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zoom RSS サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(青土社)@

<<   作成日時 : 2010/01/29 07:59   >>

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サラ・ロイは、ユダヤ系アメリカ人の女性である。

彼女の両親はポーランド出身であり、過酷なホロコーストを体験した。

サラ・ロイは、ユダヤ人でありながら、
イスラエルのパレスチナ占領を厳しく批判していることで知られている。

とはいえ、「ユダヤ人でありながら」という言い方は慎むべきかもしれない。

ユダヤ人のなかにもイスラエル政府を批判する者はいるのだから。

本書のはじめは、早尾貴紀による「解説」が載っている。

ここは率直に言って「ダレる」部分だ。

文章があまり上手ではないからだろうか。

そのあとは、サラ・ロイの論文があり、
後半はサラ・ロイと徐京植との対談が掲載されている。

これらはとても読み応えがあって、超おすすめ。

サラ・ロイによって語られる壮絶な事実の前に、
日本人も居心地のわるい「疼き」を感じざるを得ないはずである。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


いまパレスチナは、イスラエルによって不法占領されている。

つまり侵略されている。

地域によっては外出禁止が1年のうちの100日から150日にも達し、それだけ労働日数が減り、現金収入の減少につながった。磁気登録式の新しいIDカードはガザ住民に対してのみ導入さて、それによってイスラエル側への労働許可が厳密に管理され(犯罪歴や税金滞納がチェックされ)、インティファーダ以前に比べて許可が出た労働日数は半分から3分の1にまで減らされた。その結果、ガザ住民1人当たりのGNPは約40パーセントも減少し、平均の収入が貧困ラインを割り込んだ。その他、経済活動のひとつひとつに対する許認可制を導入し、税金や罰金を引き上げたことなども、家計には大きく響いた。(28頁)


ヨルダン川西岸地区には隔離壁(分離壁)も設置された。

国際司法裁判所は2004年7月に、隔離壁を違法とする判決を出し、イスラエルは西岸地区およびガザ地区のどの地域に対しても一切権利を有しないとしました。……また国際司法裁判所は、西岸地区にある入植地すべてについて国際法違反であるという判決を出しました。(89頁)


ところが、イスラエル政府も、そしてアメリカ政府も、これを黙殺している。

サラ・ロイはパレスチナの驚くべき現状を直接目撃するのだが、
その話を紹介する前に、彼女が語る母親の話に耳を傾けてみよう。

じっくり読んでいただきたい。

サラ・ロイの母親の名は「タウベ」という。

母の家族で戦争を生き延びたのは、母とその妹のフラニアだけでした。……母とフラニアおばさんは、……アウシュヴィッツ、そしてハルプシュタットの強制収容所へ移送されました。(178頁)


母親とおばは、奇跡的に生き延びることができた。

それはほんの偶然に恵まれたからだった。

それはアウシュヴィッツでのことでした。2人が選別の列に並んでいたときのことです。そこには大勢のユダヤ人が並んでいました。彼らの運命はナチの医師ヨーゼフ・メンゲレに握られていました。ひとり彼だけが生きる者と死ぬ者を決定するのです。おばがメンゲレの前に立ちました。メンゲレはおばに右側、つまり労働用の列を示しました。それは束の間の死刑執行延期を意味します。母の番になったとき、メンゲレが示したのは左側、つまりガス室で殺されるグループでした。でも、母は奇跡的に選別ラインにもう一度もぐりこむと、再度メンゲレの前に立ちました。彼は母を労働の列に加えたのでした。(178頁)


こうして母タウベとおばのフラニアの命は奇跡的に助かった。

だが戦後、2人は別々のところで生活することを選択する。

いったいなぜなのだろうか?

2人は本当に仲がよかったにもかかわらず、戦争が終結を迎えると、母はおばと別れるというつらい決断をしました。フラニアおばさんはパレスチナ/イスラエルに渡ってショシャナおばさんのところに行くことに決めました。ユダヤ人にとって安全な場所は唯一そこにしかないと考えたためです。母はいっしょに行くことを拒みました。私が生きるうえで母がこれまで幾度となく語ってくれたことですが、イスラエルでは暮らさないという母の決断は、戦時中の体験から母が学びとった強い信念に基づいていました。それは、人間が自分と同類の者たちのあいだでしか生きないならば、寛容と共感と正義は決して実践されることもなければ、広がりを見せることもないという信念です。母は言いました。「ユダヤ人しかいない世界でユダヤ人として生きることなど、私にはできませんでした。そんなことは不可能でしたし、そもそも望んでもいませんでした。私は、多元的な社会でユダヤ人として生きたかった。ユダヤ人も自分にとって大切だけれども、ほかの人たちも自分にとって大切である、そのような社会で生きたかったのです。」(179頁)


