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zoom RSS 『柄谷行人 政治を語る』(図書新聞)

<<   作成日時 : 2010/05/18 01:41   >>

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しばらく記事を書くのをサボっていた。

気力を失わせる出来事が世の中にあまりに多くあるせいでもある。

でも、そろそろ再開しようと思う。

コメントもいくつかいただいているようで、
投稿者はもうこのブログを読んではいないかもしれないが、
近いうちにお返事を書こうと思っている。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  


きょう紹介するのは、インタビューによって構成されている本である。

柄谷の思想のよい入門編になっている。

『世界共和国へ』(岩波新書)をよく理解できなかったひとは、
これから読んでみるとよいと思う。

柄谷が国家やネーションの問題を深く考えるようになったのは、
60年代の闘争の過程だったという。

60年代は、国家のイメージが大きく変わった時期でもあった。

それまでは、国家は権力という暴力装置を独占するものと見なされていた。

ところが、このころからミクロの次元の権力が注目されるようになった。

代表的な思想家が、そう、フーコーである。

じつはそれ以前にもグラムシやアルチュセールといった思想家たちが、
日常のイデオロギー装置としての権力作用に注目していた。

柄谷によればこれは「マクロの政治」から「ミクロの政治」への転換だった。

ミクロの政治学によって、見えなかったものが見えるようになった。

これまで「権力の問題」として認識されていなかった問題が、
「権力の問題」として認識されるようになった。

もっとも、そうした思想的遺産から何も学んでいない愚か者どもは、
この日本中にも、うじゃうじゃといるわけであるが。

ともあれ、政治闘争の力点は階級闘争からマイノリティ問題へ移行した。

だが、これらの思想家たちにはある重要な視点が欠落していた、という。

われわれは国家をどうしても内部から考えてしまう。それでは、国家はみえないのです。
 たとえば、日本でよく「アメリカはこう考えている」というようなことをいいますね。しかし、アメリカ人に聞いたら、それは、ブッシュ政権の考えにすぎない、とかいうでしょう。同様に、「日本はこう考えている」と外国人がいう場合、われわれは、どこの誰がそんなことをいっていやがるんだ、と思うでしょう。最近でも、オーストラリアなどで、日本が捕鯨を維持し拡大しようとしていると批判している人たちが多いのですが、しかし、日本でいつそんなことを決めたのか、僕は知らない。聞いてみると誰も知らない。にもかかわらず、どうも日本国家はそのような方針をもっているらしい。政党や政治家の意見とは異なる、国家の意志があるわけです。(32−33頁)


「国家の意志」を正しく捉えるためには、何が必要か?

それは「国家は他の国家に対して存在する」という視点である。

これは柄谷独自の着眼ではないが、重要なものである。

国家やネーションは、イデオロギー的な構造をもつ。

イデオロギーは従来、上部構造の領域と見なされてきた。

だがそれだけでは見えないものがある。

 そもそも経済構造と政治的構造が区別されるのは、近代資本主義以後の社会にすぎない。たとえば、封建体制において、封建領主と農奴の関係は、経済的関係なのか政治的関係なのか、それらは分離できない。相手を政治的に強制することがそのまま経済的な関係になっているからです。この場合、経済的下部構造と政治的上部構造を区別することはできない。未開社会においてはなおさらです。だから、国家やネーションを上部構造とみなすのは、資本主義が支配的な社会の見方にすぎない。(78頁)


そこで柄谷は、国家やネーションを、
商品交換とは異なる「交換様式」から派生したものと捉えようとする。

交換は「共同体内部」のみで行なわれるのではない。

交換は「共同体と他の共同体との間」でも行なわれる。

こうして、ある存在は他の存在との関係で成立する、という視点が活きてくる。

 アナーキストもマルクスも、国家をその内部だけで考えています。つまり、社会から国家が生まれてきたかのように。ネグリやハーバーマスもそうですね。だから、国家を、社会の公共的合意のおとにおけばよいと考えている。……国家が生まれたのは、社会の内部からではなく、他の社会あるいは国家に対してだからです。(93頁)


では、これからはどのようにして資本に対する闘争が繰り広げられるべきなのか?

ここで日本の状況を振り返ってみよう。

1990年代に日本で「新自由主義」化が進行した。

小泉政権のときにはじめて「新自由主義」が導入されたわけではない。

 2001年に小泉が首相になる前に、日本の「新自由主義」の体制は完成していたと思います。新自由主義は1980年代にレーガン主義、サッチャー主義として存在したもので、日本ではそれが中曽根によって実行された。その目玉が国鉄の民営化です。それは同時に国鉄の労働組合(国労)の解体です。国労は総評の要でしたから、それは総評の解体を意味する。総評が解体すれば、社会党が消滅することになる。
 つぎに、日教組の弾圧。教育の統制が進んだ。大学の民営化というのは、実際は、国営化です。それまでの大学は、国立でありながら、じつは、文部省から独立していた。つまり、中間勢力でした。民営化によって、こうした自治が剥奪された。私立大学でも同じです。国家の財政的援助の増大とともに、国家によるコントロールが強化されたわけです。
 さらに、特筆すべきなのは、公明党を連立政権に加えることによる創価学会のとりこみです。与党であるために、彼らは年来の課題であった、大衆福祉と反戦を放棄してしまった。こうして、事実上、中間勢力であった宗教的勢力が抑え込まれた。もう一つは、部落解放同監の制圧です。部落解放同盟は、部落だけでなく、すべての差別される少数派の運動を支えていた。また、それは右翼を抑制する力があった。解放同盟が無力化したのち、右翼はわがもの顔にふるまいはじめたと思います。(82−83頁)


「中間団体」と呼ばれる存在は、徹底的に粉砕されてしまった。

「中間団体」は、諸個人を国家権力から守る役割も担っていたのだが、
日本の保守勢力によってこれらは見事に解体させられた。

ネット右翼たちはこの問題の重大性を認識することができないので、
彼らは国家権力の忠実な犬となって「中間団体」の解体に手を貸した。

これがすなわちファッショ化である。

また、国家権力に抵抗してきた勢力の側も、
もっぱら「生産拠点」からの闘争ばかりを考えていた。

柄谷は資本主義における「流通」過程を重視するべきだ、と主張する。

つまり、資本が増殖できるのは、最終的に流通過程を経ることによってです。通常、剰余価値の搾取というと、生産点だけで考えられる。しかし、労働者をどんなに搾取してこき使っても、その生産物が売れなければ、剰余価値は実現されない。
 では、それを誰が買うのか。基本的に労働者が買うのです。それが産業資本主義経済です。……
資本主義生産は「労働力商品」を必要とする。つまり、プロレタリア、すなわち、賃金で働く労働者を必要とするといわれます。しかし、なぜプロレタリアが必要なのか。なぜ奴隷や農奴ではだめなのか。奴隷や農奴は近代ヒューマニズムに反するから、というのは答えになりません。プロレタリアを必要とするのは、プロレタリアは商品を買うが、奴隷は買わないからです。産業資本は労働者だけでなく、その生産物を買う消費者を必要とするのです。(84−85頁)


なるほど。

「資本主義は自らの墓堀人を生み出す」。

産業資本の画期性は、労働力という商品が生産した商品を、さらに労働者が彼らの労働力商品を再生産するために買うという、オートポイエーシス的なシステムを形成した点にあります。この点で、奴隷制生産とか、そういうものとは根本的に異なるのです。(85頁)


そこで産業資本は、価値体系を差異化しなければいけなくなる。

商人資本は、概して、自然条件によって決定された地域の生産物の差異にもとづいています。しかし、産業資本の場合、差額は、時間的に価値体系を差異化することから得られる。それは技術革新によってもたらされます。いわば、労働生産性を上げることによって、労働力の価値を下げる。だから、産業資本主義においては、たえまない技術革新が不可欠になります。(86頁)


こう書かれているのを読んで、ちんぷんかんぷんのひともいるかもしれない。

だが、本書では実際さらにていねいに説明されているので、
読んでみると理解しやすいはずである。

さて、柄谷はこうして「消費者運動」の意義を強調するようになる。

一般に、消費者運動は労働運動と別のものだと考えられています。しかし、消費だけをしている人間などいない。労働者と消費者は別のものではない。労働者が消費という場に立つ時に、消費者となるだけなのです。であれば、労働者は、彼らが最も弱い立場である生産点だけでなく、むしろ消費者としての立場で闘うべきだ。生産点では、労働者は企業と一体化しやすい。企業に利益があるのは、労働者にとってもよいことだからです。だから、労働者は、たとえば、汚染食品をつくっていても、それに反対したり暴露したりすることはなかなかできない。会社がつぶれたら困るから。しかし、消費者としてならば、それを許せないでしょう。だから、労働者はむしろ消費者の立場において、普遍的であり公共的なのです。(88頁)


労働者は、企業の内部では「モノ」同然の扱いをされる。

しかし労働者は生産活動ばかりしているのではない。

仕事から離れると消費者に変身する。

企業にとってお客さまは「神さま」である。

労働者と消費者は別のものではない。

労働運動と消費者運動を結合させること、これが重要である。

「生産」から社会を捉えるのではなく、
「交換(流通)」から社会や世界を捉えなおすとどうなるか?

