フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 小熊英二『1968【下】』(新曜社)A

<<   作成日時 : 2009/10/29 12:35   >>

トラックバック 0 / コメント 0

1965年、米軍による北ベトナム爆撃の直後のこと。

その後の市民運動に大きな影響を与えることになる
ベ平連(「ベトナムに平和を! 市民連合」)が結成された。

当時の活動家たちの胸に響いたのは、
おそらくチェ・ゲバラの「第2、第3のベトナムを!」という言葉の方だっただろう。

それに対してベ平連は別の運動方針を持っていた。

彼らのスローガンは、つぎの3つだった。

「ベトナムに平和を」

「ベトナムはベトナム人の手に」

「日本政府は加担するな」


運動形態も当時としてはユニークなものだった。

 ベ平連は規約や綱領、会員登録などをもたず、市民各自が自発的に自由参加・自由脱退できた。ベ平連の一貫した主張は、「ベ平連は組織ではなく運動である」ことだった。ベ平連には「会員」も正規の役職もなく、個人がベ平連の主旨に賛同してベトナム反戦活動を行なえば、そのときそこに「ベ平連」の「運動」が成立するというのが彼らの考えだった。個人の自発性を尊重する考え方は、「個人原理」とよばれてその後のベ平連に定着する。(312頁)


「ベ平連の3原則」というのがある。

@ 何でもいいから、好きなことをやれ。

A 他人のすることにとやかく文句を言うな。

B 行動を提案するなら、必ず自分が先にやれ。


従来の「組織」に見られるものとは明らかに異なる運動原理であった。

……ベ平連はゲバ棒をかざす三派全学連とは別に、非暴力のデモや集会を行なった。王子でもベ平連の旗を先頭に「どこへも入るところのない人、いっしょに歩きましょう!」という文言が掲げられ、「ベ平連ですか? わたし、高校生なんですけど入っても、いいですか?」という女子高生、ベ平連の女性に「オレにも、あんたくらいの娘がいるんだ。……野戦病院つくるなんてこと反対だからよ、こうやって女房と来たんだよ」と述べる中年男性などがデモに参加した。ベ平連はこうして、「ヤジ馬」を「市民」に変え、叛乱する学生たちの後衛をつくる役割をはたしていた。(356−357頁)


入りたいひとは誰でも入れる、という自由な方針だった。

ベ平連の中心人物の吉川勇一はこう書いている。

「……ベ平連は、だれが通り抜けようと、卒業しようと、別に『裏切り者だ』とか『日和見』だとか非難したことはないし、またそんな組織ではない」。(369頁)


市民運動はヤクザや暴走族ではない、といったところか。

もちろん、ベ平連を「生ぬるい」と非難する者もいた。

「彼等〔解放戦線〕は命を賭けて闘い、そして僕達は〔穏健な〕デモをやり金や薬を送ろうとしている〔前述の「平和の船」の企画〕のだ! 僕達は、恥を知らねばならないのではあるまいか」。(373頁)


活動家たちにとっては、「闘い」は「命がけ」のものであるべきだったからだ。

ところで、ベ平連といえばやはり脱走兵事件だろう。

横須賀に寄港していた米軍空母イントレピッドから4人の水兵が脱走し、
ベ平連の援助で国外脱出に成功した事件のことである。

勇気ある脱走兵たちが出した声明文にはこう述べられている。

「軍事的大量虐殺の支持を拒否する」ために「正しいと信じるから行動した」……。「もし逮捕されれば、私は自分の行動と信念のために、投獄されるでしょう。ある人は、私を反米主義者とか共産主義者とか呼ぶでしょう。……私は自分の正しいと信じることのために行動した一アメリカ人にすぎません」。「私はアメリカ人である。二度とそこにもどれないだろうと思えば、アメリカにおける未来や友人や家族を離れることは心痛むことである。だがもし、この戦争を終わらせ、アメリカに良識をとりもどすためにそれしか方法がないというのなら、私はみずから進んで共産主義者のラベルをはられようと思う。わが憲法の精神に勝利あれ」。(340頁)


脱走兵たちは、ソ連経由で中立国スウェーデンに入国した。

米軍に徴兵され、ベトナムに送られた日本人留学生が、
脱走してベ平連に援助を求めてきたという事件もあったという。

ところで、この脱走兵の事件について、
ある「裏話」をこっそりあるひとからわたしは教えてもらった。

ここには詳しく書かないが、わたしにはとても驚くべき話だった。

その話については、もちろん本書には記されていない。

さて、このころ、フォーク・ゲリラも登場する。

 関西のフォーク部隊が東京にやってきたのは、12月28日のデモだった。このデモは、警察側の交通規制という口実を逆手にとり、届出のさい「絶対にジグザグデモをせず、交通を妨害せず、商店に迷惑をかけず、2列になり、花束をもってベトナム戦争反対・米タンク車通過反対を訴えるでも」という「至上最も長い名前」がつけられた。(401頁)


こういうのはユーモアがあって好感がもてる。

では、ベ平連はどうして「ふつうの市民」の間に
急速に支持を広げていくことができたのだろうか?

吉川勇一は後年こう述べている。

 ……原水禁の事務局の人が僕に会いに来て、ベ平連はずいぶん発展しているようですけど、原水禁を発展させるためにはどんなふうにベトナム問題をとりあげたらいいかご意見をうかがいたいと言った。僕はもうあきれかえって、その質問自体がまったくナンセンスだと自覚してもらいたい、ベトナム反戦運動を成功させるために原水禁に何ができるかという質問だったら喜んで答えようと言ったんです。原水禁という組織を発展させるためにベトナム問題をどう取りあげるか、悪く言えばどう利用するかなんて発想だからだめなんだ、目的のために運動や組織があるのであって、組織の維持発展のために問題をどう利用するかなんて発想は本末転倒です。……(443−444頁)


厳しい組織原理をもっていたのではなく、
ゆるやかな運動原則を保持していたことも大きな要因だっただろう。

機動隊の妨害にも負けなかった。

 この日、機動隊がベ平連のデモ隊を通したのは、宣伝車から吉川がマイクでこう叫んだためだったという。「機動隊の諸君、不法な弾圧をやめなさい。私たちベ平連は日本国憲法に定められた当然の表現の自由を行使しようとしているにすぎません。諸君らは、このデモを妨げる何らの権限もない。そこをどきなさい!」。
 当時の評論は、こう記している。「いつもは機動隊の装甲指揮車から『こちらは第×機動隊です。そこをどきなさい!』としばしばでもの市民たちがやられているが、これは全く逆の光景。そればかりでなく、隊列をととのえたデモ隊は、機動隊のジュラルミンのタテの列に立ち向かって、『私たちは、許可された規定のデモコースを進みます』と、進んでゆく。機動隊は、しぶしぶと道をあけた。とたんになりゆきを見守っていた群衆から拍手。『いいぞ! ベ平連!』」。「みんな催涙ガスでぼろぼろ涙を流しながら、胸をはって進む。苦虫をかみつぶしたような顔で延々と並ぶ機動隊の列の前を、小田実のシュプレヒコールで叫びながら、堂々と進む。まさにその時こそ、日本国憲法が、さえざえと健康的息吹を、やっと取りもどした瞬間であった」。(432−433頁)


しかしベ平連は思わぬ事件に巻き込まれることになる。

『ベ平連ニュース』の記事は、こう記している。「いつも見る私服〔刑事〕のおじさんまでもが、先頭にたっている。おそれていたことはついに起こったのだ。その私服はいつも歌のグループの中にいた。そして『デモへ行こう!』と呼びかける。ことによるとまず石を投げ出したのも彼かもしれない」。
 この後は、地下広場は混乱と恐慌の渦となった。機動隊員がフォーク・ゲリラや市民を殴りつけ、催涙ガスの煙で広場はかすみ、交番は投石で破壊された。
 翌日の新聞には、「交番をこわそうとして逮捕されたフォーク・メンバーの少年の左手にはギター、右手には鉄パイプがしっかりと握られていた」という、おそらく警察発表をもとにした「見てきたような嘘」が掲載され、その朝にはベ平連事務所は警察の家宅捜索をうけた。実際には、この日逮捕されたフォーク・ゲリラのメンバーはおらず、むしろ彼らは交番の破壊を止めようとしていたという。(422−423頁)


「暴力集団“ベ平連”」のイメージ作りが行なわれようとしていたわけだ。

この事件を実際に目撃したひとが、新聞に投書している。

69年8月1日の『読売新聞』には、39歳の会社員女性による以下の投書が載った。

 26日夜10時ごろ、新宿駅西口で警視庁の交通規制の場面に遭遇しました。西口地下広場を埋めつくした機動隊員の数にも驚きましたが、隊員の行動の乱暴なのにさらにびっくりしました。ひとりの青年が機動隊に近づいて何やら抗議めいたことをいうと、いきなり隊員のひとりがその青年の手首をつかんでひきよせ、まるでこれが合い図であるかのように十数人の隊員が、さっと青年を取り囲み、人がきの中でなぐるけるの暴行を加えていました。まるで問答無用の私刑です。
(424頁)


権力というのは汚いことをする、とあらためて思う。

またこんな話もある。

『ベ平連ニュース』に掲載されていたという話だ。

 ……とくに高校生への圧迫はひどく、デモ参加高校生の自宅へ刑事がくる、学校に氏名を通告する、などの報告が多く、ひどいところでは、その高校生の父親の職場の上司に警察が通報する(佐世保等)などの例もあります。(427頁)


権力というのは、本当に薄汚いマネをするものである。

当時の報道は、こう伝えている。「警視庁でベ平連のお目付け役をおおせつかったあるベテラン刑事が、全国の○○ベ平連の資料を集めて組織図を作ろうとしたら、『ひとりベ平連』とか『ベ平連アスナロウカ』とか、『ベ平連孤人』『レディ・ベ平連』など人を食った名前が次々と出てきて、やる気をなくしてしまったという」。(446頁)


このエピソードも今後の市民運動に大いに参考になる。

どんどんみんなでワケのわからない名前を名乗って、警察を混乱させる。

うん、なかなかよい。

他方、メディアも、連日デモを繰り広げる市民運動を批判していたという。

これに対して、吉川勇一が反批判を述べている。

現在の風潮に対する批判にもなっているので、一読の価値がある。

 吉川は69年夏の「ベ平連とは何か――規成〔ママ〕の枠組みではとらえきれぬもの」と題した評論で、マスコミの創る〈健全な市民運動像〉を批判して、こう述べている。

 このようにつくりあげられ、強制されていた市民運動像というものは、極端にいえばこんなものだろう。デモがある。そこに全学連はいない。いや、いてはならない。労組もいない。高校生はいてもいい。しかしその高校生は「反帝高協」や「反戦高協」などというゲバ高校生ではなく、ノンセクト・モデレート、若さと明るさと純真さとをこねあげたような、ちょうど石坂洋次郎の『青い山脈』や『山の彼方に』の主人公たちのような純粋培養無菌型高校生でなければならず、そのほかにいてもいいのは、主婦であり、大学教授であり、作曲家であり、評論家であり、医者であり、そして庶民を代表するものとして薬屋の若旦那とか八百屋の亭主ぐらいが加わればなお結構、お婆さんなら大歓迎といった構成である。この集団は赤旗を決してもたず……機動隊との衝突などもってのほか、緑の腕章を巻いた交通整理の巡査とニコニコ話しあいながら、ビルの谷間を自動車ラッシュにもまれながら整然と歩く――まずこんなものである。
 こうした反戦市民運動なら、害がないどころか、政府にとってもマスコミにとっても、日本に平和憲法が存在し、言論・結社の自由があり、民主主義が保障されていることの証左としてむしろ必要なものだったのだろう。だが、現実の市民運動も、ベ平連も、そういうものではなかった。為政者のコンピューターの中に最初から組み込まれていたパンチカードとは穴が違っていたばかりか、用紙の厚さまで違っていたのである。
(435頁)


ごくごく真っ当な反批判だ。

勢力を拡大していくベ平連に対して、
これを苦々しい思いで見つめていた保守派は、お得意の妄想を展開していたらしい。

とてもおもしろいので、じっくり読んでみていただきたい。

 まず保守系の論者は、ベ平連の背後には、ソ連など社会主義国による秘密資金援助があると考えた。……「ベ平連関係者が東京マミアナのソ連大使館に足しげく通っており、在日大使館員のカンパ者とは、ソ連大使館関係者であろうことは想像に難くない」。(448頁)


おお、背後には「ソ連」がいると?

右派お得意の「陰謀論」である。

こんなのもある。

「小田実氏とアナーキストの有力リーダーである岩佐作太郎氏とは従来から親しくしており、小田氏は“アナーキスト礼賛”を書いている」……。(448頁)


おお、小田実がアナーキスト?

それだけではない。

ベ平連は「市民運動に名をかりた市民社会への挑戦」であり
「かげには共産主義者の指導」があるだとか、
じつは共労党がヘゲモニーをとっていただとか、
的の大きく外れた「説」がまことしやかに語られていたという。

右派・保守派の性質と能力を理解するのに、とてもよい「事例」だと思う。

現在も、ネット上で的外れな陰謀論を語りたがる連中がうじゃうじゃいる。

「年越し派遣村」でさえ、その背後には「黒幕」がいる、
などといった幼稚な「推理」が行なわれていた。

右派・保守派って、本当に頭がわるいなあ。

結局こうしたベ平連の「黒幕」探しは、いずれも見当はずれだった。(449頁)


当然である。

 一方で、警察や学校などでの弾圧や締めつけは、いっそう厳しさを増していた。令状なしで花束の中身まで調べたり、高校生のデモ全員の顔写真を刑事が撮影したり、デモ隊側が警察官を撮影するとフィルムの「任意提出」を求められ、拒むと「公務執行妨害」で逮捕されるなどは日常茶飯事となった。また地方では、青森県のある高校で図書館にあった小田と小中の共著『反戦のすすめ』が校長の命令で焼かれたり、鹿児島では「女子高校生がベ平連運動はふつうの政治運動ではないのだから参加させて欲しいと投書したところ、学校が筆跡鑑定までして探し出し、始末書をとった」といった事例がでていた。(472−473頁)


右派・保守派のやることはものすごいぞ。

なんと焚書!

ほとんど全体主義社会である。

……総会屋たちは「ベ平連のチョーセン野郎!」と罵声を浴びせたという。(485頁)


こんなことを言って、恥ずかしくないのだろうか?

最近でも、右派がこのような罵声を市民に浴びせかけることがある。

結局こういう連中は「総会屋」レベルだということを物語っているわけだ。

さて、ベ平連は卑劣な弾圧にも負けず、闘いをつづけていった。

たとえば、1970年の大阪万博に対抗して、「ハンパク」を企画したという。

 この「ハンパク」は、関西ベ平連が、69年2月の全国懇談会で提案した企画だった。その趣旨は、政府が安保条約改定から民衆の目をそらす国家事業として開こうとしている70年の大阪万国博覧会に対抗し、市民による反戦博覧会を開催しようというものだった。(451頁)


大阪万博は、あの『20世紀少年』に出てくる「あれ」である。

漫画では「ハンパク」はまったく触れられていない。

ではなぜ大阪万博に対抗しようとしたのだろうか?

「万国博は、人民不在のなかでの近代文明のにせの祭典だ。そこには、無名の人間の文化的創造を入れる余地はない。『人類の調和と進歩』を目ざすと言いながら、現実の不調和と野蛮には目をつぶる。世界の中の貧困、人種間の不調和、差別、原水爆と人間の未来、ベトナム戦争、そうした現実の問題はみな避けて人類の未来のバラ色の未来を語ろうとする」。(452頁)


なるほど。

きれいごとで済ませようとする権力者たちに対抗したのである。

では、「ハンパク」ではどのような展示を行なったのだろうか?

……奈良のハンセン氏病リハビリ・グループがハンセン氏病差別の歴史と実態を訴えたテント館「ライの家」や、福岡ベ平連が九大に墜落した米軍戦闘爆撃機の機体の一部を秘密裡にハンパク会場にもちこむなど……。(454頁)


ほかにもまだあった。

パネル展示によるキャンペーンは三里塚闘争、大村収容所解放闘争、家永裁判訴訟など……。(455頁)


こうして「ハンパク」は、
「人類の調和と進歩」という美名のもとで何が行なわれてきたのかを暴露した。

また東京のベ平連は、
軍需産業への「一株株主運動」というユニークな運動も展開した。

この運動は、アメリカの弁護士ラルフ・ネーダーが発案したもので、市民運動家が一株を買って株主総会に出席し、企業の責任を追及するものだった。
日本でも水俣病患者団体が、有機水銀汚染源の会社チッソに「一株株主」として総会にでて、経営陣を追及する運動を行なっていた。(482頁)


路上でデモをするのも大事である。

ただ、それだけではない。

多様な運動形態が考案されていった。

72年12月に、吉川はこう述べている。「ベトナム和平が達成できれば、ベ平連は掛け値なしに解散したほうがいいのだ、と私は考えている」。「目的があって、それに見合う運動や組織がつくられるので、逆ではないことは、だれしも認めるのだが、実際は往々逆転している。『この組織を維持・発展させるためにはベトナム問題をどうとりあげたらよいか』などという発想をする組織人があまりに多すぎ、それが運動を腐敗させてきたのである」。(496−467頁)


「組織」は、幹部の指示・命令に従って動くものである。

それに対して、市民運動は、ゆるやかな結合体として機能していく。

ベ平連は、その後の市民運動にも大きな影響を与えた。









テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
小熊英二『1968【下】』(新曜社)A フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる