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zoom RSS 井上達夫『普遍の再生』(岩波書店)A

<<   作成日時 : 2010/01/22 10:01   >>

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普遍を破壊するものはほかにもある。

普遍性の価値を蹂躙するのは、
アメリカや日本を覆っている下品な欺瞞だけではない。

普遍を拒絶する主張に、「アジア的価値論」と著者が呼ぶものがある。

これはいったいどのような主張なのだろうか?

……「アジア的価値」論……によれば、アジア諸国における市民的・政治的諸権利や宗教的・文化的・民族的少数者の人権の侵害に対する欧米の批判は、アジアの伝統文化と相容れない欧米固有のリベラル・デモクラシーの価値を押し付ける文化帝国主義である。(73頁)


ご理解いただけただろうか?

マハティールやリー・クアンユーを想起すればよい。

もちろん東南アジアの政治指導者だけでなく、
日本人のなかにもこうした主張をもつ者が少なくない。

「アジアは欧米とはちがうのだ」

「日本には欧米の価値観はなじまない」

こうした主張はわりと広く受け入れられている。

石原慎太郎にもこの傾向が見られる。

これをアジアの独自性を称揚する「アジア的価値論」という。

なぜこのような凡庸な理念に惹かれるひとがいるのだろうか?

 アジア的価値論の魅力はその反欧米中心主義的な構えに由来する。(77頁)


なるほど、ポーズとして反欧米中心主義をとれるからか。

 アジア的価値論は、欧米からの人権侵害批判に対するアジアの弁明という性格を強くもつ。(77頁)


なるほど、人権侵害を正当化したいからか。

分かりやすい反応である。

しかし、これほどご都合主義的な態度もない。

それは欧米自身が紆余曲折を経つつ発展させてきた諸原理のうちのあるものを絶対化して、それと併行的に発展してきた他の競合的・補完的原理に均衡のとれた配慮を向けず、さらに都合の良い帰結だけを導出できるよう諸原理の意味を歪曲する。(78頁)


こうした批判は、わたしがこれまで何度か紹介してきた、
ダグラス・ラミスの右派・保守派批判にも通じるものがある。

右派は、欧米の価値観を押し付けられることに強く反発するが、
そのときに彼らがよりどころとするのが「主権」という概念だ。

「日本の主権が脅かされている!」と彼らは言う。

だが、この主権という概念は、ほかならぬ西洋起源のものである。

 主権概念はボダン、マキャヴェリ以来の西洋政治思想史の伝統の中で哲学的基礎を形成され、近代ヨーロッパの国内公法・国際法の学説・実践によって技術的に洗練された。……アジア的価値論は欧米の人権概念に強い留保を付すが、欧米の主権概念は無制約に受容する。煩わしい人権尊重要求をはねつける万能の護符として主権を神聖化してさえいる。(78頁)


自分たちの都合のよいところはこっそり取り入れ、
都合のわるいところは「欧米中心主義」だといって反発してみせるわけだ。

彼らにとって都合のわるいところというのは、
決まって「人権」に深く関わる問題ばかりである。

ご都合主義の幼稚な言いわけ。

 アジア的価値論は欧米的規範言語を濫用するにとどまらず、アジアの文化的独自性をも積極的に主張する。この面でそれは「東洋」対「西洋」という古い二元論に立脚している。(89頁)


彼らが立脚しているその基盤そのものが、あまりに凡庸である。

というより、この二元論こそ西洋が生み出した図式である。

「欧米的価値」を拒みながら「欧米」の図式に立脚する。

若いひとたちはとくに覚えておくとよい。

「西洋/東洋」の二分法はもうとっくに有効性を失っているのである。

こんな発想をとると、周囲に笑われることになる。

では、この「アジア的価値論」の倒錯は、どうして生じるのだろうか?

このことを考えるために、差別について検討するのがよい。

一般に差別実践は自らを正当化するために、被差別集団に「本質的差異」を帰する。……たとえば白人が犯罪常習者になるのは家庭環境・慢性的失業などさまざまな事情によるが、黒人が犯罪常習者になるのは彼が「黒人だから」である。(94頁)


こうした差別が構造化されると、
レッテル貼りされた「本質的差異」が被差別者の心も蝕んでいく。

負わされたアイデンティティの「負荷性」はその解体の困難さを意味するだけでない。このステロタイプを破ろうとする努力自体が、被差別集団の人々にとって屈辱的な意味をもつ。「黒人であるにもかかわらず優秀な医師」であることを白人社会に対して証明した黒人医師は、自己の成功を素直には喜べないだろう。彼はこのとき、「黒人であること」が医師として白人と対等の尊敬を受ける前に晴らさるべき「嫌疑事由」であること、しかも嫌疑を晴らす挙証責任が「被疑者」たる自分にあることを容認させられているからである。自己の成功を白人社会から称賛されればされるほど、「黒人であること」が己の成功を特筆に値せしめる「存在論的障害」であることを思い知らされるからである。さらに、「黒人なのによくやった」という響きを秘めた称賛を受けることによって、自分個人への偏見は克服できたとしても、例外が原則を確認させるように、黒人一般への偏見の確証に加担させられ、結果として「仲間を裏切る」立場に追い込まれるからである。(94−95頁)


このことは、あらゆる差別に当てはまる。

「女性なのによくやった」

「障害者なのによくがんばった」

こうして差別構造そのものは温存される。

差別克服運動が「X〔黒人、女性、同性愛者、黄色人種等々〕であるにもかかわらず対等に尊重されること」への要求を超え、「Xとして尊敬されること」への要求に転化する理由がここにある。(95頁)


これと同型の心理が「アジア的価値論」にも見られる、と著者は言う。

 「アジア的価値」の自己主張がオリエンタリズムという歪んだ欧米中心主義的アジア観の再生産に転化するという倒錯も、以上のような差別一般に潜む背理と通底している。……かかる言説が広く流通するのは、「アジア人であるにもかかわらず、ではなく、アジア人として」尊重されたいという欲求に訴えるからである。(96頁)


この部分は、本当はもっと細かな文脈を追うべきところなのだが、
そこまで精確には再現できないので、どうかご勘弁を。

次に著者は、日本の一部の知識人が影響されてしまった、
あのハンティントンの「文明の衝突論」が取り上げられているのだが、
これは省略したい。

次に、グローバリゼーションについての論文を見てみよう。

1980年代までは、日本で叫ばれていたのは「国際化」だった。

1990年代に入ると、「国際化」は「グローバル化」に変化した。

この「国際化」から「グローバル化」への語法変化の背景には何があったのだろうか?

 第一に、主体が変わった。より正確に言えば、主体が多様化し複雑化している。「国際化」はベンサムの造語癖の最も成功した産物と言える「国際(international)」に由来しており、緊密化される関係の項として、関係形成の主体として想定されているのは、文字通り「国民国家(nation state)」である。しかし、人々が「グローバル化」を語るとき、国民国家秩序に代わる別の世界秩序の成長の実感や予感が表出されている。そこで新たな秩序形成ないし秩序攪乱の主体として注目されているのは次の2種のものである。一方に、「超国家体」と呼ぶべきものがある。すなわち国連、世銀、IMF、WTO、EUなどに代表されるような世界規模の政治経済機関や“transnational”な地域的統合体である。他方には、「脱国家体」とでも呼ぶべきものがある。たとえば国民国家からはみ出て自立し、国民国家を横断して連携する“cross-national”なNGO・NPOなどの市民組織、国境を越えて自由に資本移動する「多国籍企業(multinational corporations)」、国家に対抗する暴力装置をもって犯罪や破壊活動の網の目を世界中に張り巡らす麻薬シンジケートやテロ組織などである。(125−126頁)


アメリカは、テロの撲滅を口実にして、他国の主権を無視する。

アメリカによる武力攻撃はやすやすと国境を越えていく。

他方、8億もの人々が飢え、ある1年(1998年)だけで約1800万人が餓死や貧困による病死に追いやられている現代世界の惨状を改善するための先進諸国の積極的援助義務を含意するような「グローバルな正義」については、国連食糧農業機関(FAO)によって組織されたローマ世界食糧サミットの提言、すなわち栄養不良者を2015年までに半減させるために先進諸国が政府開発援助(ODA)を毎年60億ドル(OECD加盟諸国の1998年のGNP総和のわずか0.028パーセント)増加する義務を負うという、ごくつましい要請でさえ米国によって拒絶された。(127−128頁)


人道問題となるとアメリカの態度は一変するわけだ。

主権国家や多国籍企業による人権侵害、テロ組織の拡散。

こうしたグローバルな事態に対応するために、
「帝国」をも規制しうる世界政府の必要性が主張されることがある。

国家・企業・テロ集団・犯罪組織を規制する
グローバルな統制力が求められるからだ。

だが、著者はこれに断固として反対する。

……世界政府は専制の極限形態であると言わなければならない。
 第一に、世界政府においては、人間の自由の最後の保障というべき退出可能性がない。……
 第二に、世界政府においては、その権力の民主的統性可能性も、すなわち退出しえない人々が告発によってその統治を下から変革する可能性も、既存の分立する諸国家の場合以上に弱められる。……
第三に、世界連邦政府は単独の覇権国を統制できたとしても、多くの弱小諸国に対する一群の強国・大国の集団的覇権を現在よりもさらに強化してしまう。(134−135頁)


著者は、国境をとらえ直そうとする。

国境は「個人の精神と活動の限界」ではない。

国境は、「世界に渦巻く恣意と暴力の奔流を制御する堰」である。

境界があるから、ひとは「越境」することができる。

境界のない世界では、越境の自由がなくなってしまう。

このように著者は主張する。










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