ファシズムへの理解も修正を迫られる、という。

ファシズムというと、大衆を弾圧する抑圧的な体制という見方がなされますが、それは後進国の独裁体制と混同するものです。ファシズムはむしろ大衆の圧倒的な支持によって実現されるのです。
 また、ファシズムというと、反ユダヤ主義や軍国主義あるいは侵略主義と結びつける人が多いのですが、元祖ファシズムのイタリアは反ユダヤ主義も侵略戦争もなかった。スペインのファシスト、フランコも第二次大戦のとき中立です。また、一般にファシズムは王政を廃止し議会を停止するといわれるけれども、日本ではそうなっていない。だから、日本にはファシズムがなかった、という人さえいます。
 しかし、僕は、ファシズムを、社会主義に対する「対抗−革命」だと考えます。つまり、社会主義とはちがったかたちで、階級的な対立を解消するという革命です。それはネーションによる革命です。(106頁)


インタビューとはいえ、これはずいぶんと雑な説明に思うが、
引用をつづければ、ポイントは「ネーション」の理解である。

ネーション(互酬的交換様式)を強調することで、資本主義を否定し、国家を否定する、それがファシズムです。(106頁)


むろんそれは「見せかけ」にすぎないのであって、
実際は「国家と資本」のために働くことになるわけだが。

ここで柄谷は「ボナパルティズム」に言及しているのだが、
これはむずかしく感じられるひともいるだろうから省略する。

では、主権国家を超える動きの方はどうだろうか?

欧州連合の結成は、国家やネーションを超えるものになるのだろうか?

柄谷は、そうではない、と断定する。

欧州連合は、グローバル資本主義の圧力のもとで、
諸国家が結束して「広域国家」を形成するにすぎない、という。

世界資本主義(世界市場)の圧力のもとに、諸国家が結束して「広域国家」を形成するということでしかない。
 このような広域国家は初めてのものではない。1930年代にドイツが構想した「第三帝国」や日本が構想した「大東亜共栄圏」は、それを先駆けるものでした。そして、それらは英米仏の「ブロック経済」に対抗するものでした。さらに、この時期、こうした広域国家は、「近代世界システム」、すなわち資本主義やネーション=ステートを超えるものとして表象されていたのです。(130頁)


ここで柄谷が重要だと指摘するのが、
国家や資本に対抗するための別の「つながり」である。

それを「アソシエーション」という。

……ヨーロッパでは、近代化は自治都市、協同組合、ギルドその他のアソシエーションが強化されるかたちで徐々に起こった。「社会」というのはそういう個別社会のネットワークをさすわけです。(147頁)


他方、日本はどうだろうか?

ところが日本では、個別社会が弱いために、社会がそのまま国家である。……日本を支配しているのは、国家でも法でもなくて、正体不明の「世間」である……。(148頁)


かろうじて存在していた「中間団体」も解体させられたことは、
先に見たとおりである。

……1990年代に、日本のなかから中間勢力・中間団体が消滅しました。国労、創価学会、部落解放同盟……。教授会自治をもった大学もそうですね。このような中間勢力はどのようにしてつぶされたか。メディアのキャンペーンで一斉に非難されたのです。封建的で、不合理、非効率的だ、これでは海外との競争に勝てない、と。小泉の言葉でいえば、「守旧勢力」です。(149頁)


全国の学校でもそうだ。

職員会議では発言をしてはいけない、ということになりつつある。

その結果、専制に抵抗する集団がなくなってしまった。

そのため、日本にはデモがほぼなくなってしまった。

議会選挙があるのだから、デモで政局を変えるのは民主主義的でない、という人たちがいまもいます。しかし、代議制だけならば、民主主義ではありえない。実際、アメリカでも、デモが多い。選挙運動そのものもデモのようなものです。デモのような行為が、民主主義を支えるのです。(153−154頁)


インターネットの普及は、ひととひととのつながりを創出している。

これは日本の民主化を進めるものに役立つのだろうか?

アソシエーションの伝統のあるところでは、インターネットはそれを助長するように機能する可能性があります。しかし、日本のようなところでは、インターネットは「原子化する個人」のタイプを増大させるだけです。(155頁)


ネット上の右傾化は、目を覆いたくなる状況だ。

一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意すべきです。だから、ここから出てくるのは、政治的にはファシズムです。(156頁)


資本主義だけを批判するのは不十分である。

国家だけを批判するのも不十分である。

ナショナリズムだけを批判するのも十分ではない。

資本=国家=ネーションの仕組みをトータルに乗り越えること。

これがいま求められている。








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