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zoom RSS 大庭健『善と悪』(岩波新書)

<<   作成日時 : 2010/03/13 23:38   >>

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道徳とは何だろうか?

私たちは何を「善」と見なし、何を「悪」と見なすのだろうか?

そこにはいかなるメカニズムが存在しているのだろうか?

こうした問題をていねいに辿るのが本書の特徴だ。

著名な著者による精緻な論理展開がなかなか心地よかった。

若いひとたちにとっては、思考トレーニングにもよいと思う。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


私たちは、「いい・わるい」の判断を日常的に行なっている。

だがその場面は多様だ。

「きょうの天気はいい/わるい」

「あのひとは、いいひとだ/わるいひとだ」

「この新製品はいいね/わるいね」

「それはいいことだね/それはわるいことだぞ」


景気に対しても「いい・わるい」は使われるし、
体調にも料理にも芸術にもあらゆることに「いい・わるい」は用いられる。

だが、それらがすべて同じ水準にあるわけではない。

これらの区別をつけるところから著者の議論は開始される。

……「気分がいい」というときの「いい」は、その人の気分を端的に表明しているのだから(嘘をついているのではないか、と疑われる場合を除けば)、「気分がいい、というのは真か?」と問うことは意味をなさない。風呂から出て「ああ気分がいい」と語った人にたいして、「今の気分のどこが、どうして、いいのだ?」と問い返しても、意味をなさない。(8頁)


気分は、そのひと自身の内側に属しているものだからであろう。

それは、「胃が痛い」と痛みを訴えている人にたいして、「胃が痛い」という文の真偽を問うことが無意味であり、「あなたが感じているのが、痒みでなく痛みだと、どうして分かるのか?」と問うことが無意味であるのと同様である。(8頁)


したがって、この「いい・わるい」は道徳とは別の水準に属する事柄である。

「ああ、いいお風呂でした」というのは、道徳判断ではない。

当然だろう。

またこれとは別の「いい・わるい」の使い方がある。

これにたいして、「いい腕時計だ」とか「いい訓練プログラムだ」……という発話は、ある基準にもとづいて「いい・わるい」という語を適用する判断を表している。だからこそ、……「この時計のどこが、どういいのか?」と問うこともできるし、「これはいい時計だ」という文の真偽を争うこともできる。(9頁)


真偽が問題になるのは、行為に関してもそうだ。

もし私が、「売買春は、道徳的に悪いことではない」と語ったなら、必ずや「なぜ(いかなる理由・根拠によって)悪くない、と判断するの?」と、理由ないし論拠を問われ、私の判断の真偽が問題となる。
 このように、行為や態度の善悪の区別は、たんなる気分・感覚の表出とはちがう。それらは、あくまで対象(つまり行為や態度)についての判断を形作る。(11頁)


道徳判断が問われるのは、どちらか?

言うまでもなく、
後者(「買売春の是非」)であって前者(「時計のいい・わるい」)ではない。

また、道徳内容は社会によっても異なる。

時代によっても異なる。

「まあ、ひとそれぞれだからねえ」といった思考停止もよく聞かれる。

だからといって道徳は個人的な水準にあるわけではないだろう。

個人によってみな異なるならばそれを道徳とは呼ばないからだ。

ここで著者は「N」なる仮想人物を仕立てて議論をはじめるのだが、
この「N」ってたぶん哲学者「永井均」のことではあるまいか?

さて、わたしたちは他人から道徳を押し付けられることを嫌う。

戦前の教育を受けたひとの道徳観を押し付けられても若者は困るだろう。

かといって、各人が自分だけのモノサシで行動しているわけでもない。

わたしたちの存在は、どこまでいっても「対他存在」だからである。

 したがって、あくまで自分を「お互いに」という相互性の圏外に置こうとすることは、現に人−間でありながら、しかし人−間の条件を否定しよう、というに等しい。自己特権化とは、“自己が成立し存続するための条件を否定しながら、なお自己である”という特権を、ひとり自分にだけ・自分ひとりで与えようとする徒な試みなのである。(62頁)


右傾化した日本人には、この傾向がとくに目立つ。

ここで著者は、「お互いさま」「おかげさま」といった日常観念を重視する。

意外だろうか?

著者は、よくある「世間に同調せよ」との道徳を語っているのではない。

人と人の間にあって「人間」たりうるという基礎的場面を強調しているのである。

なぜなら、自分だけは特別だと言いたがるひとたちがあまりに多いからだ。

ところが非常に厄介なことに、そうした自己特権化の欲望は、しばしば、自分が「取り替えのきかない」唯一の存在であることを認めてもらいたい、という欲求と渾然一体になっている。(64頁)


自己特権化の欲望は、自分ひとりだけでは実現しないのだ。

なぜなら、その欲望は他人に認めてもらわなければならないからだ。

自分がかけがえのない存在だということを認めてもらいたい、という欲求は、人間にとって切実な欲求である。
しかしながら、自分のかけがえのない存在を承認してほしいという欲求は、相手による承認なしには充足されえない。かけがえのない存在の承認は、「お互いさま」「おかげさま」という相互性の圏内で、はじめて可能となる。(65頁)


「ぼくは特別なんだ」とつぶやくひとは、
「そうだよね」と応えてくれる声を渇望しているのである。

それは、まさに『白雪姫』の王妃が、“鏡よ、鏡よ、この世でいちばん美しいのは誰?”とナルシシズム丸出しで、他者ならぬガラスに向かって声を発したように、である。(66頁)


この問題はナショナリズムにも深く関わってくる。

そのことは、見やすいだろう。

自分の存在が根源的に対他存在である以上、
自分の存在を肯定するにも相手の存在が不可欠なのである。

こうした相互承認なしには、自分の存在が肯定されることはない。(66頁)


道徳は、そうした人間関係のなかに存在しているものである。

個人のなかにあるものでも個人の外側にあるものでもない。

ひととひととをつなぐもののなかにある。

そのうえ「なんらかの客観性」と「なんらかの普遍性」をもっている。

話を整理してみよう。

……もろもろの道徳判断は、通常のコミュニケーションにおいて、ある特徴を共有していた。第一に、道徳判断にかんしては、そう判断した理由・論拠を問うことができるし、第二に、判断の真偽を論じることができ、第三に道徳判断の食い違いは、たんなる「感じ方の違い」だけでは済まされない。(74頁)


ここでもうひとつ、よくある誤解を解いておく必要がある。

それは、「道徳は科学とは別の領域の問題だ」という考え方だ。

「道徳は共同体の規範である」と言われる。

「年配のひとたちの説教だ」と言うひともいる。

「いじめを悪と判断するのは、要するにそのひとの嫌悪感を示しているにすぎない」
と言うひともいるかもしれない。

もし以上の考え方が正しいならば、道徳と科学はまったく別の事柄になる。

だがそうではない。

そもそも科学とはどのようなものなのだろうか?

一方には観察によって得られたさまざまな観察命題があり、他方には、それらを整合的・体系的に説明するために考案され推論されて得られた、さまざまな理論命題がある。これらが全体として、より整合的な命題のシステムを形成するように、科学者たちは、両者を擦り合わせていく。(77頁)


なるほど。

「背後霊を見た」とか「10キロ先の子どもの泣き声が聞こえた」といった知覚判断は、どんなに当人にとっては確かだと思われていようとも、信憑性ある観察命題にはならない。(77頁)


それはそうだ。

だから観察命題と理論命題の擦り合わせが行なわれる。

……信憑性ある観察命題群と理論命題群が矛盾するならば、逆に理論のどこかが手直しされて、ある理論命題が排除される。このようにして両者を擦り合わせて、全体としての整合性・体系的な説明力を、より高めていく。全体としての整合性・体系的な説明力が極大になった状態は、「反省的均衡」状態と呼ばれることもあるが、……科学的探求とは、観察と理論の全体における反省的均衡を模索する営みである。


では道徳はどうか?

たしかに道徳は科学ほどの客観性を備えていないように思える。

しかし、どの時代・文化をとっても、成員たちの間で多くの道徳判断が共有されている。いまの私たちの社会でいえば、気弱な級友をいじめている少年を見れば、誰しも「彼がしていることは悪い」と思うし、茶髪にタトゥのあんちゃんたちが、被災地でかいがいしく救援活動をしているのを見れば、誰しも「いいことをするもんだ」と思って彼らを見直す。(78頁)


多くのひとがある行為を見て「よいことだ」と判断しているのは、
単なる偶然の一致ではないだろう。

著者は、ここでカントを引用したうえで、つぎのようにまとめる。

このように倫理学もまた、一方の共有されている直接的な道徳判断(群)と、他方の道徳原理とを擦り合わせて、それらの間の反省的均衡を模索する知の営みである。この点で、倫理学と科学は、構造的には同じ知の営みである。(79頁)


道徳判断は、単なる主観的な思い込みではない。

かといって科学と道徳の間に違いがないわけでもない。

では、道徳判断の客観性、道徳的な特性の実在性について、
この先どう考えればいいのだろうか?

