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zoom RSS 小熊英二『1968【上】』(新曜社)A

<<   作成日時 : 2009/10/26 00:00   >>

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敗戦によって日本は民主化した面があった。

日本国憲法の制定。

農地改革、財閥解体、労働条件の改善などなど。

しかし、日本の右傾化・反動化は敗戦直後からすでにはじまっていた。

 1949年中には、1都20県19市に公安条例が制定され、デモや集会は公安委員会に事前に届出し許可を得ることが義務づけられた。49年6月には労働組合法と労働関係調整法が改正され、管理職の非組合員化や暴力行為の否認などが盛りこまれた。(169頁)


日本の国家権力はつねに「復古」への強い意志を抱いていたのだ。

本書では、日本共産党の内部分裂やセクトの形成などについても記されているが、
共産党は、武装闘争路線を放棄し、穏健化していった。

セクトはこれを厳しく批判するかたちで勢力を伸ばしていった。

1958年、共産主義者同盟(ブント)が結成される。

 ……穏健化した共産党を批判して革命を志向するブントにとって、「民主主義を守れ」などは、なまぬるい「ブルジョア思想」だった。(199頁)


民主主義に対するイメージが変化していったのだ。

「……民主主義に価値をおく、という思想は存在しなかった……。」(199頁)


そして1960年の安保闘争。

セクトなどの活動が活発化していった。

ときの首相は、A級戦犯であり安倍晋三の祖父・岸信介。

昨年11月の国会突入いらい、岸首相の暗黙の意をうけて、全国の右翼団体から数百人の「抜刀決死隊」が結成されていたのである。(205頁)


A級戦犯の指令に忠実に従う右翼団体の正体がここに露呈する。

反対運動は激しくなり、デモ隊は国会へ突入。

機動隊の容赦ない暴力がデモ隊を襲う。

そこでひとりの女学生が殺害されてしまう。

樺美智子の死である。

 樺の死への同情は大きかった。19日には樺の「国民葬」が行なわれ、中国から「樺美智子さんは全世界に知られる日本の民族的英雄になった」という毛沢東のコメントが寄せられた。一方で岸政権は樺が死んだ夜、6月16日午前零時から緊急閣議を開き、岸・佐藤・池田らは最大限の警備力でアイゼンハワー来日強行を主張したが、陸上自衛隊の幕僚長は治安出動に難色を示し、警察庁長官も強硬姿勢をあらためることを直言した。(207頁)


自衛隊や警察の幹部が政治家の姿勢をいさめるというのは、
いま見るとなぜだか新鮮な印象を受けてしまう。

ところで、当時の活動家学生たちは、どのような家庭環境に育っていたのか?

当時の社会学者の調査によると、
活動家学生の親の思想は進歩的である場合が多かったという。

社会学者の高橋徹によれば、次のとおりであったという。

……「活動家自身の把えた自己の家庭像」は、「自由放任型というのが半数以上で(62%)、権威主義的な父権中心型がこれに次ぎ(26%)、過剰保護を含んだ母親中心主義型は比較的少ない(10%)」という。……
 
……この自由放任型を仔細に点検すると、そこにはほぼ2つのサブ・タイプが発見される。1つは自由主義的な価値観と家族規範とを確立し、かなり自覚的に子供の個性や自発性を伸長することを心掛けてきたもので、したがって、両親と子供との間の対立もあまりないという家庭である。われわれ〔の調査〕の場合、この型は相対的に恵まれた所得階層出の多い〈民青系〉に発見される。これに対して、もう1つのサブ・タイプは、子供の教育に気を配るだけの経済的・精神的余裕もないところから、おのずとそうならざるをえなかった自由放任で、これは〈革マル派〉と〈社学同系〉に特徴的である。
 これと対照的な父権中心型では、〈構改派〉がひとり突出している(50%)。これは……その家庭が農村や小都市の旧中間層に属すものが多いことと関係をもっている。したがって、両親との対立の時期も、〈民青系〉や〈三派系〉の高校時代という答えよりも一時期早い、小学校や中学時代に始まっている(57%)。……この派の活動家にとっては、社会との闘いの前に、まず家庭内の父親の権威主義に対する反抗、しかも「理由ある反抗」が存在したことを意味する。そして、彼らが他派に比して組織内民主主義を重視するのも、あるいはおの少年時代における外傷経験と関係があるかもしれない。
(254頁)


ここに出てくる「民青」とか「社学同」とか「構改派」とか「革マル」とかを見て、
何のことだかよく分からないというひともいるだろう。

そういうひとは、本書を読むなどしてよく調べてみていただきたい。

……全共闘運動に積極的に参加した学生は、闘争がおきた大学の全学生のうち1割から2割だった。そのうち革命がおきると信じていたのが35%とすれば、当時の全学生のうち革命がおきると信じていた者は5%前後だったことになる。さらに大学進学率が2割前後だったことを加味すれば、革命がおきると信じていた学生は、この世代の1%ほどだったと推計できる。彼らの仲間内では、多数派のように感じる瞬間もあっただろうが。(311−312頁)


これについては前回も記したと思うが、
興味深いのは、運動内部に、
活動家たちが否定してはずの「既成の価値観」が再現されていた、
ということである。

……当時の学生運動では、東大や京大出身の活動家が理論的リーダーとなり、法政・明治・中央などのマンモス私大の学生がゲバルト要員とされることも少なくなかった。(316頁)


「マンモス」の意味が分からないひとはいないと思うが、
「ゲバルト」の意味が分からないひとはいるかもしれない。

「ゲバルト」とは、「暴力」という意味である。

当時の学生活動家たちは、次のような歌を口ずさんでいたという。

 昨日革マル
 明日は三派
 その日 その日の 出来心
 持ったゲバ棒 切なく折れて
 日本革命 どこへ行く(310頁)


と、ここまで時代背景について記述してきた本書は、
いよいよ「あの時代の叛乱」について詳しく分け入っていくことになる。

本書は、時代背景の記述だけで何と300ページを越えていて、
300ページを越えるところからやっと「あの時代の叛乱」へと入る。

はじめは、1965年の慶應義塾大学の学費値上げ反対闘争。

つぎに、早大闘争。

それから、横浜国大闘争・中大闘争とつづいていく。

詳細は本書をどうぞ。

つぎに取り上げられるのは、
「激動の7ヶ月」と言われた、
1967年の第1次羽田闘争から1968年の王子野戦病院闘争まで。

当時はすでに「内ゲバ」が行なわれていた。

ゲバ棒はもともと内ゲバで使用されていたもので、機動隊相手に使うことは前日まで考えられていなかったことである。(466頁)


そうだったのか、これは知らなかった。

当時のセクトの過激化していく運動は、
「純粋」と言われることも「稚拙」と評されることもあった。

しかし、どちらの評価も不十分であると著者は言う。

なぜなら、彼らには「打算」もあったからである。

しかしながら、学生たちの心をとらえたのは「実存」という言葉だった。

 当時の学生は、高度成長下でアイデンティティ・クライシスをはじめとした「現代的不幸」に直面していた。そのため、「われわれは機動隊の前に自分たちの実存をさらすのである。自分たちの人間的なあり方を明らかにするんだ」というアジ演説が効果をもった。(474頁)


つまり著者は、「実存」を「アイデンティティ」の問題として捉えているのである。

「実存をさらす」。

なるほど、この覚悟は分かる気もする。

だから、身体を張って命をかけて闘わない者たちは軽蔑の的になった。

……経済学者の岩田弘は、「闘わざる革新政党の破廉恥さ」と題して、以下のようにコメントした。

 羽田の事件が世界の前にばくろしたもっとも明白な事実は、二千数百名の若者たちのささやかな棒切れと石コロと1人の犠牲者と警察車のあげる黒煙が、日本の支配者にたいする国民大衆の不同意と抵抗を代弁することによって、世界の民衆にたいする、とりわけベトナム民衆にたいする日本人の名誉と良心を救ったということなのだ。
   ……批判を売り物にしている知識人や革新団体の指導者諸君は、これら二千数百名の若者たちの「暴力」によってのみ、世界に対する自分たちの名誉と良心が代弁されたということに対して、少しぐらい恥を知ったらどうなのか。
(477頁)