とてつもなく勇気のある女性である。

サラ・ロイの両親にとって「ユダヤ人である」ということは、
同胞だけに囲まれて「安全な暮らし」を送ることではなかったのである。

証言すること。

不正に怒ること。

沈黙しないこと。

それこそが「ユダヤ人である」ということだった。

それは、アミール・アルカライ〔アメリカの詩人・評論家〕も書いているように、過去の記憶が未来の記憶とならないようにするために可能なかぎりの手立てを尽くすことでした。(180頁)


「過去の記憶が未来の記憶とならないようにするために」。

ふたたび同じ惨禍を繰り返さないために。

わたしはここである言葉を想起する。

「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」(日本国憲法前文)

こうして奇跡的にホロコーストから生還した両親の間に、
やがてサラ・ロイが生まれた。

彼女は何度もイスラエルを訪ねたというが、
30歳になるころ、ヨルダン川西岸とガザをはじめて訪れたという。

そこで彼女は恐るべき光景を目撃した。

向こうから年輩のパレスチナ人がロバを引いてやってきました。老人の孫なのでしょう、3つか4つくらいの小さな男の子もいっしょでした。傍らに立っていたイスラエル兵たちが唐突に老人に歩み寄り、彼の行く手を制しました。兵士のひとりがロバに近づき、その口をこじあけて言いました。「おい、お前。ロバの歯が黄ばんでるぞ。なんで白くないんだ。ちゃんと歯を磨いてやってるのか!?」。老人は愚弄され、幼い少年は目に見えてうろたえていました。兵士はもう一度、質問を繰り返しました。今度は大声で老人を怒鳴りつけながら。他の兵士たちはそのようすを面白がって眺めていました。子どもは泣き始め、老人はじっと黙ったまま、そこに立ちすくんでいました。辱められながら。同じ場面が何度も繰り返し演じられるうちに、群集が集まり始めました。すると兵士は老人に、ロバの後ろに立つよう命じました。そして、ロバの尻にキスしろと言ったのです。最初、老人は拒みました。けれども、兵士が老人をどやしつけ、孫がヒステリックに泣き叫ぶと、老人は身をかがめ、言われたとおりにしたのでした。兵士たちは大笑いしながら去って行きました。私たちはおし黙り、そこに立ったままでした。恥に打たれ、互いを見合うこともできませんでした。ただ、少年がやみくもにすすりなく声だけが耳に響きました。老人は貶められ、打ち砕かれて、しばらく身動きしませんでした。(184頁)


読んでいて思わず気分がわるくなるところだが、
わたしがここでイメージを重ねてしまったものは、
米軍がアブグレイブ刑務所やグアンタナモ基地で繰り返した「拷問」だ。

サラ・ロイが思い出したのは、何だったのだろうか?

私がそのときただちに思い出したのは、両親が私に話してくれた逸話の数々です。1930年代、ユダヤ人がまだゲットーや収容所に入れられる前、ナチスによっていかに扱われていたか。歯ブラシで歩道を磨くよう強制されたこと、公衆の面前であごひげを剃り落とされたことなど。あの老人の身に起きたことは、その原理、意図、衝撃において、それらとまったく等しいものでした。人を辱め、その人間性を剥奪すること。1985年の夏のあいだずっと、同じような出来事を私は繰り返し目撃しました。パレスチナ人の青年たちがイスラエル兵たちによって無理やり四つん這いにさせられ、犬のように吠えさせられたり、通りで踊らされたりする姿を。(185頁)


現在は、イスラエル兵がパレスチナ人をあざ笑う。

イスラエル人の兵士たちに向かって一瞬Vサインをしたという理由で、妊娠中の女性のお腹を彼らが殴っている……。無許可のまま家を建てた――イスラエル当局が申請を何度も不許可にしていたためですが――という理由で、イスラエルの軍事用ブルドーザーが家とその中にあるものすべてを破壊したとき、年輩の男性が嗚咽を漏らし、女性が叫び声を上げる姿を目にして、私は喪失と追放がどういうものか、より具体的に理解することができました。(186頁)


あまりにおぞましいというほかない光景だが、
ここで日本人による中国人・朝鮮人差別を連想しないものは
語の厳密な意味で「愚か者」であろう。

イスラエルによる非人間的な暴力は、
ユダヤ人のサラ・ロイの父親にとっても耐えがたいものだった。

そこで彼はイスラエル大統領に手紙を書いたという。

長くなるが、引用したい。

2009年1月28日の『ル・モンド』紙に掲載されたイスラエル大統領宛の公開書簡のなかで、ジャン=モイズ・ブレベルクは、1943年にトレブリンカで殺害された自分の祖父の名前をヤド・ヴァシェム[エルサレムにある国立ホロコースト博物館]のホロコースト記念碑から削除することを願い出ました。……

 ご理解ください。私は子どものときからずっとこれまで絶滅収容所のサヴァイヴァーらに囲まれて生きてきました。彼らから、腕に彫られた数字を見せられましたし、拷問を受けた話も聞かされました。耐え難いほどの悲しみを経験しましたし、悪夢も彼らとともに見ました。
 私は学びました、こうした犯罪は二度と起きてはならないということを、民族や宗教などによって他人を侮蔑したり、基本的人権を他人から奪うといったことは、誰もけっしてしてはならないということを、そして同様に、誰もがきちんとした環境で生活を営み、家族のためによりよいものを望む権利を有しているということを。
 大統領閣下、私は気がつきました。国際社会によって数えきれないほど決議があげられたにもかかわらず、1948年以降パレスチナ人が明白な不正義を被ってきたにもかかわらず、オスロ合意に希望があったにもかかわらず、そしてパレスチナ自治政府側がイスラエルのユダヤ人に平和と安全のうちに生存する権利を繰り返し承認してきたにもかかわらず、歴代のイスラエル政府の唯一の回答は、野蛮な暴力の行使、流血、投獄、恒常的な占領支配、入植、土地の没収でした。
 大統領閣下、お教えください。自国民に向けられたロケット攻撃や、多くの無辜の人びとに死をもたらす自爆攻撃から、ある国家が自衛をするということは正当なことなのでしょうか。私ならこう答えます。私の人間的な共感は、犠牲者の国籍を問いません、と。
 それに対してあなたが導いておられるのは、ユダヤ人全体を代表しようとするのみならず、国家社会主義[ナチス政権]の犠牲者の記憶を保持せよと主張している国家です。これは、私に衝撃を与えただけでなく、私には耐え難いことです。一方であなたは、私の最愛の人物の名前を、イスラエルの中心部にあるヤド・ヴァシェムに書き込んでおきつつ、イスラエル国家は、収容所に入れられていた私の家族の記憶を、シオニズムの鉄条網内に人質として囲い込んでいるのです。権威を標携しているけれども、日々不正義を繰り返している国家の人質とするために。
 ですから、ユダヤ人の被った恐怖の証言者である私の祖父の名前を記念碑から削除することを大統領閣下にお願いいたします。そうすることで、いまパレスチナ人たちに降りかかっている恐怖を正当化するために、祖父の名前がもう利用されないようにしたいのです。
(204−206頁)


ユダヤ人の国家を名乗る政府が残虐な行為を行なっているとき、
彼はそれを黙って見過ごすこともできなかったのである。

サラ・ロイはここで再び親から聞かされた記憶を紹介する。

私の母とおばが、ロシア軍によって強制収容所からちょうど解放されたところでした。ロシア軍兵士らは、収容所を運営していたすべてのナチス関係者や守衛を逮捕し、ユダヤ人の生き残りに突き出して、「この迫害者のドイツ人たちを好きにしていいぞ」と言いました。多くの生き残りが、衰弱し、かろうじて生存していた状態であったにもかかわらず、すぐさまドイツ人らに襲いかかり蹂躙しました。母とおばは、目の前で展開されている残酷な場面からわずか数メートルしか離れていないところで、抱き合って泣いていました。おばより母のほうが衰弱の度合いは軽く、母がおばを抱きかかえ、おばの衣服も持っていました。おばのほうは立っているのもやっとで、母につかまっていましたが、まるで母をどこかに行かせないかのようでした。そのとき、おばは母に言いました、「私たちにはこんなことはできない。父も母も間違っているって言うでしょう。すべてを耐え抜いたいまだからこそ、復讐ではなく正義を追求しなければ。それしかないでしょう」、と。母はまだ泣いていましたが、おばに口づけをして、そして2人連れ立って歩いてその場を去りました。(209頁)


「復讐ではなく正義を」。

ホロコーストを生き延びたサバイバーたちの言葉だけに、
居住いを正してその重みを受け止めなければならないだろう。











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