フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 鬼頭秀一/福永真弓[編]『環境倫理学』(東京大学出版会)B

<<   作成日時 : 2010/02/06 11:42   >>

トラックバック 0 / コメント 0

人間は、さまざまな目的のために動物の命を奪ってきた。

食用、衣料用、医薬品や化粧品の開発のための動物実験。

前回見たように、自然保護・生態系の維持を口実にした「駆除」も行なわれている。

そしてもうひとつ。

スポーツ・娯楽のために動物の命を奪ってもきた。

闘牛やスポーツハンティングがそれだ。

今回はまず、このスポーツハンティングを取り上げてみたい。


◆「持続可能性」を問う(安田章人)

古くから西洋の特権階級によって、娯楽のための狩猟が行なわれてきた。

もちろん東洋でも特権階級は娯楽のための狩猟を行なってきたのだが、
ここではアフリカを舞台に現在も行なわれているスポーツハンティングを見てみよう。

ヨーロッパの貴族や金持ちたちにとって、アフリカは狩猟の遊び場でもあった。

 しかし、このような入植者による過剰な狩猟を主因として、20世紀初頭までにアフリカ大陸で多くの野生動物は激減あるいは絶滅してしまった。たとえば、ボーア人(南アフリカに住むオランダ系移民)の銃は、シマウマとロバの近縁種のクアッガ、青い毛皮を持ったブローボック、ケープライオンを絶滅させた。(133頁)


そして、驚くべきことに、今でもスポーツハンティングは行なわれているという。

しかもそれが地元経済にとって重要な観光にもなっているのだという。

どうしてスポーツハンティングが観光として重要なのだろうか?

……国立公園におけるサファリ(動物観察旅行)とは異なり、スポーツハンティングによる観光活動には社会的インフラの整備が必要ではない……。(135−136頁)


なるほど、設備投資はほとんど要らない。

それだけではない。

また、1人あたりの観光客が落とす金額はサファリよりもスポーツハンティングのほうが大きく、少ない観光客で効率よく利益をあげることができるため、環境への負荷が小さいともされている。(136頁)


そしていま、このスポーツハンティングが見直されているのだそうだ。

たとえば、有名なジンバブエにおけるCAMPFIRE(固有資源のための共有地管理プログラム)は、スポーツハンティングを中心とした観光活動によって生み出された利益と雇用機会を地域住民の各世帯に還元、付与し、それによって住民を国立公園の運営や管理計画策定に参画させるというもので、スポーツハンティングによる「持続可能な」住民参加型保全プロジェクトの成功例とされている。(136頁)


だとすると、安易に野生動物の保護を訴えれば、
地元住民の貴重な仕事が奪われてしまうことになるわけだ。

悩ましい問題である。

もっとも、だからといって次の問題は見逃すことはできない。

一方、もともとその地域に住んでいた人々は、植民地時代に猟獣保護区の設定のために移住させられ、生業活動の制限を受けてきた。(141頁)


なるほど。

もっとも犠牲を強いられるのはそこに住むもっとも貧しいひとたちだったのである。


◆「自然の再生」を問う(瀬戸口明久)

この論文ではマングースが沖縄に導入されたときの話が書かれているのだが、
これは省略して、「里山」の話を見てみたいと思う。

いま日本では「里山」がブームである。

これまでのような「乱開発」はもう許されない。

かといって、「手つかずの自然」を守るというのもむずかしい。

そこで、適度に人間の手が加えられた「里山」が注目されるようになった。

「里山」こそ、人間と自然が調和した理想的な姿だ、というわけである。

「里山」における人間と自然の共生。

うん、美しい風景だ。

「里山」という概念が自然保護の世界で語られるようになったのは、1990年代以降のことである。……人の手が入る前の日本列島の大部分の森林は、シイやカシなどの常緑広葉樹からなる照葉樹林だった。だが農耕の開始以降、森林の下草を肥料にしたり、薪や炭として利用することによって、落葉広葉樹からなる雑木林が生まれた。これが「里山」である。里山にはカタクリやギフチョウのような、そこにしかいない生物が生息している。だが化学肥料の登場や炭焼きの消滅によって、戦後の里山には人の手が入らなくなった。(164頁)


「里山」に人の手が入らなくなったために、かえって山が荒れた。

そこで「里山」を各地で復活させようというのである。

環境省も里山を「日本の原風景」と位置づけ、
世界に向けて自然保護の新しい概念を紹介していこうと熱心だそうだ。

名づけて「SATOYAMAイニシアティブ」。

水田と雑木林が広がる過去から変わらない「美しい日本の風景」。

あの養老孟司もどこかで「里山」を賛美するような文章を書いていた。

以前どこかで読んだ記憶がある。

結構な話ではないか。

思わず納得してしまいそうになるところだが、ここは要注意である。

とりわけ養老孟司が言っていることなら要注意である。

この「里山」の思想には、ナショナリズム臭がぷんぷんしないだろうか?

「美しい日本の原風景=里山」。

 だが実際には、日本人が過去を通して森林を持続的に利用してきたという歴史的な事実はない。(165頁)


おお、やはりそうだったのか。

江戸時代の日本は自然と共生していたなどという言説も、
あちこちでふりまかれているようだが、これもどうやら怪しい説らしい。

とくに日本の森林が大きく破壊されたのは江戸時代のことである。(165頁)


わたしたちのイメージは大幅な変更を迫られそうだ。

……近世日本の農村のまわりに広がっていたのは、現在の里山でイメージされる雑木林というよりも「草山」であったという……。(165頁)


広大な「はげ山」!

本当は「はげ」なのに樹木が「ふさふさ」と生い茂っていたかのように
過去の日本を美化するなんて「かつら大国」に相応しい「偽装」ではないか?

実際、ある専門家は次のように述べている。

 里山というものを一つのものにまとめてしまおうとする整理の仕方は一番危険。むしろ「日本」の里山というものは実はないと認識すべき。……(「第3回里地里山保全・活用検討会議議事概要」)(166頁)


つまり、「里山」のイメージは歴史的な産物だったのだ。

過去を美化したがるのは、歴史修正主義の心性にほかならない。

だから養老孟司は靖国問題でもトンチンカンな発言をしてしまうのかもしれない。

たとえば、兵庫県のコウノトリ野生復帰事業が注目されているが、
コウノトリの棲む豊かな自然・里山といったイメージをひとが抱くとしたら、
それはあまりに単純だ。

……必ずしも「美しい過去」ばかりではない。ときにはコウノトリに田んぼを踏み荒らされ、被害を受けた苦い記憶も登場することがある。だがそれは「害鳥」というひとことで片づけられるほど単純ではない。(167頁)


いまや自然再生事業には「破格の予算」がつけられるという。

ここで行なわれているのは、自然保護における「日本の伝統」の美化だ。

……政府の側からの一方的な「伝統」の押しつけ……「伝統的」な歴史的建築物が大規模な予算を使って復元される一方で、地域の人々が保存してきた民俗資料が語る歴史は片隅に追いやられてしまっている……。(168頁)


これは自然保護版「歴史修正主義」と呼んでもよいのではないか?

ナショナリズム論においては、じつはおなじみの論点である。

「上からの伝統の押しつけ」

「創られた伝統」

自然保護思想には政治思想が潜んでいるのである。

大変勉強になる。











テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
鬼頭秀一/福永真弓[編]『環境倫理学』(東京大学出版会)B フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる