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zoom RSS 井上達夫『普遍の再生』(岩波書店)@

<<   作成日時 : 2010/01/21 10:51   >>

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著名な法哲学者による本である。

井上達夫の名を「憲法9条削除論」で知っているひともいるかもしれないが、
彼のほかの著作は、専門性が強くて、初心者にはそこそこむずかしい。

けれどもこの本は、一部難解なところもあるかもしれないが、
大半は初心者にも分かりやすいだけでなく刺激的な内容になっている。

とりわけ「天皇の戦争責任」に関する論文は、スリリングである。

わたしは彼の議論にすべて賛同しているわけではないが、
この本は多くのひとにおすすめできるものである。

以下、内容を紹介していきたい。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


本書のタイトルは『普遍の再生』である。

ということは、
いま世界中で「普遍」が破壊されているという現状認識がそこにはある。

 普遍が壊死しつつある。「普遍」を僭称する権力が垂れ流す鉱毒によって。(v頁)


こう勢いよく書き始められるのだが、
では「『普遍』を僭称する権力」とはどこの国のことなのだろうか?

言うまでもなく「アメリカ」である。

アメリカはイラクを侵略し、フセイン体制を打倒した。

この破廉恥な侵略行為を正当化するのにブッシュ政権が持ち出したのは、
「イラクは大量破壊兵器を隠し持っている」という疑惑と、
その疑惑がデマであることが明らかになったあとは、
「中東の民主化」という口実だった。

しかし、これほど白々しい口実はない。

「大量破壊兵器開発保有の抑止」のレトリックの欺瞞性を示すには、アフガニスタン侵略で米国に協力した軍事専制国家パキスタンのインドとの核開発競争の放置などにふれるまでもなく、次の問いを問えば足りる。「最も危険な大量破壊兵器を最も大量に開発保有し、しかも、広島・長崎への原爆投下や、ヴェトナム戦争での枯葉剤散布等による人間生命と生態系の大量破壊など、かかる兵器を現実に使用した数々の実績を誇るのはどの国家か。非戦闘員を無差別に巻き込み、戦後も長く悲惨な後遺症を多くの人々に残す形で、国際法などおかまいなしに、外国の領土を新型大量破壊兵器の実験場にし、そこに暮らす人間を実験動物として使用してきたのはどの国家か」。
「人権と民主主義のための介入」のレトリックの欺瞞性を示すには、民主化を人民の内発的改革実践にゆだねず、武力によって外から押し付けるのは民主的自己統治の理念に反する自壊的企てであるという、まっとうな原理的批判に立ち入らなくても、例えば、次の反問をすれば足りる。「民主的選挙によって成立した社会主義政権であるチリのアジェンデ人民政府をピノチェトがクーデタで倒すのを助け、その後の彼の軍事独裁体制を支持し、その恐怖政治的弾圧を放置したのはどの国家か。国民から宗教的自由も政治的自由も剥奪し、あからさまな性差別を温存させている極度に不寛容なイスラーム原理主義独裁体制たるサウジアラビア、人権と民主主義の原理をフセイン体制下のイラクに勝るとも劣らぬほどに蹂躙しているこのサウード家の専制的神権政体を、中東における自己の権益の牙城として支援し保護しているのはどの国家か」。(ix頁)


井上達夫の文章は濃密なので、ゆっくり読んでいただきたい。

決して難解な内容ではないから。

ピノチェトは、残虐このうえない独裁者であり、
あのフリードマンに代表される新自由主義政策を導入した人物である。

アメリカのイラク侵略は誰がどう見ても国際法違反にほかならなかった。

が、日本をはじめいくつかの国々はこの侵略行為を支援した。

米国の恣意に能動的に便乗あるいは受動的に追従してきた諸勢力の中にも、今般のイラク侵略に関しては、さすがに抵抗の姿勢が見られたが、フセイン体制瓦解後は、イラク侵略に反対した大国クラブの盟友たちや国連・安保理も、この侵略の不正を糾弾することを棚上げし、イラクの戦後復旧と秩序回復への関与と協力を申し出て、米国を牽制するスタンスをとりつつもその蛮行の尻拭いに奔走している。(x頁)


いま世界中で「普遍」の価値が危機にさらされている。

「普遍の再生」が、だから、わたしたちの重い課題である。

次に紹介する論文を読むには、文脈を解説しておく必要があるだろう。

というのも、若いひとたちは知らない可能性があるからだ。

次の文章が書かれたのは、「平成元年」である。

昭和天皇ヒロヒトが死去した際、日本国中は異常なムードに包まれた。

民放各局はCMをすべて中止し、
すべてのテレビ局はすべてのプログラムを変更し、
朝から晩まですべての番組が「ヒロヒト追悼」に捧げられた。

全国各地で「お祭り」は中止。

プロ野球の優勝チームは恒例の「ビールかけ」を中止。

天皇の戦争責任に触れた本島長崎市長は右翼のテロで暗殺されかけた。

こうした状況のなかでこの文章が書かれた。

 私は日本人論とか日本文化論とかいうのが嫌いである。理由は色々あるが、比較的体裁のいい「学問的」理由を挙げれば、一定の歴史的条件の下で成立したに過ぎない現象を、文化とか国民性とかいう名前の、非歴史的本質の顕現とみなしてしまうやり方に、無責任な恣意と、問題を隠蔽する底意を感じるからである。戦後の闘争的な労働運動の成果である、終身雇用・年功序列・労使協調という日本的雇用「慣行」(せいぜい数十年の歴史しかもたず、しかも既に崩れつつある「慣行」)を、「日本的な和の精神」など様々な表現で彩られる、日本人のア・プリオリな属性としての集団的強調の美徳で説明するのは、この「やり方」の滑稽な一例である。(4頁)


ある程度の規模の書店に行けば、
必ず「日本人論」のコーナーが設けられている。

そこに飾られた本は、どれもこれも、
日本人がいかに世界的に見てユニークな存在か、
日本人がいかに優秀な国民か、と厚顔無恥に「論じ」ている。

日本人がそれを書き、日本人がそれを読む。

そして日本人だけが満足する。

想像するだけでも、相当に気持ちのわるい光景である。

この自己中心的かつ自己満足的な国民性をふまえて、
以下の問題を振り返ってみたいと思う。

本島・長崎市長が「天皇の戦争責任」に言及した際、
全国から多くの恫喝・非難・支持・応援の投書が寄せられたという。

NHKは、その投書をもとにして、
特別番組「拝啓・長崎市長殿」を製作した。

著者は、そのなかの1通の投書に注目する。

例えば、天皇の戦争責任を追及するのは、愚かな大衆に媚びることだという投書をした長崎県の離島に住む41歳の主婦は、インタヴューで吹上御苑の蛇にも親愛の情を寄せる天皇の優しさについて語った後、「戦争の全責任は私にある。私はどうなってもよいから、国民を飢えないようにしてやってくれ」という趣旨の発言を天皇がしたと伝えられている有名なマッカーサーとの会見に触れ、この会見によって「既に道義的責任を陛下は終えられた」と言う。さらに、天皇の全国巡幸が戦後復興と現在の日本の繁栄に貢献したという主張も付け加えられている。(15頁)


読者のみなさんは、この主婦の投書をどう感じるだろうか?

著者はこう感じたという。

率直に言って、私はこういう話を聞くと、「日本人というのは何と優しく、何とおめでたく、何と身勝手なんだろう」という思いを禁じ得ない。(15頁)


では、なぜ著者は日本人を「優しい」と思ったのだろうか?

「優しい」と言ったのは、日本国民に限っても、250万以上とも言われる生命――この中には、疎開船対馬丸と共に海の藻屑となった1300人の児童をはじめ、無数の無辜なる子供の生命も含まれる――を奪った戦争に対する、「統治権の総攬者」の責任が問題になっているときに、彼がただ、敵国の将に対して自己の責任を認め、自分が責任を認めた戦争による国民の惨状の後始末をこの将に頼んだだけで、国民に対する道義的責任をも「終えた」ものとみなしてもらえるからである。(15頁)


「日本人は優しい」といったのは、もちろん痛烈な皮肉である。

では次に「日本人はおめでたい」というのは、どういう意味なのだろうか?

次に、「おめでたい」と言ったのは、歴史劇的な自己演出・自己美化の趣味をもつマッカーサーのナルシシズムに引き込まれて、「天皇の潔い態度にマッカーサー元帥が深く感動した結果、天皇が免責され、寛大な対日占領政策がとられた」という美談に素直に感銘し、占領の軍事コストの最小化や、冷戦状況における米国の対ソ戦略への日本の組み込みという、醒めた打算を見ようとしない人々の純朴さに、驚かされるからである。(16頁)


では、「日本人が身勝手だ」というのは、どういう意味なのだろうか?

最後に、「身勝手」だと言ったのは、日本による侵略・植民地化の犠牲になった、死傷者だけでも数百万とも1千万以上とも言われるアジア諸国の厖大な数の人々は、「我が身はどうなろうとも、国民〔日本国民〕だけは」という天皇に帰せられるセリフによっても、また、戦後日本の経済的繁栄によっても、決して救われないという当たり前の事実に平然と目を閉じていられる人々の神経の図太さがやりきれないからである。(17頁)


1通の無名の「一日本国民」の投書を取り上げて、
ここまで批判する著者の筆は、なかなか鋭いものである。

この日本人の「おめでたさ」は、悪質このうえないものである。

そしてこの悪質さは知識人にも見られるとして、次に中沢新一が批判される。

一例を挙げよう。中沢新一は、「みじめな敗北に終わった戦争の最高責任者として、国民のまえにうなだれて現れた天皇と、それをむかえる日本人のすがた」を、少年野球チームのリーダーが、自分のエラーでチームを負けさせ、帰り道うなだれているのを、仲間がくやしさを忘れて「ドンマイ、ドンマイ」と慰めるという、自分の少年時代の思い出の光景と、重ね合わせている。そして、天皇に対して、この「ドンマイ、ドンマイ」をやった日本人の、「底抜けのお人好しぶりと、なんとももの悲しい優しさ」を、「単純に否定してしまったり、そこから逃げ出すことばかり考えている精神には、世界の悲しく美しい真実は、たぶんなにも見えてこないだろう」と言う。
 優しさの充溢。しかし、素朴な疑問がある。天皇の侵略軍隊によって肉親を殺され、あるいは自ら傷付けられたアジアの人々は、日本人が天皇に「ドンマイ、ドンマイ」をやっているのを見て、日本人を、優しいお人好しと思うだろうか。アジアからの、このまなざしを一度でも意識したら、我々日本人は、なお「ドンマイ、ドンマイ」を続けていけるだろうか。このまなざしを意識しながら「ドンマイ、ドンマイ」を続けていくとしたら、それでも我々は自分たちを優しいお人好しであると信じ続けられるだろうか。信じ続けられるとしたら、我々日本人とは一体いかなる動物なのか。(17−18頁)


天皇をかばう優しき主婦と中沢新一には、
どうしようもないほどの「いやらしさ」が感じられる。

彼らに共通するいやらしさとは、何なのだろうか?

それは、「アジアの犠牲者」に対する視点が見事に欠落していることである。

彼らには日本軍に殺されたひとびとのことがまったく見えていない。

視野にも入っていない。

「戦争責任問題」の核心は、敗戦責任にあるのではない。

侵略責任にあるのである。

日本人は、東京大空襲や原爆投下といった被害の歴史ばかり強調する。

だが、この主張には良識のかけらもない。

即ち、自己の被害者性に対して正当な配慮を要求する権利は、自己の加害者性を仮借なく暴く責務の遂行によってしか得られない。何故なら、この権利と責務は同一の政治道徳の原理に基づくものであり、責務の怠慢においてこの原理を裏切りながら、権利の主張においてそれに媚びることは許されないからである。(25頁)


「日本だけが悪いのではない」と言うひとは、
それで日本の罪が軽くなるとでも思っているのだろうか?

自分たちが受けた被害の残虐性を主張するなら、
自分たちの加害の残虐性を認めることが条件であろう。

拉致の被害を言い募るなら、
まずは自己の加害責任を認めるべきであろう。

著者による、日本人の傲慢さへの批判はさらにつづく。

たとえば、日本人の多くが海外からの労働者受け入れに消極的だ。

 ……フィリピンのように、大土地所有特権階級の支配構造が桎梏となって、日本からの巨額の経済援助にも拘わらず、産業化がうまく進まず、日本に「労働力救出」をするアジアの発展途上国の現状を非難する日本の一部知識人に対しても、私は「占領軍に農地改革や財閥解体をやってもらった我々日本人が、そんなエラそうなことを言っていいんでしょうか」と、素朴な疑問を感じてしまう人間の1人である。東京裁判や戦後改革を強制されたものとして批判しながら、その結果的利益は享受し、享受されている現在の平和と繁栄を、専ら日本人の努力と勤勉の賜物とみなす人々も多いが、彼らの態度は、他力本願的効率主義よりもさらに狡い。(35頁)


東京裁判を安易に批判する連中の醜さが、ここにある。

戦争責任や戦後責任を否定する連中は、
過去の「遺産」はありがたく受け継いで享受するくせに、
「負の遺産」だけは受け継ぎたくないなどと身勝手なことを言う。

ここからも分かるように、
「日本人は勤勉に働いた」という言説も、欺瞞に満ちたものなのだ。

「我々国民にも責任があるのだから、天皇を責めるのはやめよう」というのは、「内輪の許し」の論理であり、自分たちが受けた苦難に適用できても、他者(被侵略者)への加害には適用できないからである。……「日本軍がアジアで、少なくとも数百万ないし1千万の人々を殺傷したあの戦争〔十五年戦争〕に対して、天皇にも責任があるが、我々にも責任がある以上、天皇を責めるべきではない」と、侵略者の1人として言うとしたら、そこにあるのは共犯者の間の「馴れ合いの寛容」である。(52頁)


ではなぜ国民の多くは天皇に対してかくも寛容でいられるのだろうか?

……度々の世論調査にも示されるような圧倒的多数の国民の天皇(および皇室)への戦後一貫して続く愛着は、天皇という存在に象徴された「日本人であること」への愛着であり、国民の自己愛である。……軍人・政治家の戦争責任を厳しく問う「庶民」が「天皇の戦争責任」を問う本島市長のような人を激しく憎悪する。これは軍人・政治家の断罪は他者に対する責任追及にすぎないが、天皇の断罪は日本人であること自体の断罪であり、日本人の自尊の基盤を掘り崩すものと受けとめられるからである。天皇の無答責化や天皇制そのものの聖域化は、このような国民自身の自己愛ないし自己肯定欲求の媒介装置にすぎない。国民は政争や戦争の汚濁を超越した純粋無垢なる存在の心象を天皇に求め、かかる存在に自己を同一化することによって、侵略の歴史の個人的または集合的な帰責がもたらす傷と汚辱から自己を癒し浄化する。……アジア諸国に対する日本の侵略責任の承認を「自虐史観」として批判する近時の「修正主義」的歴史観の言説と政治運動が訴えかけ、かつ強化しようとしているもの、また、このような言説・運動に無視できない影響力を付与しているものは、まさにこの国民的自己愛である。(61−62頁)


なるほど。

どこまでも自己中心的な「自己愛」。

「自分さえ良ければよい」という「自己愛」。

もっとも、現在の「自虐史観」批判の言説自体は、……林房雄の「大東亜百年戦争史観」のような歴史修正主義の「壮大な先例」の縮小再生産(ないしはその文字通り漫画的なデフォルメ)で、改めて検討するに値する知的意義をもつとは思わない。(62頁)


わたしも同感である。

前にも書いたように、
日本の歴史修正主義は、戦前の軍国主義者の言い訳をなぞっているだけであり、
さらに言えばドイツの「アウシュヴィッツ否定派」の主張をパクッているにすぎない。

このどうしようもない「自己愛」は、
いわゆる良心的な知識人のなかにも見られるとして、
著者は加藤典洋も厳しく批判している。

 侵略責任の承認自体が孕む陥穽に関連して付言すれば、現在の議論において注意を要するのは、国民的自己愛へのおもねりが、「自虐史観」批判を叫ぶ人々だけでなく、侵略責任を承認する人々にも見られることである。「日本の300万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼を通じてアジアの2000万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道」を説く加藤典洋の議論はその典型である。(63頁)


加藤典洋は、哲学者の高橋哲哉によって厳しく批判された人物である。

最近の若者のことを「自己中心的で身勝手だ」と眉をひそめる中高年も、
じつは若者に負けないくらい十分に「自己中心的で身勝手」なのである。

黒光りした自己愛は、いまも日本人の心をつかんでいる。











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