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zoom RSS 鬼頭秀一/福永真弓[編]『環境倫理学』(東京大学出版会)@

<<   作成日時 : 2010/02/04 12:18   >>

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技術の著しい発展は、わたしたちに難問の数々を投げかけるようになった。

情報倫理、生命倫理、環境倫理と、新しい倫理学が求められている。

初心者にも分かりやすい環境倫理の教科書が出た。

きょうから数回にわたって、本書を紹介していくことにしたい。

おすすめである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


本書は、数名の研究者たちの論文によって編まれている。

けれども、全体を貫く共通した問題設定がある。

それを端的に示しているのが、編者のひとり鬼頭秀一によって書かれた序章だ。


◆環境倫理の現在(鬼頭秀一)

この著者の本は、以前当ブログでも紹介したことがある。

こちらもおすすめ。

◇「鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)

環境破壊が深刻化している。

誰もが環境保護の重要性に気づくようにはなったが、
保護のあり方をめぐって対立も起きている。

これまでの環境倫理はどのような考え方だったのだろうか?

 既存の「環境倫理」を検討しようとすると、その基本的枠組みには、人間 vs. 自然、あるいは、人間中心主義 vs. 人間非中心主義という「二項対立図式」があることに気づかされる。(2頁)


「開発/保護」「経済か/環境か」「人為/自然」、などなど。

本書を貫く問題設定とは、
まずどのような場面でどのような二項対立図式が見られるのか、
そしてこの二項対立図式そのものをいかに乗り越えていくか、
というところにある。

……二項対立的なトレードオフで問題をとらえるのではなく、……自然的環境の問題だけでなく、社会的環境、精神的な環境も含めて、より広い文脈のなかでとらえることが必要なのである。(13頁)


これからの環境保護のあり方を方向づけるものだと思う。

では、その先の論文を拾い読みしていきたい。


◆人間・自然(森岡正博)

著者は、読者の身近な感覚にまず訴える。

 たとえば、生い茂った森林を、宅地開発のために切り開いて造成するときのことを考えてみよう。その山に昔から生えていた木々や植物をブルドーザーで取り払い、そこに住んでいた動植物たちを追い払って造成地とすることを、許しがたい自然破壊だと感じる人は多いであろう。(25頁)


だが、これを自然破壊だと感じないひともいる。

宅地を開発する住宅メーカー。

新しい住宅に入居しようと考えている住人。

これまでほかの土地が開発されてきたのと同じように、
この土地も造成され開発されていくだけのことだ、と彼らは言う。

 ここに見られるのは、「保護」か「開発」かという対立だ。保護するのは「自然」を守るためであり、開発するのは「人間」に利益をもたらすためである。ここでは「自然」と「人間」が対立しているように見える。(25頁)


「自然保護」というと、人間が介入しないことをイメージするひともいる。

 たとえば、奥深い山の木を切って木材として利用するのだが、切ったあとにはきちんと植林をして、持続的な林業が営めるように工夫しようとする人たちがいる。彼らにしてみれば、けっして林業によって自然破壊をしているつもりはない。むしろ逆に、自分たちが山の木々にていねいに手を入れることによって、森林を持続的に管理し、山の自然を守っていると考えているのである。(25−26頁)


いわゆる「里山」の思想につながるものである。

けれども、だからといって、
人間が自然に手を加えることが問題ないわけではない。

森林を持続的に守っていくといっても、もとにあった多様な自然生態系は植林によって失われるのである。そして、人間にとって都合のよいような木ばかりが植えられていくのだから、これは貴重な自然を、人間の利益になるような自然へと置き換えているだけのことである。(26頁)


ここで著者は、自然保護をめぐる二項対立を指摘する。

「自然を守るのは、そうしたほうが、長い目で見て人間の利益になることに間違いないから守るべきである」という考え方を、「保全」の考え方、あるいは「人間中心主義的」な自然保護の考え方という。この考え方は、その後、「持続的な開発・発展(サステイナブル・ディベロップメント)」という思想に結実した。(26頁)


なるほど。

では、もうひとつの方はどのような考え方なのだろうか?

 これに対して、「自然を守るのは、その地域の自然にとても大切で貴重な価値があるからであり、けっして自然を守ることが人間のためになるからではない」という考え方を、「保存」の考え方、あるいは「人間非中心主義的」「自然中心主義的」な考え方という。この考え方は、その後、「ディープエコロジー」という思想に結実した。(26頁)


「保全」と「保存」の二項対立。

では、この二項対立を乗り越えるにはどう考えたらよいのか?

それぞれの考え方の問題点を考えればよい。

手つかずの自然を理想視する「保存」から見てみよう。

……「保存」の思想……は、手つかずで守られてきたヨセミテの国立公園の原生林や、ナイヤガラの滝のようなワイルドな景観や、何千年も生い茂ってきた屋久島の杉などは、それ自体として他に替えがたい貴重な価値(内在的価値)があると主張する。(28頁)


そしてわたしたちもそうした見事な大自然の姿に魅了される。

だが、「保存」の考え方は、
「手つかずの自然」を賛美する非人間中心主義に見えながら、
じつは人間中心主義を隠しもっている。

たとえば、何千年もそのまま手つかずで放置されてきた、中央アジアの砂埃しか生まない土の砂漠や、中東の砂漠の底に何万年以上も眠る油田の油塊や、人が歩くだけで頭上からヒルがバラバラと降り注いでくる熱帯の密林などを、他に替えがたい貴重な価値を持つ自然として選択していない。(28頁)


なるほど。

ディープ・エコロジーから「荒涼とした砂漠」はイメージされない。

 ひとことでいえば、そこには、彼ら自身による「美的な価値判断」が忍び込んでいるのである。そしてその価値判断は、彼らが生まれ育った気候や社会や文化やマスメディアによって育まれてきたものであろう。すなわち、彼らは「自然のために自然を守る」といいながら、じつのところは、自分たちが生まれ育った気候や社会や文化やマスメディアによって形成された価値判断によって、「なにが守られるべき自然か」についての恣意的な線引きをしてしまっているのだ。(28−29頁)


ではつぎに、「保全」の思想を見てみよう。

彼らは人間中心主義でよいのだと主張するが、
ある大事な視点を欠落させている。

人体の塩分濃度が、海のそれと同じであることや、女性が卵巣から腹腔内に、月に1度、ちょうど魚のようなかたちの排卵をすることなどを考えても、人間がみずからの内部に大自然の破片を組み込んでいることは容易にわかるであろう。(30頁)


人間それ自身が「自然」を内包している。

それなのに「保全」の思想は、思考の中心に人間の利益を置く。

しかしながら、ここでいう人間の長期的な「利益」については、じつは、人間の身体に刻み込まれた「内なる自然」の呼び声によってそのかなりの部分が決定されているのであるから、……人間の「利益」なるものは最初から「自然」によって枠づけられているといえるのである。すなわち、人間が「身体」を持って存在している以上、人間の「利益」は、自然によってすでに大枠が決められているのである。「自然とは無関係に決められる人間の利益」などというものは、そもそも最初から存在しないのだ。(30−31頁)


ここから「人間」と「自然」を対立させて考えることの問題点が見えてくる。

そもそも自然を守るとは何を守ることなのだろうか?

まずそれは、「自然それ自体の尊い価値を守る」ことでもなければ、「たんに人間の利益のために自然を守る」ことでもない。人間と自然を、明瞭に分離することはできない。(32頁)


では何を守るのだろうか?

……それは、自然環境に対峙する私の「内なる自然」と、私を取り巻く「外なる自然」が、豊かに共鳴することができるような、人間と自然の関係を守るということなのである。(33頁)


大事なのは、人間と自然の関係性である。

関係性という視点を獲得したとき、
これまで見えなかったことが見えてくるはずである。

それが何であるかを考えるのが、わたしたちの責任であろう。










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