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zoom RSS ローレンス・レッシグ『コモンズ』(翔泳社)

<<   作成日時 : 2010/03/16 14:33   >>

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これはしばらく前に話題になった本である。

この分野に暗いひとにとっては読みづらいかもしれないが、
インターネット分野ではすでに必読図書となっているのではなかろうか。

著者は何を主張しているのか?

それは明確だ。

いま失われつつある「コモンズ」の価値の擁護である。

ネット上の所有権強化に対する批判である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


世のひとびとは言う。

「インターネットは情報収集とコミュニケーションを便利にしたが、
著作権侵害などの不法行為を拡大してしまった」と。

中国では著作権侵害が横行していると非難する一方、
日本の若者はタダで音楽や映画をダウンロードしている。

中国の著作権侵害は目に余るなどとしたり顔で言う一方、
その同じひとがネット上で著作権侵害を日常的に繰り返している。

自分で自分の主張を裏切りながらも、
誰もが「著作権の保護」という命題を絶対視している。

著作権や特許というのは、個人や企業が所有する「知的財産」のことだ。

だが、どこかおかしくはないか?

巻末の「訳者あとがき」で、訳者はこう解説している。

多くの人は(フリーソフト論者やヒッピー残党でもない限り)インターネットがなぜすばらしいかときかれたら、それが自由だから、とは答えない。多くの人はあれがただの安い通信手段だとしか思っていない。通信コストを下げたからインターネットは普及しました、というのがeナントカだのネットビジネス云々で見かける議論だ。インターネットの「自由」は、そういう人々にとっては欠陥でしかない。でも、レッシグはそれを否定する。ネット上でイノベーションが爆発したのは、単に通信コストが安かったからじゃない。そこには自由があり、コモンズができていたからこそ爆発的な発展があったんだ、とかれは主張する。(412頁)


これに対して、ひとはこう反論するだろう。

「いや、所有権を尊重してこそ、自由は開花する」のだ、と。

「所有権の尊重こそ経済発展の基礎である」と。

そうだろうか?

もしインターネットを評価し、IT社会だ知識経済だと騒いで見せるのであれば、あなたはナップスターを否定することはできない。無線LANが便利だと思うなら、フリーな周波数帯の重要性をあなたは否定できない。(412頁)


たとえば「青空文庫」や「プロジェクト・グーテンベルグ」をどう考えるか?

著作権や特許権の保護強化は、議論の余地のない前提なのだろうか?

映画製作の現場では、
あまりに複雑な権利関係が発生し、製作に支障が出ているという。

各方面に映像使用の許可をとらないといけないからだ。

著者は、この問題を考えるにあたり、
通信システムを3つの異なる「層」に区別する。

@ 「物理」層:通信システムの根底にあるもので、実際の通信を運ぶもの

A 「論理」または「コード」層:ハードウェアを動かすコード

B 「コンテンツ」層:最上層にあるのがこれで、伝達される内容


これらの層に自由にアクセスできることで通信システムは発展するという。

……インターネットはイノベーションのコモンズを形成する。(44頁)


ところが、それぞれの層で企業による「独占」が生じている。

本書では、おもしろいエピソードが紹介されている。

アメリカのAT&Tは、通信事業を独占していた。

そればかりか、電話の使用方法までこの企業が決定していた。

どういうことか?

たとえば1956年に、ある会社が「ひそひそ電話(Hush-a-Phone)」なる装置を開発した。この「ひそひそ電話」は、電話の受話器に取りつけるただのプラスチックだった。部屋の雑音を遮断して、向こう側の人にこちらの話していることが聞こえやすくなるように設計されている。(54−55頁)


ところが、これはAT&T社が許可していない商品だった。

 「ひそひそ電話」が市販されると、AT&Tは抗議した。これは「外的接続物(foreign attachment)」だというのだ。規制によれば、AT&Tの許可なしにはいかなる外的接続物も禁じられている。(55頁)


AT&T社にとってこれは許しがたい「犯罪」だったのである。

このAT&T社のエピソードは、現在ネット上で広がる規制と同じくバカげたものだ、
というのが著者の主張である。

なぜなら、著作権の行き過ぎた保護は、
わたしたちの行動をコントロールしようとするものだからである。

著作権を初めて与えた議会は、最初は14年間、そしてその後も作者が存命中ならもう14年間更新できる著作権有効期間を与えた。現在の期間は、作者の死後70年だ……。(170−171頁)


ここでやはりディズニー社に言及しないわけにはいかない。

……過去40年では、議会は著作権の期間を遡及的に11回も延長している。そのそれぞれは、ミッキーマウスがパブリックドメインに入りそうになると、ミッキーマウスの著作権が延長される形で実現されているといってもほとんど過言ではない。(171頁)


著者は次のように感想をもらす。

ディズニーはパブリックドメインの物語を使って何百万ドルも稼げるのに、ディズニーの作品は――どうやらいつまでたっても――ディズニーしか金儲けに使えないような体制は、ちょっと不公平なんじゃないかと思うだろう。(171頁)


これを自分にはあまり関係のない話だと思っているひとは、
相当にとんちんかんなひとだと言ってよい。

わたしは好きなことを書けるけれど、それが公刊されるかどうかは出版社の意向次第だ。風呂場で歌うのはわたしの勝手だが、群衆の中で「ハッピーバースデー」を歌う前に、まずは弁護士に確認したほうがいい。わたしのホームムービーは今では上映できるけれど、美術学校の学生は自分の映画が劇場公開されるとは期待しないほうがいい。そして言論の自由がどうであれ、だれもNBCの放送時間15分をもらう権利はない。暗黒時代の創造性は、ほとんどコモンズのない世界に住んでいた。自分の作品がよそで公開されるには、他人の許可が必要条件だった。(181−182頁)


高速道路を考えればわかりやすいかもしれない。

アメリカが高速道路網を作ったとき、政府はそれを公共リソースの資金で建設するかわりに、デトロイトに向かってこう持ちかけることもできた:きみたちの好きなように作りたまえ、そしてわれわれは、きみが自分の儲けになるようにそれを作る権利を保護しよう、という具合。そうなったら、たとえばアメ車しか効率よく走れない道路とか、デトロイト以外で作られた車が通ると揺れたりする出入り口を考えることもできるだろう。あるいは、デトロイトが道路網を使う権利を最高価格をつけた人に競売するとか、ペプシと独占契約を結んだからコカコーラのトラックは排除する、ということも考えられる。(268頁)


だが、実際にはそうしなかった。

Amazon.comから本を買うとき、AOLが分け前を要求するとはだれも思わない。ヤフーで検索をするとき、MSNのネットワークが反マイクロソフトサイトをわざと遅くするとは考えない。なぜそう思わないかといえば、インターネット上では中立性の規範が非常に強いからだ。プロバイダは、中立的なネットワークへのアクセスを提供する。それがインターネットの意味の本質だ。(257頁)


インターネットの中立性というイメージは、
ほんとうはさらに吟味されるべきテーマだが、
ここでは深く追究しない。

この問題を身近に感じられるようにするために、別の話を引用してみよう。

たとえばこんな空間を想像してみてほしい、
と著者はどこにでもあるような大学の学生寮の風景を描写する。

全国の大学寮には、古いLPをダビングしたカセットがある。窓には、ロックスターのポスターが貼ってある。友達から借りた本が棚に転がっていることもあるだろう。教材のコピーや、指定教科書の章の一部が床に散らばっている。こうした部屋の一部にはファンが暮らしている。好きな歌の歌詞がメモ帳に書き散らしてある。好きな漫画のキャラクターが壁に貼ってあるかもしれない。コンピュータでは「シンプソンズ」のキャラクターに基づいたアイコンが使われているかもしれない。
こうした寮の部屋のコンテンツは、原作者に対する直接の補償なしに使われている。もちろん、LPのダビングは許可を取っていないだろう。ポスターは、ポスター製作者の許可を得ずに一般公開されている。本は購入されてはいても、それを友人に貸すのを禁じる契約はなかった。コピーは、だれも何がコピーされているか知らずに行われている。レコーディングからの歌詞を書き取るのは、原作者の許可を得ていない、マンガのキャラクターは、その作者の排他的権利が設定されているものだけれど、壁でもコンピュータのデスクトップでも、だれの許可も得ずにコピーされて掲示されている。
こうした利用はどれも、著作権保持者の明示的な許可を得ずに生じている。著作権つき材料が、ライセンスもなく補償もなしで使われる例だ。
こうした利用のすべてが非合法利用ではない。多くは著作権法にある例外規定によって保護されている。(278頁)


