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zoom RSS 鬼頭秀一/福永真弓[編]『環境倫理学』(東京大学出版会)C

<<   作成日時 : 2010/02/07 13:47   >>

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いまエコがブームである。

テレビでは、タレントたちが視聴者に「身近なエコ」を呼びかけている。

「身近なエコ」

「エココロ」

「わたしは電気をつけっ放しにしない」

わたしはそれらを見るたびにむかつきを覚えるのだが、
そして同じ感想をもつひとは少なくないはずだと思うのだが、
この論文はそうした小ざかしい欺瞞を暴いていく。


◆家庭から社会へ(井上有一)

著者は大学生たちによく質問してみるという。

 教室で学生に尋ねてみる。「地球温暖化の問題がこのごろよく取り上げられています。このままでは、未曾有の被害が社会にもたらされるといいます。みなさんは、この問題に対しなにかしていますか」。(197頁)


すると、次のような答えが返ってくるという。

「クーラーで部屋を冷やしすぎない」

「シャワーの使用を短くする」

「部屋の照明やテレビをつけっぱなしにしない」

などなど……。

「パソコンの使用時間を短くする」といった意見も多いらしい。

わたしも学生たちに同じような質問をしたことがあるが、
やはり同じような答えが返ってきた。

メディアの影響は強い。

そして、この「小さなエコから」という考えは、政府の方針でもあるようだ。

日本政府は、家庭におけるエネルギー利用による二酸化炭素排出量が増加しているとして、国民には「1人1日1kgの削減」をよびかけている。この「みんなで止めよう地球温暖化――チーム・マイナス6%」プロジェクトは、……「身近にできるちょっとしたこと」でも「チームとなって結集すれば、地球規模の大きな力」になるので、「チームの力を信じて、一人ひとりが、できることから実践していくこと」が重要であるという。具体的には、室温調節、節水、節電、エコドライブなど……。(198頁)


政府の影響は強い。

冷静に見渡してみると学生たちよりも、
大人の方がこうした考え方に影響を受けていると言えるかもしれない。

だが、これは本当に効果的な温暖化対策と呼べるのだろうか?

「チーム・マイナス6%」が唱える「1人1日1kg削減」は、じつのところ、だれにでも気軽に取り組める達成容易な目標ではない。(199頁)


実際に計算してみるとどうなるだろうか?

著者がそれを示してくれている。

学生がよくこころがけているノートパソコンの利用時間短縮の効果は、1時間で2g(デスクトップパソコンは13g)の削減にとどまる。「シャワー1分短縮」が74g、「冷蔵庫にものを詰め込みすぎない」が18g、「暖房(冷房)1時間短縮」が37g(26g)、「アイドリング5分短縮」が63g、「レジ袋をもらわず省包装商品を購入」が62gの削減に相当するという。
このようにたいへんな節約を積み上げて、300万人がほんとうに「1人1日1kg削減」を達成したなら、どれだけの二酸化炭素削減効果があるのかも計算できる。0.001トン(1kg)×365日×300万人、答えは109.5万トンである。2007年度の日本の二酸化炭素排出量が13億400万トン(削減対象になっている温室効果ガス全体では二酸化炭素換算で13億7400万トン)であったことを思い起こせば、「小さなことでもみんなでやれば」「こまめに」などといってすむ話でないことは明らかである。必要なものは、「チリも積もれば山となる」「小さなことでも積み上げると必ず目的は達成される」と信じてひとり黙々と日々努力する精神主義ではなく、問題の構造を理解して、それにもとづき実効性のある対応を現実のものにし社会の仕組みを変えていく政治的意志である。(199頁)


日本人はどうして何でも「精神主義」にすり替えてしまうのか?

ともかく、こんな誤魔化しは国際社会には通用しない。

日本が京都議定書で約束した温室効果ガス排出目標数値は、1990年を基準にして2008年から2012年までの平均で6%削減である(実際には、2007年度、日本の排出量は、二酸化炭素で14.0%の増加、温室効果ガス全体で9.0%の増加であった)。(199頁)


しかし、「6%削減」という目標そのものが相当に甘い。

専門家たちは「半減」を求めているからだ。

……世界全体で2050年半減という数字は、1人あたりの排出量が世界平均をはるかに超える日本のような国にとっては、80%を優に超える排出減が必要ということを意味する。(199−200頁)


先日のCOP15では、
アメリカや中国やインドの消極的な姿勢を批判する報道が目立ったが、
当の日本自身が威張れるほどのことをしていないのだから、
何を言っても説得力はない。

……日本の社会が「持続可能な社会」からあまりにも大きくかけ離れている(あまりにも過剰に排出している)からである。……もうひとつは、家庭内の努力で実効的な削減が可能になるほど、もともと家庭からの排出量自体が大きくないからである。(200頁)


そのくせ中国を批判する日本人の欺瞞。

先ほども著者が指摘していたように、
温暖化対策で重要なのは明確な「政治的意志」である。

「小さなエコ」を積み重ねるだけでは到底目標に追いつかない。

目標を実現するためには具体的にどうしなければならないのかを
考える「政治的意志」が必要なのである。

ところが、環境対策を強く求める市民運動は、
しばしば日本では敬遠されてしまう。

NGOグリーンピースのイメージは、
捕鯨問題も影響しているためか日本ではさして良くない。

政治的色彩を帯びる市民運動はごく一部の特別な人々によるもので自分とは関係がないものと考えてしまう場合、「家庭のこころがけ」路線の取り組みは、安心できるホームベースを提供してくれるものになる。「なにかしなければ」という思いに、自分の責任は果たしているという達成感や満足感を、これまでの生活を大きく変えることなく多数派にとどまる安心感とともに、与えてくれるものになる。(202−203頁)


自分の生活を大して変えずに済ませる一般市民の欺瞞。

しかしその「何もしない市民」のせいで、
世界はとんでもないことになっている。

……日本が排出している二酸化炭素の排出量は、アフリカ大陸全土からの排出量よりも多い(2005年時点)。(207頁)


それによる被害は大きなものになっている。

その被害は、たとえば異常気象による洪水や旱魃、さらにそこから生じる水や食料の不足といったかたちで生じる。また、モルジブ、マーシャル、フィジー、ミクロネシア、ツバルなど、海抜の低い小さな島嶼国の海面上昇による国土消失の危機もよく報じられている。(207頁)


海水面上昇はよく挙げられる温暖化の影響だが、
問題はもちろんそれだけではない。

……バングラデシュのような国でも、海面上昇による土地の消失ばかりでなく、巨大化するサイクロンの高潮被害などによる人命喪失や生活破壊の拡大が憂慮されている。
このように、問題の「原因」をおもにつくりだしている人々と、その被害を真っ先にまたもっとも深刻なかたちで受ける人々は、多くの場合、一致しない。地球環境問題では、「地球に住む私たちみんなが加害者でまた被害者でもある」などとはとてもいえず、こうした単純にすぎるいい方は倫理的にも大きな問題をはらむものになる。(207頁)


温暖化による被害にも、南北格差があらわれる。

温暖化を招いたのは先進諸国の責任である。

それなのに被害を受けるのはもっぱら途上国のひとびとなのである。

 日本のフードマイレージ……が、世界の国々のなかで2位以下を大きく引き離して首位の座にある……。(208頁)


「フードマイレージ」とは、
「食べ物が取れたところから食卓までの距離にその食べ物の重さを掛けた値」で、
「この値が大きいと一般的にエコロジカルな社会から遠ざかると考えられる」(208頁)
ものである。

「小さなエコ」や「身近なエコ」という考え方は、
世界的に求められている環境対策からあまりにもかけ離れている。

「日本」という小さな共同体のなかだけで満足し合うひとびと。

ナショナリズムの弊害はこんなところにも影を落としている。


◆政策からこぼれおちるローカル知(二宮咲子)

塘路湖をいただく釧路湿原。

そこではある外来生物が繁殖しているという。

……近年、……急激に増えてきた北米原産のウチダザリガニは、貴重な湿原の生態系を破壊するとして、2006年に外来生物法(通称)の特定外来生物に指定された。(189頁)


ウチダザリガニはどうやってやってきたのだろうか?

 ウチダザリガニは1930年ごろに、国民の新たなタンパク質源を増やそうとする食料政策の一環としてアメリカから摩周湖に導入された。(189頁)


ウチダザリガニの増殖によって、ワカサギ漁への影響が懸念されているという。

また、絶滅が危倶されているニホンザリガニへの影響も心配されているという。

というのも、ニホンザリガニが激減しているからである。

ここで外来種が生態系破壊の「犯人」として悪役にされるわけだが、
意外にも地域住民は別の考えをもっているという。

ところが、この塘路湖では、ニホンザリガニが減ったもっとも大きな原因はウチダザリガニではないと、多くの住民は考えていた。(190頁)


では、本当の原因はどこにあるのだろうか?

いまから30年ほど前(1970−1980年代)、塘路湖に流れ注ぐ小川の上流域のカラマツ林で、その出来事は起きた。ヘリコプターが上空を飛び、赤い袋から白い粉が大量に撒かれた。それは冬を前にして、ネズミがカラマツの樹皮を食べてしまうことで、木材価値が下がってしまうのを防ぐために、ネズミを駆除する薬剤撒布だった。その後、森と小川の生きものたちに奇妙な出来事がつぎつぎと起きるようになった。まず、春になって狂ったようにクルクルと動き回るネズミが出てきた。そしてつぎにはヘビが大量に死んだのだ。(190頁)


真犯人は「農薬」だった。

本当の原因は別にあるのに、よそからやってきたものに原因を押しつける。

お、まさにこれはナショナリズムの特性ではないか。

環境倫理学は、ナショナリズムの危険性も教えてくれる。

ところで本書では、
近年環境倫理学で重視されている考え方を学ぶことができる。

欧州やカナダで採用されている「予防原則(precautionary principle)」、
そして「生物多様性(biodiversity)」といった考え方である。

なかなかおもしろい本だった。

おすすめである。








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