私たちの日々のコミュニケーションにあっては、「善い・悪い」を語る言明について、その真偽が問われ、「善い・悪い」と判断した理由ないし論拠が問われる。その点で、道徳言明は、感情・感覚の端的な表出とは違う。また道徳言明は、知覚の報告とも違う。というのも、道徳言明は、しばしば、一群のデータと一般的な道徳原理から推論した結果を述べているからである。そのかぎりにおいて「善い・悪い」という道徳的な述語は、対象そのものに備わっている実在的な性質を表している、と思われる。
しかしながら、道徳的な特性は、科学が扱う性質が実在的だと言われる意味では、実在的な性質ではない。さればこそ、投影主義という考え方が、非常に自然に響く。しかし、投影主義の考え方一本で押していくと、我々の道徳判断が、対象の側から制約されている、という側面がうまく説明できそうにもない。(100頁)


若いひとたちはよく覚えておくとよい。

「Aとは何か?」が問われているときに、
「A」そのものの内実をイッキに突き止めようとするとむずかしい。

そういうときは、「Aとは何でないか?」から考えるとよいのだ。

著者はまさにそうした思考実践をしているのである。

先に「道徳は時代によって異なる」と述べた。

だが、よく考えてみるとそこには共通点もあるだろう。

たとえば、世界観・自然観・死生観を大きく異にする未開の部族や、古代の人々のことを考えてみよう。山川草木の動き、降雨・雷鳴といった現象、老病死生といった出来事、そのどれひとつとっても、彼らと私たちとでは、捉え方がまったく違う。彼らは、それぞれに「精霊」だの「祖霊」だのを持ち出して、それらを描写し説明する。しかし、ひとたび、そうした描写を受け入れるなら、「誠実」「勇敢」といった濃密な評価語の使い方にかんしては、彼らと私たちの間には、自然観の違いに見られたような大きな違いはない。
だからこそ、私たちは、古代の神話や歌謡を、曲がりなりにも理解して心を動かされているし、異文化の人々ともコミュニケーションを交わしえている。少なくとも、この限りにおいて、濃密な評価語は、汎文化的・歴史貫通的である。自然現象を描写し説明する言語は、きわめて文化に相対的だが、濃密な評価語は、それよりは、はるかに普遍的・歴史貫通的である。(124頁)


何を「美徳」と見なし、何を「悪徳」と見なすか?

この点はどうだろうか?

 「誠実」「思いやり」などなどといった美徳は、少なくとも部分的には、古代の身分制社会での社会関係の安定性にかかわる機能的要件に由来していた。そして、ひとたび社会が近代化してからは、社会関係の安定性を支えているのは、まずもって機能システムへの信頼であって、個人的な徳目ではない。(145頁)


ここで著者は「言語」の問題に分け入っていく。

群のはしっこにいる若いサルは、天敵を目にしたら、必ず「ききぃ」という甲高い警戒音を発する。その警戒音に接した他のサルは、実際に敵の姿もにおいも察知していないにもかかわらず、実際に察知したときと同じように、待避する。(146頁)


人間の場合はこれとは異なる。

これは、長い進化の過程のなかでサルたちにインストールされた因果的なプログラムによるのであって、音声を発する側・受け取る側での理解を必要としていない。
しかるに、人間が「敵が接近中!」と叫ぶときには、そうではない。音列を発する側も・聞く側も、この音列が、“発話者のいるところからは敵が見える”ということを意味する文だ、ということを理解している。すなわち話し手と聞き手の間では、“もし、自分が相手のいるところにいたとしたら、……であろう”という「想像上での立場交換」(A・スミス)が働いている。
こうした想像上の立場交換は、言語を理解できるための根本条件である。というのも、動物の発する信号とは異なって、人間の言語とは、実際には見えないもの・見えるはずもないことについて、あたかも現に見えるかのように考え・語ることを可能にする働きだから、である。丸山圭三郎の言葉を借りれば、言語は、まさしくそうした「非在の現前」という点で、動物の信号と異なっている。(146−147頁)


この「想像上の立場交換」は、言語の根本条件だ。

そればかりか、わたしたちが存在するための根本条件でもある。

 ある人に助けてもらった人の感謝の感情は、見ている私たちにも、ほのぼのとした安堵を感じさせるし、逆に、大切なものを奪われた人の苦悶の表情は、見ている私たちをも重苦しい気持ちにさせる。自己が、言語という「非在の現前」を介して、対他的に統合されているかぎり、こうした共感能力をもっていない人はいない。(148頁)


ひとへの気遣いのなかに道徳は生きている。

ここから著者は古代ギリシアのソフィストを取り上げるのだが、
ここではその説明を省く。

ぜひ本書を直接読んでいただきたい。

このあたりでまとめよう。

 したがって、道徳原理が、原理としての普遍性をもつためには、その原理を主張する人の立場・置かれている位置が変わったとしても、なお同じように主張できるものでなければならない。(185頁)


「普遍化可能性」が道徳の条件である。

では、つぎのようなケースをどう考えればよいだろうか?

当ブログでアメリカ軍による拷問を取り上げたが、
「イスラム原理主義者は拷問されてもいい」という
アメリカ人のなかの原理主義者の主張は道徳的だろうか?

「普遍化可能性」があるだろうか?

とうていあるとは言えないことは、すぐに分かるだろう。

彼らは、アメリカ人も拷問されてよいとは考えていないはずだからだ。

だが、もしこういうひとがいたらどうか?

あるいは、狂信的なキリスト教原理主義者が、「イスラム原理主義者は、拷問されてもいい」と主張し、続けてこう付け加えたとしよう。いわく、自分の友人・家族が、あるいは自分自身がイスラム原理主義者であったとしても、自分は、そう主張する、と。この場合も、彼の主張は普遍化可能性をみたす。(186頁)


なるほど。

この場合には「普遍化可能性」を満たしている。

しかし、だからといって、この主張が道徳原理になりうるはずもない。

ということは、道徳には、もう1つの条件が必要になる

それは何か?

著者は「不偏性」だという。

すなわち特殊な立場に偏らない、ということだ。

……道徳原則は、少なくとも、普遍化可能性・不偏性という二つの条件を満たしていなければならない。(189頁)


この言い方を聞いて、素直に納得する必要はない。

疑問をもったら、ぜひ本書を手にとっていただきたい。

そして、疑問と向き合って真摯に考えていただきたい。

それが道徳について考える入口なのだから。

人は、ある態度・行為によっては、対他存在としての自己の存在が承認されず、自分が“いてもいなくてもいい、むしろ、いないほうがいい”ものとして扱われていると感じ、そこから翻って、自分でも自分のことを虫けらのようにしか思えないかのような自己喪失感を強いられうる。あるいは、対他存在としての自分の存在を構成しているパートナーを奪う行為によって、自分の存在の一部が深く剔りとられる。
人がある行為によって、このように痛めつけられるなら、呼べば応えが戻ってくるというミニマムな信頼可能性が、その人自身のなかで切りつめられ、その結果、その人の生の可能性のいくつかの芽が潰される。災いと区別される悪の核は、このように人を痛めつけるというところにあり、悪によってそのように理不尽に痛めつけられることを、私は「いわれなき苦悩」と呼んで、こう述べた。「いわれなき苦悩が、これ以上ふえないようにすることは、善い」と。(190頁)


「いわれなき苦悩」。

この概念はおそらくカール・マルクスやマックス・ヴェーバーへとつながっている。

こうして著者は、ある命題にたどりつく。

……「全体として、最も多くの人の・より深刻ないわれなき苦悩が減るようにするものは、善い」という命題……。(198頁)


これを言い直すとこうなる。

「最大多数の最小苦悩」。

では、著者はこれをもって道徳原則に到達したと見なしているのか?

著者は功利主義を基礎にしようとしているのか?

著者はこの原理をもとに、
「所得格差の是非」と「出生前診断の是非」を検討している。

著者はどのような考え方に立っているのか?

ここではそれを書かないでおく。

「最大多数の最小苦悩」という命題を叩き台ににして、
これから私たちが道徳問題を考察していくことが求められている。









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