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zoom RSS 丸山圭三郎『言葉とは何か』(ちくま学芸文庫)

<<   作成日時 : 2010/01/23 09:33   >>

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言葉とは何か?

この問いは、誰もが1度は立てたことのあるものだと思う。

本書は、ソシュールの言語学をわかりやすく解説したものでもある。

ふつう世のなかでは、言葉とは何であると考えられているだろうか?

おそらく「言葉とは意思伝達のための道具である」と考えられているだろう。

若い学生諸君に「言葉とは何か?」というテーマを与えると、
99%のひとが「言葉は意思伝達のための道具だ」とお答えになる。

さらには「言葉とは物や概念の呼び名である」と考えられているのではないか?

これは世のなかに広まっている最大の誤解である、と著者は言う。

もしその考えが正しければ、
日本語と英語のちがいは物や概念の呼び名のちがいだ、ということになる。

しかしそれぞれの言語の内容は、実際は一致していない。

ここで著者はとてもわかりやすい事例をたくさん挙げているので、
興味のある方は直接当たってみていただきたい。

ここでは「虹」の例を取り上げたい。

日本に住むわたしたちは、「虹は7色」だと疑わない。

赤・橙・黄・緑・青・藍・紫(せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し)

松田聖子の歌にもそんな歌詞があった。

ところが、ほかの言語では「虹」を「7つ」に区切っていないものがある。

……英語ではこの同じスペクトルを……6色に区切りますし、ショナ語(ローデシアの一言語)では……3色、バッサ語(リベリアの一言語)では……2色にしか区切らない……。(013頁)


たしか英語では「藍」がないと記憶しているが、
「虹」を「2色」に区切るところもあるというのには驚いた。

言葉は、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有の概念化・構造化であって、外国語を学ぶということは、すでに知っている事物や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得することにほかなりません。
 言語は、それ自身文化であり、思考形式である……。(017頁)


日本でも、文明開化の時代に、
英語を翻訳するにあたって多くの「新日本語」を作り出したことはよく知られている。

「社会」や「個人」などがその典型である。

また当時の日本人は、英語の音を次のように覚えていたという。

明治時代の人は、苺のことを「七郎兵衛」(←strawberry)、鉛筆のことを「ペンセロ」(←pencil)、競走スタートラインで、On your mark! Get set! といってピストルでドンと合図するのを聞いて「大山元帥どん」と覚えたそうです。(022頁)


「What time is it now?」を「掘ったイモ、いじるな」と言うのもよく知られている。

実際「掘ったイモ、いじるな」で通じるらしい。

このあと本書では、
あの「ラング」と「ランガージュ」のちがいについて解説している。

さらに「ラング」と「パロール」のちがい、
「シニフィアン」と「シニフィエ」のちがいなどもていねいに説明している。

 たとえば、失語症患者が言葉を失うと、抽象能力も失ってしまうのがふつうです。患者は、「びん」という語を失ったために、大小さまざまな形をした何本かのびんに共通したものがわからなくなります。あるいはその逆に、共通したものがわからなくなったことが原因で、「びん」という語を失ったのかもしれません。(096−097頁)


そうすると、
失語症患者が見ている世界とわたしたちが見ている世界は、
同じではない、ということになる。

……「樹木一般しか知らず、何でも木と呼ぶ都会人は、柏、クマシデ、ブナ、ハンノキ、樺、栗、トネリコを区別して知っている農夫と同じゲシュタルトを通じて世界を見てはいない」……。(098頁)


レントゲン写真を見ても素人のわたしたちには何も見えないが、
専門的知識をもつ医者はそこに「影」を見出す。

野球の世界でもよく語り継がれている話がある。

偉大な打者は、剛速球が「ボールが止まって見えた」という。

「ボールの縫い目が見えた」という名選手もいた。

「言葉は認識のあとにくるのではなく、言葉は認識自体である」(メルロ=ポンティ)

ここで、ソシュールの基本的用語を見ておこう。

……言語記号(シーニュ)は、他の記号と違って、表現と意味を兼ね備えた二重の存在であることがはっきりしたため、ソシュールは表現の面をシニフィアン……「意味するもの」、内容の面をシニフィエ……「意味されるもの」……と名づけました。(107頁)


シニフィアンとシニフィエとはそれぞれどのようなものなのだろうか?

具体例を使って著者が説明してくれている。

……自転車屋を表すために自転車のシルエットを看板に書くことや、レストランを表すためにフォークとナイフの絵を描く場合は、シニフィエとシニフィアンの間にかなり自然な類推関係がなりたちます。
 ところが、同じ人工指標でも、どくろの絵が表すものや、黒と白の色が表象するものの場合には、……ある程度自然で、ある程度恣意的(=社会的)であると認めねばなりません。何故ならば、どくろの絵は、ヨーロッパでは「危険」とか「死」を表象し、メキシコでは「勇気」のしるしだからです。同様に、ヨーロッパにおいては「喪」の観念を黒色で表すのに対し、中国では白色で表しています。地域や社会によってずれるところは恣意的ですが、どくろが「安全」とか「生」とか「臆病さ」を表さず、また「喪」の観念を表すのに「ピンク色」などを用いていない点は、ある程度自然的類推が働いていると考えられるのです。(122頁)


じつにおもしろい。

信号の色が示す意味も、恣意的なものである。

 人工指標のうち、最も恣意的なものは、交通信号として用いられている赤色、黄色、緑色などと、それが表しているメッセージとの関係でしょう。中国文化大革命たけなわの頃、紅衛兵の一部の人びとが、「赤」が「停止」を表すのはけしからん、と言って、赤信号を「進め」の表象にしようとしたという実話があります……。(123頁)


言葉の問題を考えていくと、他の分野においても視界が開けてくる。

たとえば「価値」である。

言葉に限らず、すべて社会契約にもとづく価値は、その価値を支える物質的要素とは無関係です。使い古した1万円札と手の切れるような新しい1万円札が同じ価値をもち、将棋の飛車という駒が、木で作られていようと象牙で作られていようと、極端な場合には、牛乳びんの紙ぶたの上に“飛車”と書きこんだ代用品を用いようと、将棋のゲームにはいささかも支障をきたしません。同様に、私たち1人ひとりが話をするときの言葉を条件づけるラングは、いわば抽象的な関係の網であって、この関係は言語の外にある自然現象に依存するものではなく、あくまでもその言語体系の内部で定められた対立関係に過ぎないのです。(130−131頁)


だから、言語は関係であり、価値も関係である。

最後に、外示的意味(デノテーション)と共示的意味(コノテーション)の区別について。

ここから先は本書を読んでいないひとや言語論に不案内のひとには、
とても分かりにくい部分だと思われるが、
さっさと話を進めていくことをお許し願いたい。

では、デノテーションとコノテーションはどうちがうのか?

前者がいわば語のもつ最大公約数的、抽象的意味であり、ラングに属する意味である……、後者は語のもつ個人的、状況的意味である……。(135−136頁)


なるほど。

ただし、コノテーションには、次の3つがあるという。

 第一のものは、一言語内の個々の語に宿る個人的・情感的イメージで、いわばシニフィエを核としてそこに付着する辺暈のようなものです。……
 たとえば、幼児期から腺病質で長いこと病院暮らしをした人と、一度も病院通いをしたことのない人とでは「病院」という語のもつ二次的・情感的意味はまるで違うことでしょう。両者ともに、「病院」とは「病人を収容し、診察・治療する施設」(『広辞苑』)であるというデノテーションでは一致し得ても、自分の生体験と言語状況の結びつきから生ずる特殊性を反映するコノテーションにおいて一致することはまず稀と思われます。この第一のコノテーションは、まだ沈殿していない意味であるため、ラング化されていないパロール次元にあるものと言えましょう。


感動的なまでに分かりやすい説明だ。

 第二のコノテーションは、一定時期のラングに見出される共同主観的付随概念です。
 ……ドイツのナチス全盛時代によく口にされた……「ユダヤ人はユダヤ人さ」……。この文を口にしていたドイツ人たちは、最初の「ユダヤ人」を「ユダヤ民族に所属する人びと」(=デノテーション)という意味で使い、二番目の「ユダヤ人」を「けちで、ずるく、不正直な人びと」(=コノテーション)という意味で使っていたのです。日本語に例を探せば、「男勝りとはいっても女は女だよ」とか、「いくら利口でもやはり犬は犬さ」とかの、まことに偏見に満ちた表現があげられるでしょう。2つの例で1回目に使われている「女」、「犬」はデノテーション、2回目に使われている「女」、「犬」は、ある特定の人びとの価値観が付随したコノテーションなのです。(以上、136−137頁)


では、第三のものは何か?

これは本書に直接当たっていただきたい。

おしまいに「改訂版へのあとがき(中尾浩)」から引用を。

21世紀が始まったばかりの現時点で、5000から7000もの言語が存在していると言われているが、すでに消滅してしまった言語も多数ある。国連環境計画(UNEP)によると、1500以上の言語が1000人以下の話者しかもたず、そのうち553の言語では話し手が100人以下という状況であり、すでに234の言語が失われたとされている。そして2500もの言語が絶滅の危機にさらされているという(2001年2月9日の日本経済新聞と同年2月12日の朝日新聞)。(172頁)


言うまでもないはずだが、少数言語の絶滅は日本も無関係ではない。








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