ただ、当時のマスコミは運動に対して「批判一色」だったという。

既成の革新政党も活動家たちを批判していたという。

そんななか、羽田闘争において、またもや学生の死者が出てしまう。

京都大学の学生・山崎博明の死。

彼の日記には、つぎのような言葉が綴られていたという。

……「僕には勇気がないという事は分っています」「地球上に生を受けて18年と10ヵ月、私はいったい何をしてきたのだ」「ひたすら懐疑と無関心のあいだを揺れ動き、他人のことばで自己弁護する。この私はいったいだれだ」……。(482頁)


自分には勇気がないのではないか?

自分はまだ全身で闘っていないのではないか?

自分はいったいどれほどの存在なのか?

彼の純真な苦悩は、多くの若者にも共通のものであったにちがいない。

そして彼は運動を身を投じ、殺されてしまうのである。

機動隊の暴力はエスカレートしていった。

 機動隊員は、頭ではなく手足を打てという指導をうけていたはずだったが、実際には学生の頭を連打するケースが続出し、多数の負傷者がでた。乱闘中には、機動隊員は学生にむかって「おまえら、帝国主義、帝国主義なんてぬかしやがって」「バカヤロウ、コンチクショウ」といった罵声を浴びせながら、手錠をかけたうえで学生を殴打したり、女子学生の腹を蹴りあげるなどの光景がみられた。逮捕した学生を、「おめえは投石よけだ」として、機動隊の先頭に立たせるなどのケースもあったという。(499頁)


女子学生まで遠慮なく殴るなど、機動隊も卑劣である。

さらに興奮した機動隊員は、三派全学連ばかりでなく、合法デモや通行人にまで暴行を加えた。(500頁)


機動隊や警察は市民の味方だと素朴に信じているひとたちには、
およそ信じられないことかもしれないが、これは事実であった。

当時の報道には、「〔学生運動を〕やるんだったら退学だ。あした学校へ行って手続きしよう」と言い渡されたり、「こんな恥知らずな子を持った私は不仕合せだ」と母親に泣かれたといった経験が掲載されている。……学生たちが「家族帝国主義」と呼んだものである。(501頁)


運動に参加しようとすると、親からの抑圧も襲いかかってきた。

「世間体」を気にする親たちには、これが精一杯の反応なのかもしれない。

親などというものは所詮そういうものなのかもしれない。

つぎに佐世保闘争。

学生運動を取り巻く状況は、さらに厳しいものになっていった。

 また保守系政治家や、米兵相手の「外人バー」の商店主などは、エンタープライズを歓迎する「安保を守る市民協議会」を結成し、商店組合や町内会長を集め、佐世保市民に1世帯1枚相当のビラを撒いた。さらに「市民の生命と財産を守るため、全学連を追放しましょう」というポスターを張り、商店にはシャッターを下ろすことを奨励した。
 当時の報道によると、「安保を守る市民協議会」の会員は、こう語っていたという。「学者は勝手なことをいうが、奴らは飯ば食わせてくれんと。佐世保25万の市民にとって、米軍が落す年間80億の金は生命のツナですばい。戦争につながる? ベトナムにいる時は軍人でも、日本にいる間は、ドルを沢山もった立派な観光団ですばい」。(504頁)


庶民の「素直な思い」からすれば、戦争でひとが殺されようと、
自分のメシが食えるかどうかの方が大切なことなのだろうか?

……警察は催涙ガス弾と放水を浴びせた。この放水は、佐世保川の泥水に、皮膚を侵す催涙液を混入したものだった。この催涙液は、のちにベトナム戦争で米軍が使っているのと同種だと社会党議員が追及したもので、浴びると皮膚がただれ1ヵ月以上も後遺症が残る強力なものだった。(509頁)


警察はずいぶんと「汚い」ことをするものである。

……ある弁護士は……こう語っている。
「……膝頭で股間を蹴りあげ、そのために、睾丸が3、4倍に膨れあがってしまい、ズボンがはけなくなり、……留置所から出てくるときにもひとりでは歩けず、人に支えられて出てくる事例もあった。……警防乱打のものすごさを物語っている」。「大腿部にはっきりと警棒の痕をとどめている女子学生、逮捕された後両手を取られたまま有刺鉄線の上をひっ張られ、そのためすねの骨が見えるまでに裂傷を負った者など、その事例は限りがない」。(510−511頁)


警察は、権力に刃向かう者たちには、容赦ない暴力を浴びせかける。

ふとハワード・ジンの本のことを思い出してしまう。

ジャーナリストの大森実もこう証言している。

「病院には、いっぱい重患もいました。小児科の幼児までが、ガスでむせんで病気を重くしました。……」
病院の正門沿いの窓ガラスは、ほとんどが割れていた。警官の棍棒が犯人である。(511−512頁)


ところが、この佐世保闘争のころから、
活動家たちに対する市民の評価に変化があらわれはじめた。

「大の全学連嫌い」だった47歳の主婦は、テレビ報道をみているうちに涙を流して三派全学連に同情するようになり、こう述べたという。「学生さんは、佐世保のことば思って、あげんことばしてくれよっとやろ。そんなに反対があるのに、政府は、なぜ原子力空母の寄港をことわらんとですかね。政府が強引だから、学生さんも、あんな行動に出たとでしょ。もし、佐世保が戦争にまきこまれたりしたら、あの学生さんたちは、いいことばしてくれよった、と思うかもしれんとです」。(523頁)


こんなエピソードもある。

 ブント幹部の藤本敏夫は、現地本部にしていた博多駅前の「旅館の50近い女将」から、こう言われたという。
「あんたたちの姿を見ていると、涙の出るような思いがする。アメリカの巨大な空母が入ってくるのを阻止しようとする学生たちを見ていると、私は戦争中に特攻隊として死んで行った弟や学生のことが思い出されてならない」。(523頁)


市民の視線に明らかに変化が見えはじめた。

佐世保市内では、「〔投石用に〕舗道の敷石を割って運ぶ彼ら〔三派全学連〕が『ちょっとどいてください。正義の味方が通ります』というとドッと笑い声が起こるという情景が見られた」という。(530頁)


あるいは、こんな話まで。

 またエンタープライズは、太平洋戦争で活躍した米軍空母の名を継承した船で、その名は戦中の「鬼畜米英」の象徴だった。そのため三派全学連は一部の右翼からも賞賛された。(524頁)


右翼ってなんだかなあ……。

現在、前原国交相の「羽田空港のハブ化」発言が話題になっているが、
そもそもの問題のキッカケは成田空港建設問題だった。

1966年にはじまる三里塚闘争である。

ところで、どうして政府は成田なぞに新空港を建設したのか?

 これほど拙速な候補地決定の背景には、ベトナム戦争の影響で、羽田空港がパンク寸前になっていたことがあった。日本は米軍にとってベトナム戦争に欠かせない後方基地であり、……1967年には羽田空港を利用した航空機総数のうち4割が米軍のチャーター機だった。このため、新空港の建設が急がれたのである。(532頁)


背景にベトナム戦争があったのである。

三里塚は天皇家の御料牧場があったほかは、もとは荒地で、おもに戦後に入植した農民が開拓し、農業生産が軌道にのりはじめたところだった。その土地をいきなり空港建設のために収容するという方針に、農民が反対しないはずがなかった。(532−533頁)


何年もかけて必死に開拓してやっと耕作地にした農民にとって、
政府の言い分はひとをあまりにバカにした話であった。

農民たちは黙ってはいなかった。

闘う農民、農民を支援するセクト。

警察の弾圧はますます激しくなっていった。

 警察の暴行は、非暴力の市民にも容赦がなかった。ある女性は、「私たちは成田市民です。市民を殴らないでください」と抗議したが、機動隊員は「市民がなんだ。市民のくせにこんな所にいるのが悪いのだ。バカヤロー!!」と警棒で頭を殴り負傷させたという。
 群衆からは、「機動隊は暴力団以上だ」「暴力団帰れッ」といった声が飛んだ。(536頁)


つぎに王子野戦病院反対闘争。

どうして「王子」で反対運動が起きたのか?

米軍が王子に野戦病院を建設していたからだった。

米軍は、日本をベトナム戦争の負傷兵の治療場としても重視していた。米軍負傷兵のうち、75%が日本で治療をうけていた……。(537頁)


米軍は、ベトナム戦争遂行に日本を組み込んでいたのである。

日本はアメリカのベトナム戦争を熱心に協力していたのだった。

つぎは、日大闘争。

「全学共闘会議」=「全共闘」。

日大闘争は全共闘運動の嚆矢となった。

ここで大学と対立する学生たちを弾圧したのは、
なんと体育会系の大学生たちであった。

彼らは、抗議集会に集まった学生たちに襲いかかっていった。

そして、なんと彼らは、木刀や棍棒のみならず、
陸上競技用の砲丸や日本刀まで使っていたという。

それだけではない。

この日に暴行した体育会系学生は、大学から弁当が支給されており、日当をうけとっていた者もいたといわれている。(586頁)


体育会系の大学生たちというのは、かくも卑劣な連中だったのだ。

もちろん全員がそうだったわけではないだろうが、
体育会系の学生が「権力者」にきわめて従順だったという事実は、
注目に値する。

つぎに、いよいよ東大闘争。

東大闘争の発端は、医学部卒業生の身分保障問題だったが、
東大闘争でもっともよく知られるようになったのは、つぎのスローガンだった。

「自己否定」

「大学解体」

「近代合理主義批判」

「戦後民主主義批判」

そして、あの有名な「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉が
はじめて使われたのは、青木保ほか東洋文化研究所助手10人の署名で
7月3日に出されたアピールだったという。

 この東洋文化研究所助手有志のアピールは、「たまには腹の底にあることを洗いざらいぶちまけてみようではないか」という言葉に始まり、「この文書を発表することによって、われわれは1つの選択を行なったのである」と述べた。大学院生や助手が、教授に反抗することは、研究者としての将来を失う覚悟がなければ不可能だった。そしてこのアピールの末尾の「われわれは連帯を求めて、孤立を恐れない。力及ばずに倒れることを辞さないが、力を尽くさずにくじけることを拒否する」という文章は、東大闘争全体を通じて愛用された。(719頁)


ただし、この言葉を作ったのはこの研究所助手たちではなく、
たしか詩人の谷川雁であった。

また、彼らに好んで使われた言葉につぎのようなものがあった。

……「内なる東大」「内なるベトナム」「内なる差別」「内なる女意識」といった「内なる××」は、60年代末から70年代初頭の流行語となるが、いずれも〈自分探し〉の一環という側面をもっていたといえる。(773頁)


自分自身のなかに批判すべきものを発見するという内省は、
学生たちのあいだで純粋に、そしてますます厳しく行なわれていった。

社会学者の見田宗介は、「自己否定」についてつぎのように述べている。

「もしこの世界に肯定すべき何ものもないとするならば、青年は否定によって自己の存在証明(アイデンティティ)を確認するしかないだろう。『拒否』あるいは『粉砕』は、否定による自己の存在証明の確認である」。(774頁)


あるセクトの活動家は、つぎのように述べている。

《おれはおれなりに徹底的にやろう。きみもきみなりに徹底的にやればいい。敵に対しては手かげんするな。必ず怨恨をはらせ》(801−802頁)


このように考えていた当時の活動家学生たちにとって、
「進歩的知識人」や「民青」は批判の対象でしかなかった。

なぜなら進歩的知識人も民青も、徹底的にやってはいなかったからである。

なるほど。

当時の大学は、著者の言い方を使うと、
「真理の探究の府」から「経済成長の人材養成機関」に変貌していった。

しかし学生たちはそう考えていなかった。

大学は「産業社会に毒されない」真理の探究の府であるのが「あたりまえ」だという、
およそクラシックな大学観を抱いていたのだという。(150頁参照)

それもあって、大学教員に対する不信・嫌悪が高揚していった。

しかし、そんな学生たちの思いを、
世の中のひとたちは正しく理解していたとは言えなかった。

1972年に、ウーマン・リブの活動家として知られた田中美津が書いた文章によると、東京でも「男が訪れたということだけで、〔性行為を行なったか否かにかかわらず〕アパートから追い出された女もいる」というのが当時の一般的な風潮だった。
 そしてマスコミや年長者は、バリケード内で若者が「フリーセックス」を楽しんでいるのではないかという好奇の目をむけた。(120頁)


週刊誌は、「籠城する学生たち」について、根も葉もない噂を記事にした。

……警視庁公安部のある刑事は、週刊誌の取材にこう答えたという。「女闘士が相当な“フリーセックス”らしいんだ。なにしろこの間の“手入れ”の時も法政大学の自治会室にはフトンがいくつか敷いてあって、1つフトンに男女学生闘士が寝てたっていうんだ。いやまったく相当“刺激的な風景”だったらしい。とくに女子学生がね」。(123頁)


週刊誌というのは、今も以前もいい加減なものである。

ところで、ここで興味深い事実がある。

中国で天安門事件が起きたとき、
中国の大人たちもじつはまったくこれと似た反応を示していたのだ。

「天安門広場に集まって学生たちが何をしていたかと思えば、
あとから出てきたのは大量のコンドームだった。」


ある番組でこう発言した中国人研究者の発言を、
わたしは今でも覚えている。

これはじつに興味深い反応である。

日本だけでなく中国でも、学生叛乱に対して大人は、
このような「好奇な視線」を投げかけていたのであった。

「体制に抗議する学生たちはいやらしいことをしているにちがいない」
という発想しかできない大人たち。

精神分析をすれば、大人たちは叛乱学生のなかに、
みずからの抑圧された「欲望」を見出していたにすぎない、
ということになるのだろうか?

ともあれ、学生たちはじつにまじめに闘っていたのだった。

しかし、そんな東大全共闘も、やがて変質していった。

初期の東大全共闘は、一般学生の「個人の主体的闘争決意」に支えられ、多様な参加形態が許容されていた。だが一般学生の意識が離反してくると、全共闘に参加して闘うか敵対するかの二者択一を迫るリゴリズムが強まった。(877頁)


「やるのか、やらないのか」。

こう迫っていく学生たちは、みずからの闘争性を示すために、
闘争をますますエスカレートさせてていった。

そして、機動隊の暴力も激しさを増していった。

 またマスコミは、機動隊の暴行を伝えなかった。作家の中野重治は、「新聞もラジオも、60年のときに比べられぬほど自己規制でひどい場面を避けていた」と記した。神田で機動隊に暴行された青年労働者は、こう述べていた。「NTVのカメラの人、おれたちがなぐられているところを撮ってくれ! と叫んだが撮らないんだ。この野郎と思ったね」。(943頁)


ふと思う。

ミャンマーの軍事政権が市民に暴力をふるう映像だったら、
日本のマスコミは喜んで使うだろう。

中国政府が市民に向かって暴力をふるう映像も、そうだろう。

では、日本の警察や機動隊が市民に暴力をふるったら、どうか?

ここでは見事に「自己規制」がはたらいて、
まったく取り上げようともしないのである。

たとえば、「麻生邸拝見ツアー」の弾圧事件でも、
誰がどうみても不当逮捕で、権力の濫用だったにもかかわらず、
日本の主要メディアはこの事件をほとんど無視した。

そんないびつなメディアに影響されているのか、
中国政府による市民弾圧のことは批判するくせに、
日本の市民が弾圧されると「プロ市民」などと呼んで市民の方を非難する、
というワケのわかない「右派」がいる。

なんともおめでたいひとたちである。








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