ひとびとは、このように自由に好きなものを使用している。

でもこうした著作権つき作品の利用の一部は、非合法かもしれない。

でも、大学の寮や自室とネット空間はまったく別だ、と言うひともいるだろう。

ネット空間は不特定多数のひとがアクセスできるのだから。

しかしほんとうにそうだろうか?

ワールドワイドウェブのページは世界中どこからでも見られる。ワールドワイドウェブの利用者は何百万人もいる。いまや何百万人もが、この学生のポストしたコンテンツをフリーでダウンロードできるのだ。
が、この論理にはギャップがある。確かにワールドワイドウェブを使う人は何百万人もいる。でも、ウェブページは何十億もあるのだ。だれかがこの学生のページにたどりつく可能性はかなり低い。検索エンジンというものは確かにあるけれど、それはそのページに何があるかにもよる。ほとんどのウェブページは、作者の母親ですら見ない。ワールドワイドウェブは刊行のすさまじいポテンシャルは持っているけれど、ポテンシャルがあるのと実際に百万ヒットのサイトになるのとでは大ちがいだ。
だから現実には、このページは実質的に学生の寮の部屋と同じだ。たぶんこの学生のウェブページにやってくる人よりも、寮の窓に貼ったポスターを見る人のほうが多いだろう。露出度の点では、サイバー空間に移行したことで大した変化は起きていない。(279−280頁)


日本でも同じようなことが起きている。

小さな飲み屋でギターを片手に有名な歌をうったったとしよう。

飲み屋でなくてもいい。

ビートルズでもいいし、Jポップでもいい。

どこでにもあるたのしい光景だ。

だがJASRACはおそらく黙ってはいないだろう。

 著作権の歴史のうち、最初の2世紀は検閲の2世紀だった。著作権は検閲者のツールだった。印刷できるものは、許可を受けた印刷所の印刷したものだけだった。そして許可を受けられる印刷所は、王室に協力的なところだけだった。
 ここで歴史は繰り返したけれど、それが保護したのは王室ではなく、商業だった。法は、実質的に企業批判を禁止するツールとなり果てた。(287頁)


録画・録音は個人の自由だったが、自由は制限されはじめている。

ビデオデッキを考えてみよう。ビデオデッキは、テレビからのコンテンツを録画する。テレビからのコンテンツを録画するように設計されている。設計者たちは、入力がテレビからだったら録画ボタンが使えなくするようにすることも十分にできた。つまり、入力がテレビではなくカメラのときにだけ録画を許可するようにすることもできた。でも、かれらはテレビコンテンツが自由にコピーできるように設計したわけだ。
テレビ業界の人はだれも、テレビのコンテンツをコピーする権利を個人に与えたりはしなかった。テレビ産業がむしろ、テレビのコンテンツをコピーするのは犯罪だと固執した。(299−300頁)


日本ではいま、1回しかコピーできない番組もあれば、
10回まではコピー可能な番組もある。

「YouTube」では投稿されたテレビ番組がしばしば削除される。

イノベーションのインセンティブを高める一方で、特許はイノベーションのコストを引き上げる。そしてコストが便益を上回るなら、特許は意味がない。(321頁)


とはいえ、著者は特許を否定しているわけではない。

特許は独占だ。独占は価格をつり上げる。期間は十分なインセンティブを与えるくらいに長く、でも無用に価格をつりあげるほどは長くないようにするべきだ。(323頁)


