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zoom RSS 加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』(NHKブックス)

<<   作成日時 : 2010/01/31 12:38   >>

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「生命」に関する議論が活発になっている。

生命倫理、バイオテクノロジー、生政治(バイオポリティクス)、自然保護などなど。

すべて「生命」をめぐる議論である。

なぜいま「生命」が議論の的になっているのだろうか?

私たちはまさに、生命が至上価値となった世界に生きているからだ。ただしそこには――いささかアイロニカルにいえば――二重の意味がある。医療や環境問題に即して生命の大切さがくりかえし訴えられる傍らで、……生命に介入する技術が莫大な市場価値を生み、研究者や企業が争ってそれを奪取しようとしているのである。(27頁)


「生命の尊重」はわたしたちの共通の価値になったが、
企業によって生命の商品化が進められる。

それだけでなく、
現代の戦争は多くのひとびとの死を一瞬にして生み出す。

「生命の尊重」が叫ばれる一方で、
幾千万の屍が要領よく積み上げられる世界。

この矛盾がもっとも下品なかたちであらわれるのが、日本社会だ。

自殺者のニュースが報道されると「命を粗末にするな!」と言うくせに、
殺人事件が報道されると「犯人を死刑にしてしまえ!!」と叫ぶ社会。

「9・11」は連日大きく報道していたのに、
ハイチ大地震や途上国の事件・事故はニュースとニュースの合間に流すだけ。

それがいまわたしたちの生きている世界である。

そんな世界に生きるわたしたちは、
「生命とは何か?」と問われても誰も説明できない。

専門家でないかぎり。

しかし、直感的に「命あるもの」と「命のないもの」の区別はできる。

「生き物」と「生き物でないもの」の区別もできる。

 たとえば、自分の愛する人が脳死状態に陥ったとき、その傍らに立つ私たちは、たとえ脳死状態が人の死であると考えていたとしても、その人に何ごとかを呼びかけるだろう(「お母さん」「太郎さん」「辛かっただろうね」「なんで死んじゃったの」等々)。それは相手をいまだ単なる物体ではなく〈誰か〉――すなわち、世界の開けの原点であると同時に、私からみれば世界の消失点でもあるような他者――であると認めることである。……死んだ直後の「死者」は、文字通り「死んだ者」であって、いまだ「死んだ物」すなわちモノとしての「死体」ではない。「死んだ者」が「死んだ物」に変容するには、ある程度の時間がかかる――その変容のなだらかな勾配は、かつては埋葬によって、現在では火葬によって断ち切られるが、それですべてが終わるわけではない。(41−42頁)


だからわたしたちは、誰かの「亡骸」を「死体」と呼ぶのをためらう。

「ご遺体」と呼ぶ。

大人は明らかな無生物、たとえばぬいぐるみに、むやみに話しかけたりはしないものだ。だが大人といえども飼い犬や飼い猫に話しかけること――かれらから返事が返ってくることはないと知っていながら――は決して珍しくはないし、すでに死んだ人に向かってその名を呼び、語りかけることは、むしろ人間の本性に属するふるまいではないだろうか。(42頁)


しかし、人体を「医療資源」と見なす現代社会は、
ひとの身体を「部品」や「材料」と見なして効率的に利用しようとする。

「人間の本性」をズタズタにして。

本書は、「生命」について深く考えさせられるものだが、
何よりも特徴的なのは著者のていねいで誠実な姿勢である。

漫画やアニメや文学作品にも触れながら、「生命」のあり方に目を向けていく。

今回は本書のなかから「パーソン論」と「ロングフルライフ訴訟」を取り上げたい。

「パーソン論」は以前にも紹介したことがある。

オーストラリアの哲学者マイケル・トゥーリーは、つぎのように主張する。

彼によると、
「生物学的規定としてのヒト」と「倫理的・道徳的規定としてのヒト」は、
区別されるべきものである。

ある存在者が、事実問題として前者に属するとしても、すなわちある意味ではヒト=人間であるとしても、それだけでは後者の資格を与えられるわけではない。ヒトは道徳的配慮に値する存在者、言い換えれば「権利の主体」であるためには、「パーソン」(人格person)でなければならない。(54−55頁)


