フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書)@

<<   作成日時 : 2010/05/29 14:13   >>

トラックバック 0 / コメント 0

名古屋大の憲法学者が、初心者に向けて「改憲問題」を論じている。

予想外によく書かれている本だった。

おすすめ。

初心でも若者でも親しめるように叙述の工夫も凝らしてある。

形式論に陥らず、
現実の政治的文脈に目を向けているところが、本書の優れた点だ。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


著者は、はじめにカート・ヴォネガットという小説家のある講演を取り上げる。

1990年5月、キングストンのロードアイランド大学の卒業式で行なわれた講演だ。

アメリカは100年近くも奴隷制度を続けてきた。これはアウシュヴィッツといい勝負ではないか。他の人間を所有し、牛馬のように扱っておきながら、世界の国々に向かって、「アメリカは自由のたいまつ」だなんてよくもほざけたものだ。「アメリカの自由」は独立宣言が出された1776年に生まれたわけではない。当時、奴隷の所有は合法的だったし、白人女性の権利さえ認められていなかった。(28−29頁)


そして彼はこの講演を次のようにしめくくった。

さて――オポッサムの妊娠期間は12日。インド象の妊娠期間は22ヶ月です。わが友人と隣人のみなさん、アメリカの自由の妊娠期間は、なんと200年あまりにおよぶことがやっと判明したのです!(29頁)


アメリカの自由は、南北戦争や公民権運動といった「産みの苦しみ」を経て、
200年もかけてようやく「産声」をあげたのである。

それでもまだアメリカの自由はすべてのひとびとに開かれたものとは言えない。

それなのに、日本ではわずか約60年前に生まれたばかりの憲法とその理念を、
おいそれと投げ捨てようとしている。

「60年以上も前にできた日本国憲法をもうそろそろ変えるべきだ」

「いまの時代に合わせた憲法改正をするべきだ」


そんな意見がまだ日本には多い。

南北戦争に敗れ、北軍に占領された南部諸州は、戦争までして彼らが拒否しようとした奴隷制廃止を飲まされ(第13修正)、さらに黒人の基本的人権を保障するために州政府の権限を剥奪する憲法修正(第14修正)を「押しつけ」られた。以上のとおり、憲法を「押しつけ」られたのは、日本だけであるかのように騒ぎ立てるのは、不勉強というものだ。(36頁)


ここで問うてみよう。

この憲法修正の「押しつけ」は、なかった方がよかったのか?

「押しつけ憲法」に反対するひとたちは、
この「押しつけ」にも反対するのだろうか?

マーティン・ルーサー・キング牧師が公民権運動の中心的人物に躍り出る契機となった事件が、1955年、アラバマ州モントゴメリーで起きた大規模なバス・ボイコット運動だった。白人用座席に座ったローザ・パークスという黒人女性が、乗務員の要求を拒絶して座り続けたために逮捕された事件が、このボイコット運動の発端である(ちなみに、パークスはつい先日、2005年10月に92歳で亡くなったが、黒人女性としてはじめて連邦議会議事堂に胸像が置かれる栄誉を得た)。(38頁)


「押しつけられた」と感じるのは、
そのひとがそれまでの差別的な価値体系を守りたいと考えているからである。

ならば、「押しつける」ことは何も不当なことではない。

差別主義者にはどんどん「押しつけ」てやるがよい。

そう思う。

だいたい、日本国憲法をアメリカによる押しつけだと論難する勢力というのは、
これまでいったい何をしてきたひとたちなのだろうか?

考えてみるとよいだろう。

 古関彰一の評価によれば、後に「押しつけ」を難ずる政治勢力は卑屈なまでにGHQの意向をうかがい、後に「押しつけ」はなかったと主張する政治勢力はGHQの意向を気にせず、自主憲法をつくろうと努力した。たとえば、日本国憲法が国会を通過した直後、GHQの憲法起草に携わった人びとに、吉田茂首相から菊の紋章のついた銀杯が贈られたという……。「押しつけ」られた当の政府は「押しつけ」に感謝しているわけだ。このエピソードを聞いた後でもなお、「押しつけは暴挙です」と主張するのは、ちょっと恥ずかしい気はしないだろうか。(43−44頁)


恥ずかしいどころか、みっともないと言うべきだろう。

こうして「押しつけ憲法論」は見事に論破されていく。

以前にも当ブログでは憲法について書いてきたのだが、
ここでもう1度「立憲主義とは何か?」ということを確認しておこう。

なぜなら、まだこのことについて理解していないひとがたくさんいるからである。

……「立憲主義」……は、「民衆の支配=多数者支配」としての「民主主義」によって正当化される政治権力さえも、法的・制度的に制限されねばならないという考え方……。(49頁)


この内容をしっかりと胸に刻んでおこう。

つぎに著者は、日本でよく見られる「誤解」を取り上げている。

それは、「改憲論議が日本では長いことタブーであった」というものだ。

改憲論者はよくこう言う。

「改憲論議をタブーにするな」

「日本では改憲について論じることは長い間タブーであった」


小沢一郎もそう言っていたし、読売新聞社もそう言っていた。

江藤淳も同じように威勢のいいことを言っていたという。

彼らはこのように述べることで、
あたかも自分たちが「改革者」であるかのようなイメージをふりまくことができる。

「不当な圧力と戦うひと」というイメージを作り上げることができる。

だが、これは完全な無知である、と著者は指摘する。

……戦後日本には改憲策動がずっと存在してきた。よって、「戦後政治において改憲論議がタブーだった」という主張は完全な誤りである。こんな発言をする者はたぶん、戦後政治史に関する知識がないか、そもそも「タブー」という言葉の意味を知らないのだろう。(54頁)


おっしゃるとおり。

日本の右派・保守勢力は戦後ずっと改憲を目論んできたのだ。

それなのに「改憲論議をタブーにするな」と言うのは、卑劣ではないか?

著者は、1950年代〜80年代の「改憲論」をまとめてくれている。

ぜひお読みいただきたい。

1990年代に入ると新たな「改憲論」が登場してくる。

改憲派にとって「ソ連脅威論」がもう使えなくなってしまったので、
新たな理屈(屁理屈)が必要になったというわけである。

では、それはどのようなものなのか?

言うまでもなく湾岸戦争を契機とした「国際貢献論」である。

ところが、この自衛隊を積極的に海外派兵させる国際貢献論は、
アメリカの軍事戦略にとことん追従していくというものだったのだ。

「国際貢献」と「対米追随」をイコールで結ぶ改憲派が、それにもかかわらず、アメリカによる「憲法の押しつけ」を怨嗟するという逆説。実はこの逆説こそ、日本の改憲論議の特徴であり、私が「押しつけ憲法論」をまやかしにすぎないと判断する最大の理由でもある。(72頁)


ここからも改憲論者の支離滅裂さがよく分かる。

もうひとつ付け加えておきたい。

何かにつけて「押しつけ憲法」と言うひとたちは、
在日アメリカ軍基地についてはどういうわけか賛成している。

沖縄に米軍基地を押しつけ、そのことに何の矛盾も感じていない。

いま自民党などの右派勢力・保守勢力は、
鳩山政権の普天間基地移設問題への姿勢を批判しているけれども、
彼らは米軍基地の完全撤去をまったく主張しない。

辺野古の海を埋め立てて新たな基地を押しつけようと決めたのは、
ほかならぬ自民党政権だった。

……ここでは、改憲にすこぶる熱心な読売新聞の過激な政治スタンスを露わにする記事を紹介しておこう。「9・11事件」への「報復」としてアメリカがアフガニスタンを空爆している真っ最中に、読売新聞は「国民の生命、財産を守ることは、国家の根幹的な責務だ。日本自身が国際テロの標的になれば、今回の米国と同様、個別的自衛権を発動していいはずだ」と論じた(2001年10月14日)。「グローバル・スタンダード」とは決していえないアメリカ・イスラエル並みの「先制的自衛権」を日本も行使すべきと平気で論じる人びとが、9条改定の推進派でもある事実は、軽視してよい問題ではない。
 日本は自国の利益のために他国を殴る「普通ではない国家」(たとえば、ブッシュ政権下のアメリカ)になろうとしている。そして、そのような国家になりたいと欲望しているのが、改憲派なのである。(73−74頁)


何とも怖ろしいことではないか。

読売新聞はもう終わっていると思っていたが、やっぱり終わっていた。

ちなみにこの読売新聞は、
ここで「国民の生命、財産を守ることは、国家の根幹的な責務だ」と述べているが、
イラクで日本人ボランティアが人質となったときには、
あられもなく「自己責任論」を展開していたのだった。

「国民の生命、財産を守ることは、国家の根幹的な責務だ」とは言わなかった。

このこともよく覚えておきたい。












テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書)@ フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる