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zoom RSS 愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書)C

<<   作成日時 : 2010/06/01 13:06   >>

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改憲論者のなりふりかまわぬ攻勢は一定の効果を生んだ。

「日本国憲法はそろそろ変えた方がよい」という雰囲気を、
日本中にばらまくことに成功しつつあるからだ。

改憲論のなかには、
戦前の日本を復古させたいという亡霊のようなものもあれば、
そうではないものもある。

「新しい人権」を書き加えるべきだ、という改憲論もある。

しかし、改憲の目的の核心は「9条の改定」にある。

9条2項を削除して、自衛隊を「正真正銘の軍隊」にしたうえで、
「自衛軍」を積極的に海外に派兵していけるようにすること。

これが改憲派の真のねらいである。

 プライバシー権や肖像権など、日本国憲法が明文で保障していない「新しい人権」は、自由権的性格の強いものは人権の総則的規定である13条で、国家の作為を求める社会権的性格の強いもの(たとえば環境権)は25条などで保障できると考えるのが学説の立場であり、判例も一応、この立場をとっている……。(168頁)


現行憲法で対応できない問題ではないから、
わざわざ「新しい人権」を盛り込むために改憲する必要はない。

改憲派のターゲットは「9条」である。

さらに厳密に言うならば「9条2項」である。

ところが、多くの知識人たちはそれぞれの「憲法草案」を提示して、
あるいは「改憲派・護憲派」にそれぞれ「対等な批判」を差し向けるなどして、
各自のアイデアを披露し合っている。

樋口陽一は、「サロン談義のなかでそれぞれ理想の憲法像を出し合うのが、いまの問題ではないはずです。改憲論をめぐる争いは、その社会のその時点での、最高の政治的選択なのです。どんな人たちが何をしたくてそれぞれの主張をしているのかを見きわめたうえで、賛否を決めるべき政治課題なのです」と述べている……。私も彼の意見に賛成である。(164頁)


いまこそわたしたちは、
政治家やメディアが誘導する「イメージ」を拒絶しなければならない。

「日本国憲法の理念を実現せよ」と、政府に迫っていかなくてはならない。

たとえば日本国憲法の前文には、
「平和的生存権」という考え方が示されている。

このことを一般的にどれほどのひとが知っているのかも不安なのだが、
これは近年話題の「人間の安全保障」に通じるものである。

「人間の安全保障」というのは、
国連開発計画(UNDP)の「人間開発報告書1994」において示された考え方だ。

これまでの安全保障は「国家の安全保障」だった。

しかしながら、
わたしたちひとりひとりの安定した雇用、所得、健康、安全、平和にとって、
「国家の安全保障」はあまりに無力であり、いな、むしろ敵対的ですらある。

これは歴史が証明している。

「国家の安全保障」にかわって注目されているのが、「人間の安全保障」だ。

じつは、「人間の安全保障」という考え方は、
日本の外交政策の1つの柱になっている(ことになっている)。

ところが日本政府は、他国に干渉・介入するときだけこれを口実として使い、
肝心なときにはまったく無視する、という態度をとりつづけている。

沖縄の米軍基地問題を見てみよ。

日本政府は「抑止力」などという妄言を繰り返すだけで、
「人間の安全保障」にはひと言も触れないではないか。

日本政府の2枚舌、ダブル・スタンダード。

ついでに言えば、メディアもひと言も触れないではないか。

自称ジャーナリストたちもこのことにまったく触れない。

「人間の安全保障」は、
だから「平和的生存権」という考え方を基礎におく必要がある、
と著者は述べている。

改憲派は、「9条は非現実的だ」と言う。

それに対してはどのような批判的立場があり得るだろうか?

たとえばハーグ市民社会会議(1999年5月)が採択した「日本国憲法第9条が定めるように、世界諸国の議会は、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」という基本原則や、チャールズ・オーバビー博士による「第9条の会」の運動などに注目して、国際社会における9条の先進性を強調し、9条の「理想」を国際社会に広げていくことこそ重要であると論ずる立場である。(192頁)


こうして高らかに「理想主義」を掲げる方向性もある。

ただし著者は、「理想こそ重要だ」という立場とは別の立場からの「護憲」を主張する。

それについては直接本書をお読みいただきたい。

さて、改憲派が「9条」をターゲットにしているのはよく分かっている。

では彼らの目論見はそこだけにあるのか? というと、そうではない。

改憲派の「壮大な構想」とは、憲法を「国家を縛るルール」から、「国民支配のための道具」へと変えることで、国家と個人の関係を根本的に変革しようとする企てである……。(216頁)


これを著者は「憲法観の転換」と呼んでいるのだが、
わたしは「立憲主義の放棄・廃棄」と呼んだ方がいいのではないかと考える。

ともかく、改憲派の掲げる「改憲案」が、
いずれも「国民の責務」や「国民の義務」を積極的に盛り込んでいるのは、
決して偶然ではないということだ。

ではどうしてそのような「憲法観の転換」が必要なのだろうか?

それを解くカギはグローバル経済にある、と著者は言う。

ところで、国内で生産される工業製品の多くが国内で消費されるのであれば、企業の立場からみても、社会保障には「経済効率」があるといえる。貧窮者が生活保護を受けて、国民全体の購買力が高まれば、企業の製品もたくさん売れることになるからだ。しかし、海外輸出の割合が高くなればなるほど(企業の多国籍化が進めば進むほど)、社会保障の「経済効率」は悪くなる。海外の人びとに製品を買ってもらえば、企業の儲けは確保できるからだ。そこで、企業はグローバルな競争に勝つために、企業の社会保障負担の軽減を強く求めることになる……。(187頁)


なるほど。

たしかに近年、社会保障や生存権に対する改憲派からの攻撃がすさまじい。

「自己責任論」の跋扈もこの文脈において理解することができる。

では、グローバル市場経済の進展のもとで何が起きているのか?

いわゆる「勝ち組」と「負け組」の二極化だ。

 グローバル市場経済から利得を得る「勝ち組」は、「私益」を合理的に判断して、新自由主義政策を強力に実行する「小さな政府」を支持するだろう。また、アメリカの軍事力によって支えられるグローバル市場経済の維持・拡大に日本も貢献するために必要な「9条改定=強い国家」にも賛成するだろう。
 他方、「負け組」が「私益」を合理的に判断すれば、そのような「小さな政府=強い国家」という組み合わせを支持する理由はほとんどないように思われる。(217頁)


そこで「負け組」の目をくらます必要性が生じる。

「負け組」の連中をだます必要がある。

そうしないと「負け組」が反抗してしまうからだ。

「勝ち組」にとっては、
「負け組」は国家に忠誠を尽くす従順な存在になってもらわなくてはならない。

では、格差社会の本家アメリカではどのような戦略が用いられているのか?

……アメリカならば、社会保障に依存している人びとの典型的イメージを「10代の無職で性的に奔放な黒人シングルマザー」に求め、「家族を大切にする自立的で勤勉な白人」との対照性を際立たせるイデオロギー的戦略は有効であろう。白人が納めた税金を黒人が浪費していると煽るわけだ。(217−218頁)


ところが日本では、
アメリカのような人種差別イデオロギーで煽動するのはむずかしい、
と著者は述べる。

これについては、
「いや、日本でも人種差別イデオロギーは機能している」と反論することもできるし、
そう反論することが重要である。

ほかには「自己責任」イデオロギーも見逃せないだろう。

ただ著者がここで重視しているのは、やはりこれだ。

 その結果、相も変わらず動員されるのが、ナショナリズムである。(218頁)


ここで著者は、「歌わせたい男たち」という芝居を紹介している。

「日の丸・君が代」問題を抱えた都立高校の卒業式を舞台にした芝居だ。

そのなかで、
起立を求める校長とそれに抵抗する教師の姿が描かれていたという。

 この校長は、「起立して、大声で歌っても、君たちの内心の自由は侵されません!」と熱弁する。……「日の丸・君が代」に反対する教師・生徒も、「形だけ」起立し、「形だけ」歌えば、それで丸く収まるではないか。(221−222頁)


校長は、こうして不起立の教師を説得しようとする。

いかにも「日本的な解決法」である。

「コトを荒立てないでほしい」「波風を立てないでほしい」と。

ここで「歌わせようとする」校長の理屈はこうだ。

「内心の自由まで強制しようとしているのでありません」

「とりあえず起立して、とりあえず歌ってくれればいいのです」


つまり「行動」と「心」は別ものである、と言いたいわけである。

そうすれば「面子」が立つ。

もちろん、内面の自由と外的行動がつねに分離可能だという、校長の主張はまったくの詭弁である。もしこの理屈が通るなら、キリシタンに踏み絵を踏ませること(=外的行動)も、信仰の自由(=内面の自由)を侵害しないことになる。こんな馬鹿な話はない(東京都における自由の保障のレベルはキリシタン禁制の江戸幕府並み? そんな馬鹿な!)。(222頁)


ところがこんな「馬鹿な話」が現実化しているのが、現在の日本だ。

日本では目立つことを嫌う。

目立てば徹底的に叩かれる。

目立つことを恐れたひとたちは、権力に従順になっていく。

こうして「自由」は死んでいく。

歴史を学ばす、同じ過ちを繰り返すのか?

それとも、別の道を進むために立ち上がるか?

最後に著者は「憲法を生かす努力」(243頁)という言葉を使っている。

とても印象的である。

本書では、あらゆる改憲論の論点を拾って、これらをうまく批判している。

ユーモアもある。

もちろん本書の問題点を探ることも可能だ。

それについてはじつは当ブログで以前書いたことがある。

とはいえ、「改憲問題」を考えるうえで、本書は超おすすめである。










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