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zoom RSS 渡辺治『憲法9条と25条・その力と可能性』(かもがわ出版)@

<<   作成日時 : 2010/06/21 08:35   >>

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日本政府と企業が一体となって攻撃してきたのは、何か?

それは、日本国憲法の9条と25条である。

9条は「戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認」を定めたもの。

25条は「生存権」を定めたものである。

現行憲法を変えようとするひとたちは、
この9条と25条を骨抜きにしてきたのである。

本書は、戦後日本の憲法9条・25条をめぐる闘争を概観するのにとても便利である。

砂川闘争とか朝日訴訟とかを知らないひとには、とくにおすすめ。

こういう本を待っていた。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


わたしはかねがね思っていたことがある。

それは、「保守派・右派というのは本質的に卑怯だ」とういうことである。

まだ市民の人権が保障されていなかった時代には、
彼らは人身保護や人権保障にずっと反対してきた。

「表現の自由」がまだ保障されていなかった時代、
彼らは「表現の自由」にも反対していた。

ところが、「人権思想」や「表現の自由」が保障される時代になると、
これらによる利益をたんまりと享受してきたのである。

労働者の権利についても同じだ。

平和についても同じである。

いったい誰のおかげで人権や権利が守られるようになったのか?

保守派・右派の諸君にはそこのところをよく考えていただきたいと思う。

さて、本書では日本国憲法の成立過程を説明しながら、
日本国憲法の意義はどこにあるのかを分かりやすく解説している。

憲法9条が、もともと東アジアの平和保障のためにつくられたものだということは現在でも改めて確認しておくべき大事な点です。なぜなら、最近、改憲派の中から、憲法9条を非難する一つの理由として、「憲法9条は、一国平和主義だ、自分の国だけ、平和ならいい、という理念だ」という言説が出されていますが、9条創設のねらいは、そうした言説に対する批判となっているからです。9条は、もともと東アジアの平和を構想する中からつくられたことを確認する必要がありますし、この構想を受け継ぐ必要があると思います。(49頁)


日本国憲法は日本だけのものではない。

この視点は思われている以上にじつは重要である。

しかしながら、敗戦後間もなく、9条は骨抜きにされた。

日米安保条約。

1955年、米軍の要請で立川基地の拡張計画が持ち上がった。

これに対して、地元住民、労働者、学生たちが立ち上がった。

「砂川闘争」である。

そして1959年、東京地方裁判所で「伊達判決」が出され、
安保条約に基づく米軍の駐留は違憲であるとの判断が示された。

この伊達判決が安保条約の改定を協議中のアメリカや政府にいかに甚大な衝撃と恐怖を与えたか、そして、裁判に対する考えられない介入を行ったかを改めて明らかにする事実が、2008年になってアメリカの国立公文書館の資料から判明しました。伊達判決の翌朝、当時の駐日アメリカ大使マッカーサーが、藤山外務大臣に会見を申し込み、最高裁への跳躍上告を勧めたのです。次いで跳躍上告が決まると、マッカーサーは、今度は、最高裁長官の田中耕太郎と極秘に会談し、長官に対し圧力を加えるという、植民地に対するような介入を行っていたのです。(80頁)


よく覚えておこう。

日本の保守勢力・右派勢力は、アメリカの従順な下僕だったのだ。

「自主憲法制定」や「土下座外交反対」などと彼らは言うくせに、
米政府・米軍ににじり寄って靴をぺりぺろと舐める「土下座外交」ををした。

当時のことをこう振り返るひともいる。

1987年から5期にわたって市長を務めた青木久は、現在の立川の繁栄は、砂川闘争なくしてありえなかったと繰り返していたそうです。彼は回顧のインタビューで、こう語っています。「だから、今、あの闘争のおかげですよ。立川が今こんな風になっているのは。基地になっていたらあり得ないよ。昭和記念公園だって、闘争のおかげですよ」と。(82頁)


立川基地は、自衛隊駐屯基地と昭和記念公園に変わった。

保守派・右派は、立川を基地の街にしようとしていた。

彼らはふたたび昭和記念公園を軍事基地にするべきだと主張するのか?

公園と基地、市民はどちらを望むだろうか?

その後、A級戦犯だったはずの岸信介が首相に就任する。

彼は日米安保条約を通じて憲法改定をねらっていた。

しかし市民はこれに強く反発した。

当時、岸内閣に科学技術庁長官として初入閣した中曽根康弘は、
次のように回顧しているという。

 「これだけ一生懸命(改憲を―引用者)やっているのに、どうして国民はわかってくれないのか……そう思いました。しかしじっくり反省してみて、これは人間の壁というか、市民社会の岩盤ができたということなんだと思いました。私は海軍士官から政治家になって、そのままずっと、どちらかといえば国家の側、治める側にいたわけですが、治められる国民の側に立ってみると、戦前戦中にわたっていろいろな統制があり、官憲に威張られたり、非常に苦労してようやく平和と自由が得られたわけで、この平和と自由は絶対手放さないという意思が戦後の日本人の中にあった。与えられたものにせよ、この自由と平和を手放すまいとかたくなに考え、また、一国平和主義の扇動に乗った。そういうことを治める側にずっといたわれわれは気がつかなかった」と。(113−114頁)


だが、一切の戦力を放棄したはずの日本は、すでに再軍備をはじめていた。

このころからもう日本政府による憲法違反は常習性を帯びていた。

政府が依拠した解釈は、すでに50年代後半に確立したものでした。それは、「自衛隊は、自衛のための最小限度の実力であって憲法9条が禁止する『戦力』には当たらない」という解釈でした。(116頁)


常習的な犯罪者。

1960年代には、重要な裁判がつづく。

恵庭裁判。

そして長沼裁判。

詳しい内容は、本書を直接読んでいただきたい。

政府・与党がいかに愚劣であったかがよく分かる。

市民による運動が粘り強く展開されたため、いくつかの具体的規制も実現した。

・ 非核三原則

・ 防衛費の量的規制

・ 海外侵攻用兵器の制限

・ 武器輸出三原則

・ 自衛隊の海外派兵禁止などなど


非核三原則は佐藤栄作内閣で実現されたものである。

佐藤栄作はこれによってノーベル平和賞を受賞した。

では、佐藤はノーベル平和賞に値する人物だったのだろうか?

もちろん「否」である。

……沖縄返還協定の批准が滞る中、1971年、ついに佐藤内閣は、事態打開のため、公明党などの提案を受けて批准を容認してもらう代わりに非核三原則の国会決議化に賛成することになったのです。
 そもそも、核兵器は、自国で使うことはできません。その意味では、核兵器こそ、侵略用の兵器の最たるものといえます。(125頁)


だが、その裏で佐藤栄作は核密約を米政府と結んでいたことが発覚する。

自民党の政治家というのは、ある意味ですごい。

自分の言葉を平気で裏切れるのだから。

しれっとウソをつけるのだから。

「海外侵攻用兵器は持てないという制限」もすでに破られている。

 ……自衛隊は、海外派兵をするのに不可欠の大型輸送機、あるいは航空母艦といったものを、90年代までは持てないできたのです。また、同じく侵攻用兵器である原子力潜水艦なども持っていません。それどころか、戦闘機の購入に際して空中給油機の購入も長らく制限を受けていました。これが突破されるのは、ようやく1978年だったのです。(131頁)


自民党政権は、約束をことごとく破ってきた。

いや、「約束破り」という表現では甘すぎるだろう。

最高法規である憲法をふみにじってきたのだから。

自民党は犯罪者集団である。

犯罪者には刑務所に行ってもらわねばなるまい。

自衛隊の海外派兵の禁止もとっくに破られている。

武器輸出三原則にしても、財界の要望により見直しが進められようとしている。

ここでわたしたちはかつてのアイゼンハワー大統領の言葉を思い出す。

すでに、アイゼンハワー大統領が退官するときに、「アメリカは産軍複合体が政治を支配している。この状況はアメリカという国の政治を不幸なものにする」という警告を発しました。(136頁)


このような構造ができてしまえば、戦争を抑止することがむずかしくなる。

だが日本は泥沼へとすでに歩みはじめている。










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