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zoom RSS 杉田敦『政治への想像力』(岩波書店)

<<   作成日時 : 2010/01/18 10:26   >>

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著名な政治学者の本である。

これまでわたしが読んてきた杉田敦の著書のなかでは、
本書は刺激の少なめの内容だった。

彼の発想はきわめて明確だ。

それは何か?

わたしたちの周りにはあまたの「二分法」が存在している。

保守/革新

公/私

護憲/改憲

官/民

国家/市場

改革派/守旧派

正義/非正義

善/悪

競争的部門/非競争的部門

中央/地方

正規労働/非正規労働

彼ら/私たち


以上が本書のなかで著者が挙げているものだが、
これ以外にもおなじみの二分法がたくさん存在している。

男らしさ/女らしさ

敵/味方

小さい政府/大きい政府

肉食系/草食系

反日/親日

反米/親米

主観/客観

東洋/西洋

全体/部分

生/死

本音/建前

国家/個人

金持ち/貧乏

内部(ウチ)/外部(ソト)

自然/人間

ミクロ/マクロ


著者の主張していることは、
こうした二分法を克服していくこと、である。

と、はじめの部分で主張したあと、
彼の短いエッセイがずらりと並ぶ、という構成になっている。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


石原慎太郎は、相変わらず都民の血税を私物化している。

にもかかわらず、彼に対する批判はそれほど高まらない。

オリンピック招致などの大きなイベントを打ち上げたために、
ひとびとの関心をそらせることに見事に成功したからである。

フジテレビなどがいまも石原慎太郎を持ち上げているからである。

しかし、都民もメディアも大事なことを忘れている。

 石原氏のもう一つの重要な公約であった、米軍横田基地の返還問題も、前に進んではいない。(40頁)


石原慎太郎くん、この問題はどこへ行ってしまったの?

……ハンナ・アレントが言った、「表象の政治」と「現れの政治」という対比と関係してきます。「表象の政治」とは、ある人がどういう存在かを外部からレッテル張りして、そうしたレッテル(表象)にもとづいてその人に接するというやり方。これに対して、「現れの政治」とは、その人が何を言うかに耳を傾ける、というものです。(60頁)


石原慎太郎が典型的な前者だとしたら、
オバマ大統領はいちおう後者ということになるだろうか。

二分法が暴力的に機能しているもののひとつに、「難民」問題がある。

というわけで、つぎに難民について。

これまで、人の移動については、政治的な迫害などを理由とする「政治難民」だけを認め、貧困を理由とする「経済難民」については認めないという考え方が強くありましたが、そうした二分法をとるべきではないと思います。(73頁)


日本政府は「政治難民」でさえ本当は受け入れてこなかったのだが、
「政治難民」は救済し、「経済難民」は認めないという考え方が、
強く人びとの頭のなかを支配しているのは確かである。

だが、政治的権利を奪われた難民も、
食べていけずに経済的権利を奪われた難民も、
同じ「難民」ではないか。

そして、派遣村に集まってきたひとたちだって、じつは「難民」ではないか。

ところが、世の中のひとたちは、「難民」に対して冷酷だ。

「難民」予備軍に対しても冷酷だ。

何十年も農業に従事していた人に、「今はITの時代だからITをやりなさい」と言っても無理でしょう。(74頁)


ええ、無理である。

路上生活者も「難民」である。

唐突だが、本書で紹介されているエピソードを取り上げておこう。

 古代ギリシアでは、公とは何よりもまず、人目にさらされる場としての広場(アゴラ)を指した(だからこそ、固定観念からの自由を説く哲学者ディオゲネスは、最も私的な行為と目される自慰行為を、あえて広場の真ん中で行って見せたのであるが)。(184頁)


ディオゲネスが現代に生きていたら、
まちがいなく社会は彼を徹底的に差別していただろう。

しかし古代ギリシアのひとたちは、彼を哲学者として尊敬し、
彼の名は歴史に残っているのである。

つぎは、あのイラクで人質となった日本人の問題だ。

当時、人質となった若者3人に対して、全国から激しいバッシングが浴びせられた。

いわゆる「自己責任論」の雨あられ。

読売新聞も社説で若者3人を非難して「自己責任論」を展開していた。

そういえば、「自作自演説」まで流れていた。

メディアのなかには「自作自演説」に便乗したものもあったし(おい、産経新聞)、
TVコメンテーターにもそういう荒唐無稽な珍説を流布してまわった者もいた。

いまとなってはまったくのデマだったわけだが、
「自作自演説」を振り回していた連中は3人に謝罪したのだろうか?

コメンテーター諸君は、自分たちの誤りを認め、
被害者に謝罪したのだろうか?

ともあれ、あのときほど日本人の醜悪さが際立ったこともなかった。

日本では、相も変わらず「世間」がもっとも重要で、
「世間」のために個人の自由は限りなく抑圧されるのである。

子供は親に心配をかけてはならず、親は子供が「世間」に迷惑をかけないようにせよ。「子供」が成人であっても同じである。どんな人道的な目的よりも、家族や世間が大事であり、人質となった人々はこの点で、反省しなければならない。親は親で、世間を騒がせたことを、まずわびるべきである。家族が無事帰って来て欲しいと願うのなら、「お上」にはひたすらお願いすべきであり、批判的言動は慎むように。個人や家族の事情は「私」、国家の事情は「公」であり、「私」は「公」に従属するのだから。
 こうして人質たちは、「私」の都合で「公」に迷惑をかけた「自己責任」を問われることになった。(230頁)


つまり、個人を尊重するという基本的な理念が、
まだ日本人には身についていないということである。

言うまでもないことだが、
イラクにボランティアで行った若者の方が、
彼らを口汚く罵った連中よりもはるかに人間的に立派である。

結局戦前と何も変わっていないのではないか、と感じるのはこのためだ。

こうして見てくると、この国では、国家に従属する国民というアイデンティティと、国家を支える礎としての家族というアイデンティティが、きわめて強いことがわかる。国境の向こう側の苦難に対して、それを自分のこととして受けとめようという機運は乏しい。改憲を説く人々は、戦後民主主義の結果として、個人主義が蔓延し、国民意識が薄れ、家族が忘れ去られていると言うことが多いが、彼らの不安は全くの「杞憂」である。戦後半世紀以上を経ても、人々の意識は変わっていない。(231頁)


日本人は絶望的なまでに変わっていない。








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