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zoom RSS サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(青土社)A

<<   作成日時 : 2010/01/30 10:22   >>

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今回紹介するのは、サラ・ロイと徐京植の対談である。

しかしその前に、徐京植による文章を紹介しておこう。

彼は、
「9・11同時多発テロ事件」の直前に開催されていた、
ある重要な国連会議に触れる。

2001年8月に南アフリカのダーバンで開かれた国連人種差別撤廃会議においては、多数の参加国が、イスラエルによるパレスチナ地域の軍事占領と統治を「あらたな形態のアパルトヘイト」だと非難し、さらにシオニズムを人種主義と規定し、イスラエル軍によるパレスチナ人民間人虐殺を「種族掃討または大量虐殺」だと強く非難しましたが、これに反対してイスラエルと米国が会議から撤退するという出来事が起きました。(218−219頁)


日本ではそれほど知られていないと思われるこの会議は、
じつは歴史的に画期的と言ってよいものだった。

その画期的会議から席を立って退場した国々。

イスラエルとアメリカの国際社会での「孤立」を象徴するエピソードだ。

 〈9・11〉の直後、ブッシュ大統領は「対テロ戦争」を布告しましたが、米国国民の80パーセント以上が熱狂的にそれを支持しました。(219頁)


いまでこそアメリカ国民の多くはイラク戦争に批判的らしいが、
「対テロ戦争」の呼びかけにアメリカ国民の多くは熱狂的に賛成していた。

「対テロ戦争」の熱狂は、理性の声を蹴散らして、とうとう2003年春のイラク侵攻を実現してしまいました。ひとつの国家が破壊され、数十万の人々が命を奪われました。開戦の口実となった「大量破壊兵器」は結局存在しなかったことが今では明らかとなりましたが、ブッシュ氏も米国政府も、またそれを支持した米国国民も、まったく責任を問われていません。付け加えて言えば、「イラクに大量破壊兵器が隠されている」という米国に無条件に追従した日本の政府も、それを支持した日本国民も責任を感じてすらいません。(220頁)


まったくである。

加害責任も問われていないし、罪責感すらない。

「冬の兵士」たちなどの例外的存在をのぞいて。

「ピースフル・トゥモロウズ」のような例外をのぞいて。

先日、ある若い学生と話していて驚いたのだが、
アメリカがイラクを武力攻撃したのは「9・11」の報復だった、
とその学生は思い込んでいたのである。

イラクは「9・11」とは何の関係もないのに。

そして、その学生によれば、
周りの友だちにもそう考えていたひとは少なくないらしい。

愛国心が高まると、必ず「排除の暴力」が作動する。

対テロ戦争に反対のひとは攻撃・排除される。

愛国心が高揚すると、「非国民」探しがはじまる。

日本に暮らす在日外国人も「異質な存在」として排除される。

……複数の共同体にまたがる人生を誠実に生きようと努め、そのことのためにどの共同体においても多くの理解者を得ることができない者は、この世界に少なくありませんが、今のところ、その者たちのそれぞれが、それぞれの場所で「場ちがい」であり、孤独なのです。(221頁)


ここで著者は、プリーモ・レーヴィの話をする。

読者のみなさんはプリーモ・レーヴィを知っているだろうか?

アウシュヴィッツの生存者であったイタリアの文学者、プリーモ・レーヴィは1982年のイスラエル軍によるレバノン侵攻とサブラ・シャティーラの虐殺事件に際して、「イスラエルは攻撃的ナショナリズムに傾斜している。ディアスポラ・ユダヤ人の歴史に存在する寛容の系譜を再評価すべきだ」という趣旨の控えめな見解を表明しましたが、そのためにイスラエル在住のアウシュヴィッツ生存者仲間たちから「針のような非難の手紙」を受け取り、ユダヤ人共同体から孤立しました。レーヴィはその5年後、1987年に自殺しています。……現代の世界において「理性的であろうとするもの」「寛容の価値を説こうとするもの」が不可避に支払わなければならない代償の重さを想像せざるを得ません。(221頁)


アウシュヴィッツの地獄を生き残った彼は、
平和になったはずの世界では生き残ることができなかったのだ。

彼の味わった孤独の深さを想像しなければなるまい。

 ロイさんのこうした思想は、ユダヤ人の経験とパレスチナ人の経験を、対立させてとらえるのではなく、普遍的な苦難の経験としてとらえることで両者をつなごうとするものだ。(224頁)


この視点は、何度強調しても足りないくらいに重要なものだと思う。

とりわけ、ナショナリズムに絡めとられている日本人にとっては。

日本人の経験と北朝鮮のひとびとの経験を対立させ、
中国や韓国のひとびとの経験とも対立させ、
日本人こそ被害者であると言い募る傲慢で愚かなひとびと。

彼らに決定的に欠落しているものは、何なのだろうか?

産業構造が近代化したとか、生産力が増大したとか、さまざまな理由をつけて植民地時代の真実を覆い隠そうとする言説がある。こうした議論に決定的に欠如しているのは、「占領とは辱めであり、人間性の破壊だ」という観点だ。このことを直視する能力がないか、あるいは直視する勇気のない人々が、「あの時代も悪くなかった」と言いたがるのである。そういう人びとは結局、自分自身の歴史を偽っているだけではない。いま占領下で苦しんでいる全世界の人びとに敵対しているのである。(225頁)


著者のこの指摘に、わたしは全面的に賛成したい。

占領を正当化する連中は、すべての占領に苦しむひとびとに敵対する!

性暴力を正当化する連中は、性暴力に苦しむすべてのひとびとに敵対する!

差別者はすべての被差別者に敵対する!

このあと、ふたりの対談がはじまる。

サラ・ロイ ……大半のユダヤ人が……ひじょうに強固に、一方でホロコーストをユダヤ人国家の必要性を正当化すると同時に、他方で戦後のイスラエルでは犠牲者や生き残りを侮蔑してきたわけです。……私の第一言語はイディッシュ語なのですが、このイディッシュ語というのは、現在イスラエルでは使われていない言語です。というのも、これは弱者の言語とされたからです。(245頁)


ふと思う。

どうしてイスラエルのひとびとは、歴史的被害の記憶をもっているのに、
現在進行形の「占領」「侵略」「暴力」「虐殺」を支持してしまうのだろうか?

徐京植 ……アメリカ合衆国もイスラエルも、一応制度としては民主主義国でオープンソサイエティ、開かれた社会、言論の自由、報道の自由を保障されている社会ですね。……ガザで何が起きているか西岸で何が起きているかはイスラエルの市民にもわかるわけです。にもかかわらず、9割以上のイスラエル市民がガザ攻撃を支持しているという現実があるわけです。しかもその人たちは、直接ホロコーストを経験した世代でもないし、またヨーロッパ出身でもない人たちが多数になっているわけです。……いわばそのホロコーストの記憶というものを神話として共有しつつ、ガザならガザ、西岸なら西岸で起きている、形容しがたい出来事に対して、今みなさんがご存じのようなああいう攻撃的な反応をする、そういういわば記憶を神話化して、実は直接関係ない世代や関係ない地域からきた人たちのあいだで、共有させていくポリティクスについて……。(254頁)


いったいなぜなのだろうか?

この疑問に対して、サラ・ロイは次のように答える。

サラ・口イ 私自身、もう何年もガザ地区、西岸地区、イスラエルを歩き回っていますが、イスラエルに住んでいる友人や親戚と話をし、ガザで何が起きていると思うか、そして占領地でイスラエル政府が何をしていると思うかを尋ねると、彼らの知識や認識というものは実際に起きている現実とはほとんど関係のないことばかりで、聞いても楽しくないことは聞きたくないという感じです。(255頁)


この話は、まるで現在の日本人のことを語っているようである。

「楽しくないことは聞きたくない」。

加害国の国民はこんなにも愚かになってしまうのか。

この前のレバノン侵攻のときや今回の残虐なガザ攻撃においてさえ、ある意味ではもう信じがたいほどあからさまに、イスラエル人側から「われわれこそが攻撃され苦しめられている」などと心底信じ切って言われているのを耳にします。(255頁)


思わず耳を疑う言葉であろう。

このように見てくると、
イスラエルと日本のひとびとの意識があまりに似ていることに戦慄を覚える。

しかし、知らないことに言い訳はききません。……実際知ろうと思えば知ることができるのですから。(256頁)


このサラ・ロイの言葉は、
そのまま日本人に対する言葉としても受け止めるべきであろう。

無知を正当化できる理由はありません。しかしそれでも彼らは断固として知ろうとしない。それは、自分らの潔白さの主張と深く関わっています。逆に言えば、自らの罪を反省することには大きな痛みを伴うために反省できない、ということかもしれません。しかし私は、こうした状況のままでは、無知であるほうがはるかに高い代償を払わせられることになると思います。(256頁)


イスラエルによる不法行為を支持しているのが、アメリカだ。

しかしユダヤ系アメリカ人のなかにも、
イスラエルを厳しく批判しているひとびとがいることは、
忘れるべきではない。

……アメリカのユダヤ人たちからは、「私の名のもとでそういうことをするな」という批判が出てきています。「イスラエルはわれわれを代表していない。私の名前を使って占領が進められるのは認められない。もしそんなことをしたら、私は外に出て堂々と異論を叫ぶ」、と。(260頁)


これは、わたしたちに対する呼びかけでもあるだろう。

加害の歴史と向き合おうとしない日本政府。

おのれのつまらぬ自尊心のために被害者たちを侮辱しつづけるひとびと。

彼らに対してわたしたちはこう叫ぶことができるのか?

「日本人の名のもとでそういうことをするな」と。

いま問われているのは、加害国の国民の態度なのである。










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