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zoom RSS 佐藤卓己『メディア社会』(岩波新書)

<<   作成日時 : 2010/01/15 10:53   >>

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ネット右翼のみなさんは、南京虐殺事件の証拠写真を捏造だとわめく。

しかしながら、彼らは日本の捏造写真にはどういうわけか関心を示そうとしない。

どうしてなのだろうか?

性格が捻じ曲がっているからだろうか?

頭のなかが虫に食われているからだろうか?

根性が腐っているからなのだろうか?

戦争中、日本の軍部は数多くの捏造写真を作成した。

「終戦」を知らせる玉音放送をうなだれて聞く「悲涙に咽ぶ少女」の写真も、
ご丁寧に少女の顔に「涙」をつけ加えるなどした、
じつは「やらせ写真」「捏造写真」であった。

本書の著者は、『八月十五日の神話』の著者である。

この本は以前紹介したことがある。

佐藤卓己『八月十五日の神話』(ちくま新書)

「やらせ写真」のことについても本書で取り上げられている。

メディア論からさまざまなメディア現象を読み解く、という内容である。

エッセイ集のような構成になっているので事例が豊富なのだが、
全体の読み応えとしては「そこそこ」。

以下、おもしろかったところを断片的に拾い読みしたい。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


天皇制は「歴史ある伝統」とイメージされている。

しかし、実際はそうではない。

先日コメントをくださった反小市民さんもこのことをご指摘されていた。

本書には、天皇夫妻と皇太子夫妻の、
それぞれの「ご成婚記念切手」の写真が掲載されている。

いずれも、わたしたちから見て左側に「夫」、右側に「妻」の配置だ。

先日行なわれた皇居の一般参賀においても、
向かって左側に天皇、右側に皇后が立っていた。

どうやらこの配置は、偶然ではなく、ルールのようである。

しかし、この配置もじつは「作られた伝統」だったのだ。

一般には雛人形でもお内裏さまが向かって左、お姫さまが右の配列になる。一般庶民の結婚式でも新郎新婦は同じように座っているが、この配置は神前結婚式ともども、1900年、嘉仁親王(後の大正天皇)の御成婚を契機として民間に普及した新しい「伝統」である。
そのため、東京中心の雛人形カタログではお姫さまは向かって右に配列されているのだが、京都のデパートでは左に飾られている。実は京都式こそ古式に則った「伝統」である。律令体制で左大臣は右大臣より高位にあり、天皇の左手に座っていた。つまり、向かって右が高位であり、それは「右に出る者がない」という言い回しからも明らかである。
こうした雛人形の配置転換は「近代化=西欧化」を象徴している。(80−81頁)


なるほど。

ということは、天皇の右側に立っている皇后は、
天皇の「右に出たしまった者」ということになるわけである。

ところで上の引用部分の終わりで著者が気になることを指摘している。

天皇が左側に立つことがどうして「近代化=西欧化」を象徴しているのか?

それは、この配置はイギリス王室の慣習を真似たものだからである。

何も知らないひとたちはついつい「伝統」だと思い込んでしまうが、
実際「伝統」と思われるものの多くは新しく「作られたもの」だったのだ。

伝統の捏造である。

伝統の偽装である。

話はがらりと変わって、アメリカである。

アメリカにおける戦略型報道は、ウォーターゲート事件の1972年を境に開始されたが、全米世論調査センターの統計によれば、1973年から1993年の20年間でアメリカ国民の社会組織に対する信頼感は激減した。信頼率は宗教団体(35%から23%)、学校(37%から22%)、金融機関(32%から15%)、テレビ(19%から11%)、行政府(29%から11%)、労働団体(16%から8%)、議会(24%から7%)で急落し、ただ軍隊(32%から42%)のみが上昇しているという。(108頁)


ほぼすべての社会組織に対する米国民の信頼が低下しているなか、
軍隊だけが信頼感を増しているという。

怖ろしい傾向である。

次に、「輿論」と「世論」について。

今日ではほとんど忘却されているが、輿論(よろん)と世論(せろん)は戦前まで別の言葉だった。輿論とは「五箇条の御誓文」(1868年)の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」にも連なる尊重すべき公論であり、世論とは「軍人勅諭」(1882年)の「世論に惑わず、政治に拘らず」にある通りその暴走を阻止すべき私情であった。戦後、当用漢字表公布によって「輿」の字が新聞で使えなくなったため、苦肉の策として「世論」と書いて「ヨロン」と読む慣行が生まれた。『「毎日」の三世紀 別巻』(2002年)は、次のように説明している。
 「世論を「よろん」と読むようになったのは、戦後民主主義が背景にある。従来、「世論」は戦時中、「世論(せろん)」にまどわず」などと流言飛語か俗論のような言葉として使われていた。これに対して「輿論」は「輿論に基づく民主政治」など建設的なニュアンスがあった。」(119頁)


これは、言葉がなくなると観念も消失してしまう、という好例である。

語彙を豊富にすることがいかに大事なことか。

こんなところからもわかる。

 エリザベス・ノエル=ノイマンは公的場面で反論を口にすることの困難さを「列車テスト」によって心理学的に検証し、選挙分析と重ね合わせて「沈黙の螺旋」仮説を提示した。「列車テスト」とは、被験者が公的な状況で反対意見に対して自己主張することができるかどうかを調べる実験である。まず、列車の長旅で同じコンパートメントに自分と意見を異にする人物が同乗している場面を被験者に想像させる。その上で、さまざまな争点で「その相手ともっと話してその意見を知りたいかどうか」を質問してゆく。その結果、被験者は自分の意見が多数派だと思う場合は積極的に議論し、少数派と自覚するときは沈黙しがちになることを実証した。(131頁)


日本社会が右傾化しているなか、
日本人の右翼的常識に対して異議を言い立てるのはむずかしい。

大衆は孤立を怖れる。

だから多数派につこうとする。

だが、まさにこの「沈黙の螺旋」がかつてナチズムを生んでしまった。

日本でも、また〈戦前〉を再現しようとする動きが目立っている。

……優勢な暴力行為に抗してでも、沈黙することなく毅然とした意思を表明し続けることだけが、民主主義を守る方法だったのではないか……。(132頁)


このように著者は述べている。

しかしながら、
性差別や人種差別が公然と日本社会にあらわれているというのに、
圧倒的多数のひとびとは「沈黙」をつづけている。

次は「本」について。

子供の頃、「本を床に置くな」と親に叱られた記憶がある。本を足で跨ぐことを知性に対する冒瀆のように感じる世代もいるはずである。一方で、遠足のとき新聞紙を尻に敷いて弁当を食べる子供に注意する教師はいないだろう。だが、書物で同じことをしても許されるだろうか。新聞や雑誌は日付が過ぎれば基本的にゴミ扱いだが、古い書物は古書店で商品となってきた。
 あるいは、ナチズムの焚書がよい例かもしれない。1933年5月10日ゲッベルス宣伝相の呼びかけにより、ユダヤ人作家や社会主義者の書物がドイツの大学前広場で炎の中に投げ込まれた。文化に対する野蛮行為として国際的な大反響を引き起こした。だが、これが社会主義者の古新聞やユダヤ人団体の古雑誌であっても、はたして人々は同じような印象をもっただろうか。(154−155頁)


近いうちに日本でも、
日本の侵略戦争を批判する本が焼かれることになるかもしれない。

残虐行為の証拠写真が公然と焼かれることになるかもしれない。

すでにそうした傾向があらわれているとも言われている。

そのとき、「野蛮行為」として非難する声が沸きあがるだろうか?

もう日本人は本どころか、人を殺害することにためらいを感じていない。

2005年2月19日に内閣府が発表した「基本的法制度に関する世論調査」によれば、死刑容認が初めて80%を超えた。……死刑廃止派は2.8%減少して6%になった。(162−163頁)


日本人の「常識」は、
世界の死刑廃止の傾向から孤立している。

 私たちは普通、メディアは「ニュースを伝達してくれる装置」だと考えている。しかし、実際にはメディアは「情報を過剰に伝えないための装置」である。正確にいえば、情報を選別し、「不必要な」ニュースを排除するために報道機関は存在している。(166頁)


メディアが何を伝えたか、ということだけでなく、
メディアは何を伝えなかったか、ということも考えないといけない。

……『犯罪白書』(法務省発行)の統計では若者の凶悪事件は近年急増しているわけではない……。強盗が上昇しているように見えるのは、ひったくりや恐喝を新たに「強盗」に組み込んだためである。(175頁)


統計データのグラフだけを見せられれば、
ついつい若者による強盗件数が増加しているように感じてしまう。

しかしここには法務省による「からくり」があった。

この事実をメディアはどれだけ伝えているのだろうか?

 たまたま『京都新聞』2004年11月24日付「市民版」に興味深い住民アンケートが紹介されていた。下京区「修学学区安心安全推進委員会」が一般世帯とマンション世帯に分けて調査した結果である。防犯上の不安を感じる割合は、地域活動への参加率の高い一般世帯では33%、地域との接触に消極的なマンション世帯で55%と際立った差異が存在している。地域情報を対人接触よりメディアに依存する新住民が、「現実以上の」危機感を抱いていると理解できよう。(176頁)


マンションの住民というのは、一般的に言って、
たしかに地域への参加意欲は高くないようにも感じられる。

そのうえ、ひとびとがどのようなメディアに依存しているのかによっても、
意識の相違が生じてくるのかもしれない。

たとえば、新聞は活字メディアである。

テレビは電子メディアである。

新聞がメッセージの内容や意図を「伝達するメディア」なら、テレビは登場人物の印象や状況を「表現する」メディアである。つまり、新聞から読者は内容メッセージ(事実)を読み取り、テレビから視聴者は関係メッセージ(印象)を受け取る。新聞は記号化(抽象化)された論弁型なdiscursive情報を、テレビは身体的(具体的)で現示的なrepresentational情報を伝える。抽象的な文字情報は「真偽」を判定する公的な議論向きであり、具体的な映像情報は「好き嫌い」という私的な共感を呼び起こす。(185頁)


もしこの分析が正しいなら、
ひとびとは直感的な「好き嫌い」で政治さえも語っていることになるのか?

日本人はやはり歴史を学んでいない、ということか。








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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
並び方は明治期に諸外国との外交に不便であるので改められたのでは[
[
2010/08/13 17:08
◆・さま

何がどう不便なのですか? 切手の場合、何がどう不便なのですか?
影丸
2010/09/04 13:51
孤立を恐れ大勢を選ぶ民衆を批判しながら死刑制度を世界の潮流から外れていると批判する。頭悪いんじゃないですか?日本は日本、外国は外国。
tkltk
2013/03/12 21:01
◆tkltkさま

最近わたしはネトウヨくんたちのある特徴に気づきました。矛盾を指摘したつもりで揚々としているが、じつはまったく矛盾の指摘になっていない、という特徴です。まるであなたのことのようです。ひとつだけ、あなたに言って差し上げましょう。日本は日本、外国は外国、とおっしゃるなら、外国でつくられた人権(参政権や表現の自由など、ありとあらゆる人権)をあなたは否定するのですね? 以上です。お大事に。
影丸
2014/05/12 00:35

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