特許を限定的に認め、コモンズの価値を再評価している。

アメリカでコモンズを擁護すると、たちまち「共産主義者」の疑いをかけられる。

だから著者は必死に「そうではない」と弁明している。

そのために幾人かの著名人の言葉を引用している。

たとえばトマス・ジェファソンは、
1813年に特許についてこう書いているという。

 ……私からアイデアを受け取ったものは、その考え方を受け取るけれど、それで私の考え方が少なくなったりはしない。それは私のろうそくから自分のろうそくに火をつけた者が、私の明かりを減らすことなく明かりを受け取ることができるようなものだ。……つまり発明は自然の中においては、財産権の対象とはなり得ない。(152頁)


「発明は財産権の対象とはなり得ない」。

ここで「青色LED」発明の話を想起するひとは、少なくないだろう。

つぎに著者はベンジャミン・フランクリンを取り上げる。

ベンジャミン・フランクリンは特許が不道徳だと考えていた。史上最大の発明家の数名は、自分の発明のほとんどについて特許取得を拒否した。科学は伝統的に特許を拒否してきた。そして知的財産保護においてはだれにも負けないビル・ゲイツですら、ソフトウェア特許には疑念を表明している。(317頁)


「特許は不道徳」だ。

なるほど。

さらに、もうひとり。

保守派経済学者フリードリッヒ・フォン・ハイエクは、こう述べているという。

 [特許と著作権の分野では]、物質的なモノに対して発展してきたような形での財産概念を盲目的に適用することが、独占の成長を後押しするのに大きな役割を果たしたのはまちがいなく、そして競争がうまく働くようにするためには、この分野で大幅な改革が必要なのはまちがいないと思われる。(325頁)


コモンズの領域を制限することが、よいことなのか?

それとも、コモンズの領域を守ることこそが、よいことなのか?

フリーなリソースはイノベーションや創造性や民主主義にとって、常に中心的な役割を果たしてきた。道路はわたしがここで言う意味でフリーだ。それは周辺のビジネスに価値を提供する。セントラルパークも、わたしが言うような意味でフリーだ。それはそれを中心に抱く都市に価値を提供している。ジャズミュージシャンは、ポピュラーソングのコード進行を自由に引用して、新しいインプロビゼーションを創るし、そのインプロビゼーションも人気が出れば、また他人に使われる。宇宙船の軌道をプロットする科学者たちは、ケプラーやニュートンが開発してアインシュタインが改変した方程式を自由に活用する。発明家ミッチ・ケイパーは、IBM PC用の初のキラーアプリケーション、ロタス1−2−3を開発するにあたり、ある表計算ソフト――ビジカルク――のアイデアを自由に活用した。これらすべての例で、だれか他人――政府であれ個人であれ――の排他的なコントロールの外にあり続けるリソースの存在は、科学や人文学の発展において中心的な役割を果たした。そして将来の進歩においても、中心的な役割を果たし続ける。(30−31頁)


「フリー」こそが、社会の発展にとってきわめて重要であると指摘している。

ただし、経済的発展という視点だけで述べているのではない。

所有権の行き過ぎた保護は、自由な活動を制限する。

わたしたちをコントロールする。

だが、デモクラシーはこうしたコントロールを拒否するものではなかったか?

 民主主義的な伝統は、コントロールのシステムを拒絶する最強の根拠となる。……民主主義に参加する権利はコモンズに維持されている。われわれは人々が投票権を売ることを認めない。(151頁)


参政権を売買することをわたしたちは認めない。

 このように民主主義体制は、政府をコントロールする権利を財産化することを禁止する。……われわれが投票権を売らないのは、われわれの社会では「現金」は価値の唯一の次元でもないし、もっとも重要な次元ですらないからだ。世の中には特に金持ちになれないような仕事に生涯を捧げる人がいる――学校の先生や公務員などだ。でもかれらがその選択故に、政府の運営をコントロールする力が少なくていいとは考えない。(152頁)


コモンズの価値は、もっと再評価されてよい。

コモンズの内容についても、もっと研究されてよい。

そんなことを考えさせる本である。













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