのは、ジャーナリストの柳田邦男である。

脳死とは、まだ生きているひとを死んだことにすることだ。

移植のためなら人間を「材料」にしてしまおうということだ。

 「臓器不足」が続くことを、国・政府の怠慢だと非難する声があります。しかし「臓器不足」は、国民全体の生命・身体を危険にさらすことなしには解消などできません。そうであるとすれば、本当の意味で怠慢だと非難されるべきはむしろ、「臓器移植しかない」として患者を「幻想」に縛りつけることの方ではないでしょうか。(40頁)


脳死移植は、「国民の生命・身体の資源化」にほかならない。

人間はこれまで自然を徹底的に収奪してきた。

これからは、人体という自然まで収奪の対象にしようとしている。

いや、すでにしている。


◆第2章 家族として脳死と臓器移植を経験して(佐藤凛)

第2章は、実際に脳死状態の家族をもったひとによるインタビューだ。

まずここで強調されるのは、
「本人のほんとうの意思」は分からない、という点である。

なぜなら、臓器を取り出されたひとは亡くなってしまうからだ。

 ……臓器を受け取ったけれど失敗した人の話も、ご本人は死んでしまうので、けっして聞けません。臓器移植が成功し、「受け取ってよかった」「生きていてすばらしい」という人の話しか聞けず、臓器を摘出された人、移植を受けて亡くなった人、その二者が忘れられている。(49頁)


この話を聞いて、虐殺の犠牲者を思い出してしまうひともいるのではないか?

虐殺の犠牲者は、虐殺を証言できない。

なぜなら殺されてしまったからだ。

「生前、臓器提供の意思を表明していた」と言っても、
その場になってどう思っていたのかは分からないのである。

しかもここで寒気さえ覚えるのは、移植医たちの態度である。

 移植医とは最初、ICUのなかですれ違って挨拶した程度でしたが、そのときに思ったのは、この人は、きっと心臓や肺が必要なだけで、相手を治療すべき患者としては見ていないな、ということでした。(54頁)


移植医にとって目の前の患者は、もはや全力で救うべきいのちではない。

これから有効活用できる「貴重な資源」にすぎない。

……向こうは、会ってはいけない人に会ってしまったというような、下を向いて、申し訳ない顔をする。なぜなのかわかりません。もし、それが罪悪感のようなものだとしたら、移植もやめればいいのに、と思います。(54−55頁)


まっすぐにひとの目を見ることができないのか?

じつは多くの移植医たちは、後ろめたさを感じているのではないのか?

……ある移植医が「自分の妻には移植はさせない」と言ったんです。「それを世の中の人に言ってください!」と思いました。(55頁)


本当に移植がすばらしい医療なのであれば、
移植医は自分もドナーになるだろうし、自分の家族もドナーにするだろう。

だが実際はそうではないのだ。

戦時中、医療者たちも国家に協力し、戦争に加担した。

残虐な人体実験・生体実験を行なったものまでいた。

医療従事者たちは戦争からいったい何を学んだのだろうか?


◆第3章 さまざまな声

ここでは著名人による脳死移植反対論が紹介されている。

先日亡くなった、世界的にも著名な免疫学者・多田富雄も寄稿している。









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