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zoom RSS 井上達夫『普遍の再生』(岩波書店)B

<<   作成日時 : 2010/01/22 10:04   >>

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世界政府に批判的であるとしても、国民国家への批判は控えられるべきではない。

とりわけ日本では、排他的な「妄想」が繰り返しあらわれているからだ。

著者はそう考える。

次の説明は、基本中の基本なので、しっかり確認しておこう。

国民国家形成の過程で、言語と文化を異にする様々な集団が強制的に同化統合され、共通の「国語」と「国史」と「国民性」をもつ「単一民族」の神話が、すなわち「新しいくせに古いふりをする」共同体の物語が産出され、流通させられる。(193頁)


さて、国民国家はその内部の「同質性」をつねに強めようとする。

日本では「同調圧力」が個人を窒息させるほどに強いことは、よく知られている。

そこで、多文化主義の重要性が叫ばれることになる。

国民国家内部の多様性・多元性を尊重しよう、という主張である。

このことを考えるうえで興味深いアメリカの裁判を著者は紹介する。

1972年にウィスコンシン州対ヨーダー事件において米国連邦最高裁判所が出した判決がある。これはアーミッシュ共同体の伝統文化の保護と子供の自律性の陶冶に関わる義務教育との葛藤が問題になった事例である。(206頁)


では、このケースはどのような内容だったのだろうか?

ウィスコンシン州では普通のグレイドスクールが8年、そのあとハイスクールが4年あり、州法により、ハイスクールの2年間を含めた16歳までが義務教育になっている。ウィスコンシン州グリーン郡に住むオールド・オーダー・アーミッシュの2人の子の親たちとコンサーヴァティヴ・アーミッシュ・メノナイト・チャーチの1人の子の親がそれぞれ、自分たちの子に15歳と14歳でハイスクールへの進学を止めさせ、州の義務教育法違反で罰金刑を下されたが、親たちは、その州法の彼らへの執行は宗教的自由を侵害し違憲無効であるとして争い、連邦最高裁はアーミッシュ側の主張を認めたのである。
 このアーミッシュの人びとは世俗世界の影響を避け、信仰と農業を中心にした自足的な共同生活を送っている。自然と調和して生きることが彼らの信念であり、テレビもなければラジオもない。電話や自家用車もない。家も全部自分たちの手で建設する。質素ながら堅実な生活基盤と強い共同体的結束をもち、政府の社会保障への依存を拒否するため、社会保障税の支払いも免除されている。(207頁)


考えせられる事例である。

結局、最高裁は次のように判断したという。

最高裁は、アーミッシュの信仰に対してハイスクール教育が重大な阻害効果をもつとし、またアーミッシュの実践教育が子供の社会性と自活能力を培うのに十分であることは法と秩序を遵守し生産的活動に従事してきたアーミッシュ共同体の歴史が証明しているとして、アーミッシュの親たちの主張を認めた。(208頁)


ここには、リベラル・デモクラシーが直面している難問がある。

個人の自律と文化的多様性の関係をどう考えればよいのだろうか?

そういう難題である。

なぜここで個人の自律が対立してくるのかというと、
自律的な個人にとって狭い共同体の内部世界だけしか知らないことは、
決して望ましいとは言えないからである。

多文化主義は、この難題にどう答えるのだろうか?

次は、フェミニズムの問題である。

世界には、まだまだ性差別が根強い。

これを変革するためには法制度の変革が大事である。

第二波フェミニズムが提起した次の命題はあまりに有名だろう。

「個人的なものは政治的である(The personal is political)」。

ちなみに本書の注におもしろいことが書かれていた。

この命題は現代のフェミニストたちによって広く使用されており、著作権を主張しうる「コピーライター」が誰かは定かではないが、ジェラルド・コーエンによると、フェミニストたちの間で流通する以前に、キリスト教解放神学者たちによって使用されていたらしい。(292頁)


意外なことにキリスト教解放神学がこのスローガンの原典だったのか。

これは知らなかった。

さて、性差別を改善するためにさまざまな制度改革が求められる。

だが、どんどん法制度を改革していくと、
ある危険性がもちあがる、と著者は述べる。

……法的統制極大化論は性的平等を社会に貫徹する上で法的統制とそれを執行する国家(自治体を含む)の政治権力を万能視し、男女を問わず、あるいは異性愛者・同性愛者さえ問わず、あらゆる個人の表現の自由やプライヴァシーを窒息させる「道徳警察国家」に突き進む危険を孕む。他方、脱規範化論はその思想的急進性の外観に反して、女性の社会的経済的な苦境や障害を除去するのに必要な法制度改革問題から目をそむけて象徴的・記号的な攪乱行為で自慰的満足を得ることにより、社会的差別の現状維持に加担してしまう危険を孕む。(223−224頁)


ここで言及されている「脱規範化論」は、分かりにくいと思う。

ただこれについて説明するとなると、
ジュディス・バトラーのことを説明しなければいけなくなり、
彼女の思想を解説しなければいけなくなる。

というわけで、それは大変なので、
分かりにくかった方はこの部分を読み飛ばしていただきたい。

次にリベラリズムとフェミニズムに絡む厄介な問題が取り上げられている。

これは比較的分かりやすいと思う。

リベラリズムは、「個人の自己決定権」を重視する。

他方、フェミニズムは、「性差別の克服」を重視する。

例えば、代理母問題については、代理母サーヴィスを利用する側が享受する拡充された「生殖過程の自己決定権」と代理母となる女性の身体および人格の尊厳とが衝突しうるが、生殖の自由の拡充の利益は男性だけでなく、キャリア追求の妨げとなる出産の負担・リスクを回避しながら自分のパートナーの、あるいは(体外受精技術によって可能にされるなら)自分自身の遺伝子を分有する子に恵まれたいと欲する女性によっても享受され、よりよき自己実現のため他者の生殖機能を買える「もてる者」と生活のため自己の生殖機能を売らざるを得ない「もたざる者」との階級対立が女性の間においても浮上する。かかるジェンダー貫通的な階級対立が孕む搾取を規制しつつ、代理母契約を「産む性」の負荷からの女性の解放を女性自身が支援するための実践として位置づけ受容するか、「産む性」としての女性の身体の商品化につながるものとして排撃するかは、フェミニズム内部でも見解が対立しうるだろう。(229頁)


日本では代理母は認められていないのだが、
先走って実践しているところが国内にあって、緊急の解決課題のひとつだ。

代理母は、女性の自由を拡大するかもしれない。

子どもがほしくても持てない女性にとっては、自由を実現するものだからである。

だが、この技術は「もてる者/もたざる者」の対立を拡大するかもしれない。

子宮を貸すのは貧しい女性たちだろうからである。

ここで想起すべきは、あの「ベイビーM事件」である。

例えば、代理母となった女性が出産後、子の引渡しを拒否した「ベイビーM事件」では、依頼者側は妻も夫もともに医師であるのに対し、「子宮を貸した」女性は夫が失業し、年収8000ドルのウェイトレスの仕事で複数の自分の子を養う状況にあった。(297頁)


ところで、著者の立場をここで誤解してはいけない。

リベラリズムの立場から代理母を無条件に肯定しているわけではないからだ。

むしろ、代理母契約を私的自由として完全に見なしてしまうことに反対している。

私的自由の問題も、公共的な議論の俎上にのぼる。

公正な正義の追求から私的自由の検討を排除しない。

ここに「普遍の再生」というモチーフが生かされている。

ただし、これがどこまで説得力のあるものなのかは、別の問題である。

最後に「普遍」の意義について見ておくこととしよう。

近年、「普遍」はさまざまな方面から批判を受けている。

 法哲学・政治哲学の領域でも、普遍的原理としての正義や人権について語ることは、共同体論からは個々の政治社会の特殊的なるがゆえに内容豊かな共通前の伝統を解体するものとして、多文化主義からは多数派文化への少数派文化の同化の強制として、フェミニズムからは家父長制的「男権中心主義」の隠蔽合理化として、共和主義や参加民主主義からは政治的価値を選択する人民の主権性と自己統治への不当な干渉として、疑われ、批判されている。(240頁)


歴史の分野でも「普遍」への批判は増すばかりだ。

「普遍的な歴史」など描けるわけがない、と開きなおるひとびとがいる。

もちろんそれはそうなのだが、
だからといって歴史を自分の都合のよいように勝手に
書き換える自由があるわけでもない。

奴隷制がなかったとする米国史再解釈、ホロコーストがなかったとするドイツ現代史再解釈、南京虐殺がなかったとする日本現代史再解釈などは事実問題として却下されよう。(259頁)


逆に言えば、こうなる。

「南京大虐殺はなかった」といって史実を否定する日本人は、
「奴隷制はなかった」と述べる極悪人や、
「ホロコーストはなかった」と主張する極悪人とまったく同類なのだ。

歴史には、過去の事実による制約がある。

また、日本は日本人だけのものだという考えも、「普遍性」の敵である。

ヒロヒト天皇死去のときの自粛騒動のなかで、こんなことがあったという。

自粛騒動のさなか、庶民の代表を任じるある著名な落語家がテレビで「天皇の悪口を言う人は日本から出て行ってください!」と叫んでいたが、彼の怒りの表出はこの心情を象徴している。「天皇の悪口」は「日本人への侮辱」に他ならないがゆえに、反論ではなく日本からの追放に値するのである。(270頁)


自分と異なる価値観のひとは日本に住む資格がない、と述べる落語家。

これほどの傲慢さは、世界を探してもなかなか見られないものではないか?

そのことを確認したうえで、
著者の考える「普遍」についてまとめられていくのだが、
長くなるのでここでは省略する。

ぜひ本書を読んでいただきたい。









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