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zoom RSS C・ダグラス・ラミス『ガンジーの危険な平和憲法案』(集英社新書)

<<   作成日時 : 2010/01/07 09:02   >>

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何気なくページをめくっているうちに、ぐいぐい引き込まれてしまう本がある。

本書はまさにそれだった。

ガンジーに一定のイメージを持っていたつもりのわたしだが、
不意をつく著者の問題発見に誘われてイッキに読んでしまった。

意外なほどのおもしろさで、読みながら興奮してしまう本である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


著者は2004年、インドのデリーにある研究所に招聘された。

そのときに書き上げた論文が中心になって編み上げられた本なのだが、
インドと言えばガンジーということで、著者はガンジーの研究を進めることになる。

ガンジーは、インド建国の父であり、
徹底的な非暴力と不服従の運動を展開したことでも知られる思想家・活動家であり、
彼の思想は世界中に大きな影響を与えた。

インドのひとびとは、いまもガンジーを聖人として尊敬している。

しかし、ふと疑問に思う。

ガンジーを尊敬しているインド国民は、インドの現状をどう認識しているのだろうか?

なぜなら、インドは核兵器を保有する国でもあるからだ。

ガンジーを尊敬しながら、同時に核兵器を保有している。

それだけではない。

ガンジーは非暴力を説いたが、インドには立派な軍隊がある。

わたしたちから見れば、これはとてつもなく大きな矛盾である。

どう考えても「核兵器」と「ガンジー」は両立不可能に思えるからだ。

この矛盾をインドのひとびとはどう考えているのだろうか?

そこで著者は、研究助手のインド人女性にこの素朴な疑問をぶつけてみた。

すると驚くべき答えが返ってきた。

彼女は、「ガンジーは暴力を否定していない」と断言したというのだ。

多くの読者はここで腰を抜かすほど驚くのではないか?

「そんなバカな」と。

ここからラミスの鋭い洞察が存分に発揮される。

 もし、本書の読者がそのことに驚くのなら、キリスト教の国でイエス・キリストは金儲けを批判していないと思い込んでいる人の多さや、日本で憲法9条は自衛権を認めていると思い込んでいる人の多さを考えてみると、そのレベルの否認状態がもう少し身近に感じられるかもしれない。(23−24頁)


ここで「否認状態」と呼ばれているのは精神分析学用語なのだが、
たしかに多くのキリスト教徒たちは金儲けに勤しんでも矛盾を感じていない。

それどころかアメリカのキリスト教右派は、
戦争で市民を大量に殺害しても、
市民に拷問を加えても、
キリスト教の信仰と矛盾するとは考えていない。

憲法9条を持ちながら自衛隊の存在を容認している日本人も、
日本の現実にほとんど矛盾を感じていない。

ということは、
「ガンジーは暴力を否定していない」と断言したインド人女性を笑う資格は、
日本人にはない、ということになる。

しかも日本の少なくないひとたちが、
いまや9条改憲を容認しているのである。

もし現在の日本にガンジーがいたなら、憲法を変えて戦争ができる国にするべきだと言いながら、もう一方の口で自分は自衛隊に志願しない、という人を信じないだろう。(35頁)


大学生や高校生のなかにも9条を改憲すべきだと考えているひとがいるが、
もし本当にそう考えるのであれば、大学や高校に行っている場合ではないだろう。

ただちに自衛隊に入隊すべきであろう。

では、インド人女性の言うように、本当にガンジーは暴力を容認していたのか?

もちろん答えは「否」である。

なぜならガンジー自身が次のように書いているからである。

私のような非暴力の極端な信者なら、軍隊を完全に解放することにする。(37頁)


ガンジーはこうも書いている。

もし私に政府が任されたならば、私は別の道を選ぶ。なぜなら、私の下では軍隊も警察も設けないからだ。(37頁)


したがって、「ガンジーは暴力を否定していない」と言ったインド人女性は正しくない。

しかし彼女はそのことを認めることができない。

どうしてそうなってしまうのだろうか?

 インドの場合、「独立したインドの父は、20世紀のもっとも優れた政治家かつ聖人であるガンジーだった」というイメージを捨てられないが、インドの偉大な(核兵器を含む)軍事力も捨てられない、という二重意識を持つ人々がいる。彼らは、「ガンジーは国の軍事力を否定していない」と信じることで、安心感を得ているのだろう。(40頁)


もう一度繰り返すが、このことを日本人も笑えない。

 日本の場合、「崇高な平和憲法のもとにある平和な日本」というイメージを捨てられないが、実は軍事力がないと不安、という二重意識を持つ人がいる。彼らは、「日本の平和憲法が自衛権を否定していない(そしてもちろん、安保条約、米軍基地も否定していない)」と信じることでどうにか安心しているのだ。(39頁)


わたしも若者たちと話していて感じることなのだが、
「9条は守るべきだ」と言う若者でも「自衛隊の存在」には疑問を向けない。

これは「非暴力主義者ガンジーは暴力を否定していない」という矛盾と
変わらないレベルの大きな大きな矛盾である。

ここから著者は、ガンジーの思想がどのようなものだったのかを解説していく。

それでは、ガンジーの権力観はどのようなものだったのだろうか?

「権力とは何か」という問題は、政治思想のもっとも中心的なテーマのひとつだ。

これまでもさまざまな権力論があった。

・ 「権力は神さまから得るものだ」(王権神授説)

・ 「権力は生まれつきだ」(貴族支配)

・ 「権力は金だ」(資本主義)


ガンジーは、イギリスによる植民地支配からこの問題を考えようとした。

人口の少ないイギリスが、
人口の圧倒的に多いインドをなぜ何世紀も支配できたのだろうか? 

その権力とはいったい何だろうか? 

そうガンジーは自問した。

 ……どうして人口の少ないイギリスが、圧倒的に人口の多いこのインドを征服し、管理し、支配できるのか……。

 インドをイギリスが取ったのではなくて、私たちがインドを与えたのです。インドにイギリス人たちが自力で居られたのではなく、私たちがイギリス人たちに居させたのです。……イギリス人たちのある者は、インドを剣で手に入れたといっていますし、剣で支配しているともいっています。この2つのことは誤りです。インドを支配するのには剣は役に立ちません。私たちこそがイギリス人たちを(インドに)引き止めているのです。
(57−58頁)


支配権力の源泉は、権力の側にあるのではない。

じつは支配される側にこそあるのだ、とガンジーはいう。

これは意外にもマルクスの権力観に通じている。

マルクスの分析によると、労働者の労働(=協力)によって資本家の権力は発生しているので、徹底的なゼネスト(=非協力)を起こせば、資本家の権力は蒸発してしまう。(60頁)


このことを、戦争で考えてみよう。

国家は、自分が行なう戦争を必ず「正義の戦争」と位置づけようとする。

国際法でも、自衛のための戦争なら「正義の戦争」であると認めている。

では、もう一歩踏み込んで考えてみよう。

「正義の戦争」はなぜ「正義」と見なせるのか?

通常、ここではゲーム理論的な説明が与えられることになる。

つまり、戦争とは、きわめて厳しいルールに則ったスポーツのようなものだ、という考え方だ。たとえば、ボクシング選手が、街中でやればすぐ逮捕されるようなことをリングの中では許されるのはなぜだろうか。それは、もう1人のボクサーも同じゲームに参加していて、同じルールを認めていて、そして同じように殴ろうとしているからだ。(61−62頁)


だから「自衛のための戦争」は「正義」なのであり、
ただし戦争にも「ルール」があるからそれを守って行なわれなければならない、と。

しかし、ガンジーの非暴力思想は、この国家のゲームを無効化する。

 サティヤグラハ、つまりガンジーが勧めた非暴力運動は、このゲームを台無しにする。サティヤグラヒー(非暴力の運動家)が相手を殺す「権利」を放棄することによって、相手の人を殺す「権利」も奪われることになる。つまり、相手の「正戦」の権利、「正当な暴力」の権利は、こちら側も同じルールによって動いている、という大前提の上に立っている。だから、こちら側でそのルールを認めず、人を殺す権利を放棄し、事実として殺そうとしていない、ということになると、相手の行為は「正戦」ではなく「犯罪行為」に変身する。(62−63頁)


ガンジーの非暴力思想は画期的である。

……ガンジーは……国家は本質的に暴力的な組織で、非暴力な国家はありえないと思っていた。したがって、彼の解決法は、「国家」ではなく、「国家」とは根源的に違う政治形態を形成する、という提案である。(106頁)


ガンジーの思想はラディカルである。

じつは、ガンジーは、独自の憲法案をまとめていたらしい。

現在にいたってもこの事実は無視されているそうなのだが、
ガンジーがどのような新憲法を考えていたのかは、とても興味深い。

これについては本書を直接読んでいただきたい。

じつにおもしろいことが書かれている。

ガンジーの「幻の憲法案」である。

さて、ガンジーの思想は当時のひとびとにとってあまりにラディカルであった。

だから彼は暗殺されてしまった。

ガンジーを暗殺したのは、ナツラム・ゴドゥセという名の青年だ。

彼はガンジーを銃撃したあと、次のように語っているという。

 簡潔に言えば、もし私がガンジー氏を殺せば、私自身は完全に破壊されることしか期待できない、と自分で予測しました。国民から憎まれ、自分の命より大切である名誉も失うでしょう。しかしそれと同時に、ガンジー氏がいなくなれば、インドの政治は報復能力のある軍事力で強い、合理的なものになると思いました。私の未来は破壊されるが、国は救われると思いました。(131頁)


ガンジーは暗殺された。

しかし、彼の思想は語り継がれていく。

 ……ガンジーの政治思想の根底には、普遍的な政治法則がある。……権力は腕力でもなく、暴力でもなく、思考力でもなく、組織力でもなく、神力でもない。権力は、その権力によって管理され、振り回され、抑圧される人の協力から発生するものだ、という法則である……。(142−143頁)


ということは、権力に対する抵抗運動は、どのようなものになるのだろうか?

ストライキ(1時間や1日だけの象徴的なものではなく、オーナーを本当に困らせるストライキ)もそうだ。ボイコットもそう。良心的兵役拒否も、植民地制度に対する非協力運動も、そして草の根のスワラージ(=自立運動)もそうである。(145頁)


なるほど。

不当な暴力に苦しんでいるひとたちは、徹底的な非協力を貫けばよいのだ。

会社でひどい扱いを受けているひとが、日本にはたくさんいるだろう。

そういうひとたちは、上司や社長に待遇改善をお願いしても限界があるだろう。

お願いをするのではなく、非協力を貫くのである。

……たとえ1人でも協力をやめることには意味がある。自分の良心に合ない仕事を辞める、納得できない政府に税金を払わない、良心的兵役拒否などのような活動には、何よりもまず、自らの人間としての威厳を取り戻す、という意義がある。(146頁)


もちろんたった1人で会社を辞めても、
大きな変革や根本的な解決にはつながらない。

しかし、何かをはじめることには大きな意味がある。

そうさせまいと、国家はあの手この手を使ってくるだろう。

支配者は、思考を停止させる言葉を作るのがとても上手だ。たとえば、内政干渉を「援助」と、乱開発を「経済発展」と、侵略を「人道介入」と、虐殺を「付随的損害」と、成功した弾圧を「平和」と言う。(173頁)


そのような「洗脳」から自由になるためには、
わたしたち自身が自律的な思考と言葉を持たなければならない。

ガンジーの非暴力・非協力・不服従の思想は、
権力者たちにとってはあまりに「危険な」ものだったのである。








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