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zoom RSS 小熊英二『1968【上】』(新曜社)@

<<   作成日時 : 2009/10/24 03:28   >>

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先日、恩師に会った。

恩師というのはわたしの小学校1年生のときの担任である。

恩師とは現在も懇意にさせていただいているが、
わたしにとって数少ない尊敬できる大人のひとりである。

恩師にお会いした際、わたしは聞いてみた。

「先生、いまどんな本を読んでいるのですか?」

すると先生はおもむろにカバンのなかから、この本を取り出したのである。

小熊英二『1968』新曜社。

驚いたわたしも、すぐに自分のカバンのなかから、同じ本を取り出した。

40歳も年が離れている恩師とわたしだが、同じときに同じ本を読んでいたのである。

恩師とわたしのつながり。

同席していた他の同級生たちには味わうことのできなかった至福の瞬間である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


すでに相当に話題になっていると思われるこの本は、
上巻1000ページ、下巻1000ページ、合計2000ページの大著である。

1冊だけでも電話帳のように大きいので、持ち歩くのがとにかく大変だった。

ただしボリュームはものすごいが、内容は決してむずかしくない。

エピソードの紹介が多く、やたらと引用が多い。

「1968年」。

あの時代を生きたひとびとは、何を考えていたのか?

あの時代は何だったのか?

膨大な資料を駆使して「あの時代」を照らし出し、
そこから「現在」を逆照射していくのが、本書のねらいである。

わたしの知り合いの何人かもこの本に登場するので、
彼らに直接感想を聞いてみたい思いがする。

この本は相当な分量なので、ていねいに拾い読みすることはできない。

適当におもしろいところを拾ってみることにする。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


まず、敗戦直後の日本はどのような状況だったのだろうか?

……1948年版国際連合極東経済調査によれば、日本の国民1人あたりの推定所得は100ドルであった。同時期にアメリカは1269ドル、セイロン(のちのスリランカ)が91ドルであり、日本はアジアの発展途上国だった。(100頁)


敗戦直後の日本が貧しかったことはもちろん知っていたものの、
スリランカと同程度の経済レベルだったというのは驚きだ。

その後の日本は急速に高度経済成長を遂げていくのだが、
1960年代の日本は、どのような状況だったのだろうか?

経済成長を遂げているとはいえ、
いろいろな意味で現在とはおよそ異なる状況だったようだ。

 しかも、当時の都市部には娯楽施設などが十分になかった。新宿東口には歌舞伎町の歓楽街ができはじめてはいたが、新宿西口は浄水場と草原しかなく、渋谷は現在の公園通りから先は野原だった。1960年に行なわれた調査では、余暇時間をすごす娯楽施設がないことから、「代表的レジャーは『寝ジャー』ともいわれるゴロ寝であり、あとはせいぜい雑談か、読書、ラジオ、テレビ視聴など」にとどまっていた。(37−38頁)


数十年前の新宿駅前や渋谷駅前の写真を見たことがあったので、
それを思い出しながらこの記述を読んでいた。

当時は現在のように娯楽がたくさんあった時代ではなかった。

しかも、1966年の大卒平均初任給は2万5000円弱だったから、
海外旅行などは夢でしかなかったという。

子どもたちはどのような遊びをしていたのだろうか?

 「戦争ごっこ」をはじめ肉体をぶつけあう遊びは、テレビや玩具が普及していなかった彼らの幼少期には普通だった。(115頁)


「戦争ごっこ」!

最近、少年犯罪が起きると、
すぐにテレビゲームの悪影響だと言い出す大人が多いが、
当の大人たちが子どものときは「戦争ごっこ」をしていたという。

また、このころは戦争の記憶がまだ生々しい時代であった。

教師たちの多くは戦争体験者だった。

その教師は自己の戦争体験を語り、「我利我利亡者にはなるな」と説き、「広島に原爆が落ちた時、日本人たちが我先にと他人を突き飛ばしたり、置き去りにして逃げまどっている間、働けない人を肩に負って、歌を唄いはげましあいながら整然と行進していたのが、日頃彼らが軽蔑していた朝鮮人たちであった」というエピソードを授業で教えた。(41−42頁)


こういうエピソードは、もうほとんど語られなくなったのではないか?

語られなくなったので、忘れられていった。

忘れられていけば、勝手に歴史を書き換える連中が増殖する。

アニメ監督の宮崎駿は、戦後のマンガについて次のように述べている。

 「第二次大戦に負けたときにね、通俗文化は変わらざるを得なかったんですよ。戦争に負けた本人が、偉そうに出てきたら許せないんですよね。だから戦争に負けたあと『まぼろし探偵』ぐらいまでは、本当に少年が主人公だったんですよ。それで『鉄人28号』の金田章太郎なんかも署長さんより賢いわけでしょ? それを子供が受け入れたっていうだけじゃなくてね、大人のほうも、少年のほうが無垢で、だから敗戦の責任持ってませんから、主人公にしたんですよね」。(111頁)


他方、教育の現場では、保守政権による弾圧が強まっていた。

高度成長が始まる1950年代後半から、保守政権による学校教育への「反動化」攻勢が強まった。1956年には、敗戦後の改革で導入された教育委員会の公選制が廃止され、任命制に変更された。57年には、学校長に教師たちの思想内容や勤務状態を評定させる、勤務評定実施が通達された。日本教職員組合(日教組)は、この勤評に総力を挙げて抵抗したが、阻むことはできなかった。(42頁)


今でもそうだが、右翼は日教組をいつも批判する。

なぜか?

それは、教師に対する思想弾圧・管理強化を進めたいからである。

つまりファッショ化を進めたいからである。

最近調子に乗って「日教組批判」をしている無知な若者がいるが、
彼らは自分たちの言っていることの意味が何ひとつ分かっていない。

おぞましい状況である。

無知は怖ろしい。

さて、当時、サラリーマンのイメージも変化していったという。

「事務職」も、昔よりは地位が低下していた。1950年前後までは、「サラリーマン」は「インテリ」の同義語とされるほど、社会的地位の高い職種だった。しかし1967年に社会学者の見田宗介が、高校生たちの職業観を調べたところ、高校生たちは「サラリーマン」のイメージを以下のように形容した。「安月給」「夢がない」「同じことのくりかえし」「人に頭をペコペコ下げる」「仕事に情熱をもっていない」「停年、これが一番みじめ」。(52頁)


このイメージは、学生運動が高揚していく背景となっていった。

1968年の『朝日ジャーナル』には、ある中学生の匿名投書が掲載されていた。

……きのう私の友だちがベトナム戦争の写真がはってあるところに、ベトナム戦争反対という紙をはったら、先生が「反対」のところだけ取れと言いました。戦争に反対することは人間の義務であり、決して悪いことではないと思うのですが、どうして「戦争反対」ということを書くのがいけないのでしょうか。社会の教科書には「戦争を防ぐの世界の人民の責任なのである」」と書いてあります(日書・『社会』)。いったい人民に中学生ははいるのでしょうか。……教育者ならば、「悪い」という根きょを説明してほしいものです。……住所も、氏名も書くと、ぼくの身があぶなくなりますので書けません。まるで軍国主義の国にいるようです。(55頁)


大人は矛盾している。

子どもたちはそれを見逃さない。

 こうした政治状況は、受験競争と同様に、若者たちに「大人はいうこととやることがちがう」という不信感を生んだ。(65頁)


では、学生運動に参加した当事者たちは、どのような意識を持っていたのか?

1947年生まれで東大全共闘に参加した小阪修平は、2006年の回想記で「高校生までの自分が受験体制に無自覚にのっかっていた」ことの「後ろめたい意識」を述べ、全共闘運動参加以前の活動をこう述べている。
 「セツルメントというサークルがあった。いまでいうボランティア活動なのだが、貧しい家庭の子弟の勉強をみたりする活動だった。その底にはおおげさにいうと贖罪意識さえあったのだと思う。自分が社会的エリートの道を進んできたことが貧しい人びとを踏み台にしてきたかもしれないことへの贖罪感であり、それを生み出したのは戦後民主主義の平等主義であった」。
(71頁)


先ごろ亡くなった小阪修平の証言によると、
正義感の裏には贖罪意識もあったのだという。

やがて全共闘運動は「戦後民主主義」を批判していくのだが、
この運動自体が「戦後民主主義」の産物だったというわけだ。

ところで、よく「全共闘世代」という言い方をするが、
これは適切ではないと著者の小熊英二は述べている。

というのも、運動に参加した学生はじつはそれほど多くはなかったからである。

 同世代中多く見つもっても4〜5%しか「全共闘体験」がないなら、「全共闘世代」という呼称は当然不適切である。この呼称は、全共闘運動体験者が大卒のエリートで、のちにマスコミ上で発言する機会をもてた人間が比較的多かったために、生まれた言葉だったと推測できる。(95頁)


逆に、「全共闘世代」のなかには、大した運動の経験もないくせに、
「自分たちは権力に異議申し立てをしたのだ」などと
若者に向かって「武勇伝」を語りたがる連中も生み出した。

ともあれ、こうした著者の捉え方には、反発を抱くひともいるかもしれない。

高度経済成長期の日本では、ひとびとの意識も大きく変化していった。

その典型が「恋愛観」である。

1973年のNHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査によれば、婚約ないし愛情があれば婚前に性交渉をしてよいという回答が、婚前は性交渉をすべきでないという回答をうわまわるのは、女性については1950年生まれあたりからだった。(125頁)


「団塊世代」は人口が多かったために、大学に入学する人数も大幅に増加した。

語学のクラスさえ1クラス70人で編成され、語学以外の授業は定員400人から700人の講堂で行なわれたが、それでも座席は奪いあい状態だった。(127頁)


ものすごい規模である。

1967年4月の『慶應義塾新聞』には、次のような話が出ているという。

「……『席がないのだがどうにかしてくれ!』と教務部に直接訴えたS君に返ってきた回答は、『例年4月は出席者が多く教室から溢れるかも知れない。が、秋までには出席者がぐっと減り大丈夫』というものだったという」。(127頁)


当時の授業は「マスプロ授業」と呼ばれた。

67年4月の『慶應義塾新聞』は、教授側に「マスプロ授業→講義を熱心にやる気がない→講義のマンネリ化」という悪循環が生じ、そしてそれが学生側に「マスプロ授業→学問的興味がわかない→さぼる」という悪循環を生んでいることを指摘している。(128頁)


「団塊世代」のひとたちは、若者によく説教をする。

「個性がない」。

「自主性が欠如している」。

「自立していない」。

では、その彼らが若者だったとき、彼ら自身はどう見られていたのだろうか?

大学受験に母親が随伴し、お茶や弁当をあてがう風景は、60年代半ばから普通のこととなった。……
 1967年の報道は、「大学生が子供っぽくなり、大学が幼稚園化した」「今日の大学生は、まぎれもなく、過剰保護、温室栽培によって育てられた人間である」と形容している。教授たちは、大学進学率の低かった時代の、社会のエリートとしての自負をもった大学生たちをなつかしんでいた。教授たちには、60年代半ば以降の学生たちは、何の目的もないまま入学してきた、無気力な「現代っ子」としか映らなかった。(132頁)


おお、驚きだ。

当時、「団塊世代」自身が「甘ったれた若者」として非難の的になっていたのである。

そして彼らはいま、若者に向かって「甘ったれている」と説教をしている。

著者は、東大の教養学部講師だった杉本敏夫の文章を引用して、
当時の大学生たちがどのような若者だったのかを示している。

@まず過保護児童である。教育熱心な母親に育てられ、精神的離乳ができていない。これはたいへん子供っぽいということになるであろう。
A優等生的である。小学校のころから成績はよく、優等生として自他ともに認め、親も自慢の種で「先生のお気に入り」であった。
B忍耐度が低い。人生的失敗の経験は浪人をしたことがあるかどうかくらいなもの。順調な人生行路だから当然がまんなどなく、忍耐力はないということになるのであろう。
C共感能力が低い。自己中心的である。(135頁)


幼稚で忍耐力がなくて自己中心的!!

「団塊世代」の連中に説教をされたら、
これらの言葉をそっくり彼らに投げ返して差し上げてもよいのではないか?

それだけではない。

「(1)大学を就職のための道具とみるような誤った大学観を抱いていること、(2)教えられたことを暗記することが、すなわち学問をすることであるというような態度を身につけていること、(3)思慮、判断がせまく、浅薄であること、(4)人生観や世界観形成のための思索に乏しいこと、(5)倫理的な意識が低調であること、(6)主体性に欠けていること、(7)責任感が乏しく、権利の主張が強いこと、(8)先生に対する信頼感が希薄であること」。(137頁)


「団塊世代」の学生時代というのは、こんなありさまだったのである。

他方、当時の学生自身は別の実感を持っていた。

アメリカの社会学者デヴィッド・リースマンは、
アメリカの学生叛乱について次のように述べている。

……「コロンビア〔大学〕・デモの指導者」……が、「君は、いったい何を求めているのか?」と聞かれたとき、彼が何と答えたと思いますか。
「われわれは、人間であることを求めているのだ。われわれは、人間として扱われることを望んでいるのだ」
というのが、そのときの答えだったのです。(159頁)


これと似た感覚を、日本の学生たちも抱いていたという。

著者は『べ平連ニュース』に掲載された中学生の投稿を紹介している。

「われわれは、アフリカのチンパンジーである。人間につかまえられ、3年間芸を訓練され、一番上手なものは世界的大サーカスへ、以下順番に各方面に配給される」。……「我々は、人間として生きたい。人間として生きたい」。
 このような不満は、……飢餓や貧困、戦争といった「近代的不幸」しか知らない年長者たちには、理解しがたいものであった。……彼らは、若者たちを閉塞感に追いやっていた「現代的不幸」が理解できなかったのである。(160頁)


小熊英二は、「不幸」を2種類に分けている。

飢餓や貧困などを「近代的不幸」と呼び、
それに対して当時の若者が直面していたのが「現代的不幸」だったと区別している。

では、「現代的不幸」とは、どのようなものだったのか?

それは後に明らかにされる。









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