「パーソン論」が一定の意味をもつのは、
これによって保守派による「中絶反対論」を批判できるからである。

……胎児や新生児は明らかに「経験や他の心的状態の持続的主体としての自己の概念」を持ってはいないから、妊娠中絶や新生児殺しは道徳的に正当化される。特に重い先天的障害をもつ生命は不幸なものだから、障害をもつ新生児を殺すことによって「社会の幸福を有意義かつ正当に増大することができるだろう」……。(55頁)


しかし、いま見たように、
「パーソン論」は障害児の中絶や安楽死も正当化できてしまう。

もうひとり、ピーター・シンガーにも触れておこう。

彼のことは問うブログ記事「立岩信也『唯の生』(筑摩書房)」で紹介したことがある。

 ……功利主義倫理学の……ピーター・シンガー……もまた「人間」(human being)という概念の2つの意味を区別することから出発する。ひとつは「ホモ・サピエンスという種の成員」であるという意味であり、もうひとつは「人格」(person)、すなわち自己意識や理性をもつ存在者であるという意味である。(56頁)


したがって、胎児の中絶は認められるという。

胎児は「理性、自己意識、感知、自律性、快苦など、道徳的に意味のある特性」を十分に備えた人格ではないから、「人格と同じだけの生きる資格」はない。……また、種としてのヒトには属さなくとも、右のような意味での「人格」性を備えている生物は道徳的配慮の対象になりうる。少なくとも犬や馬のような複雑な動物は明らかにその資格がある。したがって、成長した動物を殺すことは、ヒトの胎児や新生児を殺すことよりも悪いといえる場合がある。(56−57頁)


この考え方に反発するひとは多いだろうが、
この理屈を使うと「動物愛護」を展開しやすいというメリットはある。

たとえば、動物への虐待は許されない、と考えるひとは多い。

日本の多くのひとたちだって動物虐待は許されないと考えるだろう。

そうしたひとびとが「当時に」捕鯨に賛成することはできるだろうか?

これはそれほど容易なことではない。

ところが、「パーソン論」は動物存在の資格を問題にする。

当然のことながら著者はこうした見解を批判していくのだが、
そのときに著者が重視するのが「関係性」の視点である。

これに関連して、著者は、ある日の体験を語りだす。

 私は、ある夏の蒸し暑い午後、地下鉄のなかで、意識を失った子どもを抱きかかえながら必死に名前を呼びつづける母親の姿を目撃したことがある。そのとき、意識がないという点だけをとれば、彼女の腕のなかでぐったりしている男の子と石ころは同じである。しかし彼女は道端の石ころに向かって同じように呼びかけることはけっしてしないだろう。そのとき彼女が呼びかけていたのは、意識などではなく、その背後にいるはずの〈誰か〉に向かってだったはずだ。(70頁)


パーソン論者にはこの光景はどのように見えるのだろうか?

さらに問おう。

脳死臓器移植に賛成しているひとは、この光景をどう受け止めるのか?

尊厳死・安楽死に賛成しているひとは、
この母親を「愚かなひと」と見なすのだろうか?

次に「ロングフルライフ訴訟」を見てみよう。

本書の特徴は、
この「ロングフル・ライフ訴訟」について詳しく書かれていることである。

「ロングフル・ライフ訴訟」という耳慣れないものは、
いったいどのようなものなのだろうか?

ロングフル・ライフ(wrongful life)訴訟とは、先天性障害をもって生まれた子ども自身が、自らの苦痛に満ちた生そのものを「損害」であるとし、出産を回避できるよう親に的確な情報を与えなかった医師の過失責任を問う損害賠償請求訴訟である。これに対して、同じ状況において、親が慰謝料や出産費用、子の養育費用や医療費の賠償を求めて提起する訴訟を「ロングフル・バース(wrongful birth)訴訟」という。(83頁)


ご理解いただけただろうか?

実際にあったという驚くべき事件を見てみると、よく分かると思う。

1977年のニューヨーク州最高裁におけるパーク対チェンシン判決だ。

第一子を幼児性の多発性嚢胞腎(のうほうじん)という難病によって、生後わずか5時間で失った経験をもつパーク夫妻は、第二子をつくるにあたって、その子が同じ病気に罹る危険性はどれぐらいかを医師に尋ねた。医師の返答は、この病気は遺伝性ではないので心配はないというものだった。1年後、その言葉を信じたパーク夫妻には女児が生まれたが、やはりその子も第一子と同じ病気を患っており、およそ2年半で短い生涯を閉じることになった。パーク夫妻はその後、自分たち自身の精神的苦痛や医療費用についての損害賠償を医師に求めるとともに、死んだわが子がその短い生のうちに被った苦痛に対する賠償を求めて、ロングフル・ライフ訴訟を起こしたのである。(91頁)


これは親が医師を訴えた事例だが、
次は障害児自身が裁判を起こしたケースである。

1980年のカーレンダー対バイオサイエンス研究所判決だ。

この裁判は、テイ・ザックス病というきわめて重篤な遺伝子性疾患をもって生まれた女児が、妊娠前の両親に対する遺伝子検査を実施したにもかかわらず子がテイ・ザックス病の遺伝子変異をもつことを見抜けなかった検査機関を訴えたものである。
カリフォルニア州控訴裁判所はこの訴えを受け入れ、原告が負っている障害ゆえに生じる(健常者に対して割高な)医療費や生活費といった「特殊損害」(special damage)だけでなく、障害を負った生そのものを「一般的損害」(general damage)として認めた。(93頁)


まだある。

次は1982年のタービン対ソルティーニ判決。

……すでに聴覚障害のある娘をもっていた両親が、次の子も聴覚障害をもつ可能性について医師に相談したところ、その危険性はきわめて低いといわれたが、しかし実際に生まれた次の娘にも重度の聴覚障害があった。もしも医師が両親により正確な情報を与えていれば、両親は妊娠をあきらめ、子である自分が障害をもって生まれることはなかっただろう――原告はそのように主張して、自分が聴覚障害者として生を受けたことについての一般損害賠償と、健常者には不要な訓練・教育・機器の費用についての特殊損害賠償を請求したのである。(94頁)


このような裁判は、近年でも発生しているという。

筆者が知り得た最新の事例は2004年のサウス・カロライナ州最高裁判決で、重い水頭症を患って生まれた男児の母親が息子名義で起こした損害賠償請求が、法的に認知しうる損害がないために訴訟理由がないとしてしりぞけられている。(96頁)


「ロングフルライフ訴訟」に共通しているのは、
障害をもった子どもは「生まれない方がよかった」と見なされているという点だ。

ただし誤解してはならないのは、
このような訴訟を法律で禁じている州もあるということだ。

こうした訴訟は、アメリカ以外の国でも起きているという。

たとえばフランス「ペリュシュ事件」がそうである。

妊娠初期に風疹に感染した疑いのあったペリュシュ夫人は、子が障害をもつ可能性のある場合には妊娠中絶を行なう意思を表明していたが、医師および研究所は検査結果を誤って伝え、生まれてくる子に障害はないと信じさせた。その結果、夫人は妊娠を継続したが、1983年1月に出生した子にはグレッグ症候群の兆候(重篤な神経障害、聴覚障害、右目の緑内障および心臓病など)がみられた。両親は、医師および研究所とその保険会社を相手に訴えを提起した。……紆余曲折を経て、2000年11月17日の破毀院判決では、ロングフル・ライフに対する医師への損害賠償が認められた。
 フランスの最高裁が実質的に「生そのものという損害」を認めたことは大きな波紋を呼び、それが2002年のいわゆる「反ペリュシュ法」(「病者の権利と保健制度の質に関する2002年3月4日の法律」)の成立につながった。(97頁)


ロングフルライフ訴訟はこのようにいくつかの国で提起されている。

これらのケースでは胎児が障害をもっていたわけだが、
結局のところ、司法判断において大きいのは、
親にとって「望まれた妊娠」と「望まれない妊娠」があり、両者は区別される、
ということのようである。

だから次のような考え方も出てくるわけだ。

 興味深いのは、フランスでは、強姦あるいは近親姦によって生まれた子はその加害者に対して損害賠償請求を行なうことができるということだ。(99頁)


イギリスのことにも触れておこう。

 イギリスでは1967年の「堕胎法」で胎児の障害を理由とする中絶が合法化され(いわゆる胎児条項)、また1976年の「先天性障害(民事責任)法」において、妊娠中の親に第三者から危害が加えられた結果として子が障害をもって出生した場合には、子は不法行為にもとづき提訴することができるとされた。さらに1990年の「ヒト生殖および胚に関する法律」では、中絶期間の限定が撤廃された。(100頁)


日本では「胎児条項」は削除されているのだが、
イギリスでは逆の動きを見せたということである。

「望まれた妊娠」と「望まれない妊娠」。

こんどは逆に「望まれた妊娠」の方の問題を見てみよう。

「望まれた妊娠」なら「子どもの出生」は祝福され、
問題は何もないように思われるかもしれない。

しかしそうではない。

何らかの目的のための「手段」として人間を産むことがあるからである。

その典型的な事例は、いわゆる「ドナー・ベビー」だろう。

これは、白血病やサラセミアといった難病を患い、骨髄移植や臍帯血移植をしなければ助からない子どもをすでにもっている親が、着床前診断(体外受精と受精卵の選別を組み合わせた技術)を利用して、移植のドナーに適した血液細胞などの型を決定づけるタイプの組織(HLA/ヒト白血球抗原)をもつ子どもを新たにつくるケースである。
 ……まず、体外受精一般にともなう余剰胚……の地位の問題や、受精卵の段階で「生命の質」を選別することの是非という問題がある。……ドナーとして生まれてくる子どもの自己決定権が侵害されること(移植手術は、子どもがまだ物心つかない時期に行なわれる)……。(151頁)


断片的な引用になってしまったが、おおよその意味はとれたであろう。

すでにいる子どもの治療のために、
その「道具」として子どもを新たにもうけるというもののことだ。

これに似た論点は、よくクローン人間の議論のときに見られる。

いま生きている人間の治療のために作り出されるクローン人間。

多くのひとはこれに強く反発する。

しかし、「親」の都合で、ある目的のために子どもをつくる、
ということはじつはごく当たり前のように行なわれているのではないか?

跡継ぎがほしいと願って子どもをつくる開業医。

商売の跡継ぎがほしいと子どもをつくる自営業者。

自分の築き上げた会社を他人に譲りたくないために子どもをもうける企業経営者。

いや、それどころか、
生まれてくる子どもに「こうであってほしい」「ああであってほしい」
という親の願望・欲望を託すひとはむしろ少なくないのではないか?

むしろ多くの親は、容姿の優れた子、勉強やスポーツに秀でた子、素直な優しい性格の子といったさまざまな特定の属性を、生まれてくる子に期待するのではないだろうか。そのような願望がある以上、子どもとは親の欲望を満たすための手段という意味をどうしても帯びてしまうのではないか(そもそも自分と血のつながった子がほしいという普遍的な願望こそは、究極の属性選択ではないか)。(152−153頁)


ドナー・ベビーを準備しようとする親の心理は、
じつは多くのひとびとの心理とそれほどかけ離れたものではない。

この問題を考えるにあたって、著者は、
政治思想家のハンナ・アレントの大著『全体主義の起原』を取り上げる。

アレントは、全体主義の特徴を次のようにとらえた。

全体的支配は犯罪と栄誉、罪と無罪の概念を、われわれがすでに知っている独裁政治もしくは専制政治のように自分にとって都合のいい方針に従って〈一変(レヴォルツィオニーレン)〉したのではなかった――こうした概念をまったく廃棄し、そのかわりに〈望ましからぬ者〉および〈生きる資格のない者〉という新しい概念を持って来たのだ。が、この概念はそれまでほとんど思いも及ばなかったような有効性を持っていた。人が罰することができるのは犯罪人であって、望ましからぬ者や生きる資格のない者は、あたかもそんなものは嘗て存在したことがなかったかのように地表から抹殺してしまうのである。彼らを見せしめに仕立て上げることなどは決してない。彼らが後に残す唯一の形見は、彼らを知り、彼らを愛し、彼らと同じ世界に生きていた人々の記憶だけだ。だから、死者と同時にその形見をも消し去ることが全体主義の警察の最も重要な、最も困難な任務の一つなのである。(168頁)


だから、歴史修正主義者は、じつは「全体主義の警察」なのだ。

彼らは恥知らずにも「加害の記憶」そのものを消し去ろうとするのだから。

もう一度確認しておこう。

歴史を勝手に書き換えようとするものたちは、「全体主義の警察」なのである。

さて、彼らは同時に決まって「死」を賛美する。

国家のために捧げられた「死」を美化する。

「靖国」の思想も同じである。

単純な右派は「英霊」を賛美し、英雄化する。

これらが身の毛もよだつほどの気持ち悪さを感じさせるのは、なぜか?

そのような発話は、国家間の戦争や犯罪によって殺害された人々の名の下に、かれらが被った死について、あたかもかれら死者たち自身が評価することができるかのように、しかし実際にはかれら自身ではない別の生者が代わって語る〈騙り〉だからである。そのような発話が、愛する者の死を受容しきれない生者の悲しみのなかから湧き上がってくることがあるという事実を、私といえども知らないわけではない。だが、もはや語ることも、感情を(それが「無念」であれ何であれ)抱くこともできないということこそが、まさしく死者であるということの意味であり、そうであるからこそ死は無惨なのだ。
 もしも死者が語れるのならば、そのように密かに変造され、緩和された死の観念によって、不正な殺害や戦争をめぐる問題の根幹は削り取られてしまうだろう。実際に、死者の名を〈語る〉言論がしばしばより多くの死を要求すること――戦争被害者の「無念」を掲げて次なる戦争への準備を正当化する人々、胎児の「悲しみ」を掲げて中絶医の爆殺を仕組む人々(いわゆるプロライフ派)を想起してほしい――は、決してゆえなきことではないように思われる。(184−185頁)


ここは、中絶や戦争に共通する「語り」と「騙り」を
著者が丹念にときほぐしていくきわめて重要な論点である。

実際に本書を手にとってじっくりと読んでいただきたい部分である。

とてもレベルの高い議論である。

「生命の尊重」が叫ばれる現代。

しかし現代は同時に大量の死を生み出す。

そこでは容赦のない「生命の線引き」が行なわれる。

 ……アメリカの断種立法は1930年代に入ると次第に終熄してゆく。しかしそれは世界的規模での優生政策の終焉を意味したわけではない。むしろ、世界に先駆けたアメリカでの実践は、直接にはナチス・ドイツに、さらには第二次世界大戦後の日本における優生保護法や北欧諸国での優生政策に引き継がれてゆくのである。
 ……これに対しては、確かに国家権力によるあからさまな強制としての優生政策は姿を消しつつあるものの、それに代わって、民主主義の下で人々の自発的な選択を通した人口の「質」の調節が行なわれるようになったという議論がある。いわゆる「新優生学」である。(197−198頁)


だからわたしたちは何度でも叫びつづけなければならないのである。

「すべてのひとに人権を」と。

ぜひ多くのひとたちに読んでもらいたい良書である。









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