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zoom RSS 広井良典『定常型社会』(岩波新書)C

<<   作成日時 : 2009/09/10 09:31   >>

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経済はグローバル化を進めてきた。

モノ・ヒト・カネ・情報が国境を越えて活発に移動するようになった。

グローバリゼーションの時代とは、市場がグローバルになった時代のことだ。

とするなら、市場のゆがみを正す仕組みもグローバルに構想されなければなるまい。

……今後は「地球レベルの社会福祉」ないし「地球レベルの福祉国家」ということを考えていく必要があるし、“世界政府なき世界市場”が形成されつつあるという現状を踏まえれば、それは現時点ではいかに空理空論のように響こうとも、原理的には必然的に要請されるシステムなのである。(141頁)


これは、「資源の分配」をめぐる問題である。

ここであらためて「定常型社会」の定義を明確にしておこう。

定常型社会という社会像にはどのような意味があるのだろうか?

著者はそこに3つの意味がありうると言う。

 第一は、「マテリアルな(物質・エネルギー)の消費が一定となる社会」という意味での定常型社会である(「脱物質化」としての定常型社会)。(142頁)


そのためには環境効率性の高い社会にしていかないといけない。

 定常型社会の第二の意味ないし定義は、「(経済の)量的拡大を基本的な価値ないし目標としない社会」というものである。(144頁)


経済の量的拡大は、もはやひとびとの「豊かさ」「幸福」につながっていない。

 第三は、「〈変化しないもの〉にも価値を置くことができる社会」という意味での定常型社会である。ここで〈変化しないもの〉とは、たとえば自然であるとか、コミュニティであるとか、古くから伝わってきた伝統行事や芸能、民芸品等々といった意味である。(142−145頁)


この論点は意外に思われるかもしれないが、
「経済成長路線」というのは「スピード化・効率性重視」の社会だったことを考えると、
「歩く速度」をゆるめるという方向性が求められるわけだ。

これに関して、理系のひとたちにはよく知られている話を著者は取り上げる。

ちなみに生物学者の本川達雄は、いま述べた点に関し、次のような示唆に富む議論を展開している。様々な動物の寿命と体重及び心臓の拍動数を比較すると(たとえばゾウとネズミ)、一生の間の心臓の拍動数がほぼ共通している(約150億回)という興味深い事実が発見されるが、そこから導かれるのは「エネルギー消費」と「時間の速さ」が反比例の関係にあるという点である(体の大きさに対してエネルギー消費の大きい動物ほど時間が速く進む)。ところが人間という生き物の場合、本来の必要量を大幅に上回るかたちでのエネルギー消費を行い、それによって「時間」の速度を速めてきた。考えてみればほとんどの工業製品は何らかの意味でスピードを速めることと関係しており、こうした視点からすると、「ビジネスとはエネルギーを使って時間の速度を速める活動」と理解することができる(まさに「ビジネス」=busy+ness)。「エネルギー→時間→金」という変換を行うのがビジネスということになる(まさに「時は金なり」)。(149頁)


スピード化をゆるめるという方向性に不安を抱くひともいるだろう。

スピード化をすすめてきたことで「経済成長」を果たしてきたからである。

しかし、まさにその「経済成長路線」が問われているのである。

交通輸送機関が高度に発達し、移動時間はますます短縮されている。

コミュニケーション手段が発達して、効率化が進められている。

では、それによってわたしたちはどれほど豊かになったというのだろうか?

移動時間が短縮されたことで、余裕やゆとりが増えたのではなく、
さらに仕事量が増えてどんどん忙しくなっていくばかりではないか?

非正規労働者の間でさえ「過労死」が発生しているありさまである。

現代社会の時間は、生物的に相当な無理を強いるものだ。

だから、個人がじぶんの時間を取り戻すところに「豊かさ」を実現する、
そういう可能性をひらいていくところに「定常型社会」の意味がある。

それは同時に、個人の「機会の平等=潜在的な自由」ということを価値原理とするような社会保障制度が備わった社会であるべきものであり、したがって、個人の生活保障がしっかりとなされつつ、環境・資源制約の中で長期にわたって存続しうる経済システムという意味で、「持続可能な福祉国家/福祉社会」と呼びうる社会の姿なのである。(161頁)


こうした方向性は、GDPなどの統計・数値では測ることのできない
「非貨幣経済」「非営利活動」の領域をも積極的に評価していくことになる。

では、どうしてこうしたことが進んでいくのだろうか?

それは、ひとびとの「消費」のあり方が変化してきたからである。

つまり端的に言えば、「物質・エネルギーの消費」が中心の時代から「情報の消費」さらに「時間の消費」――ひいてはコミュニティや自然など「根源的な時間の発見」への志向――が中心の時代になってくると、「私利の追求」のみをインセンティブとするような経済システムが十分に機能しなくなってくるのではないだろうか。(175頁)


「経済成長さえすれば、すべての問題は解決されるはずだ」
というのがこれまでの多くのひとびとの考え方だった。

「失業率も所得格差や地域間格差も、すべて経済成長が解決してくれる」
というのがこれまで誰もが疑わなかった考え方だった。

たしかに、価値の選択や「パイの分配」のあり方をめぐる議論、ひいては「平等」や「公平」に関わる原理的な議論などはできればしないですませたいかもしれない。しかしそうした議論を避け、“景気対策”の名のもとに「成長」に解決をゆだねる政策を続けていては、結局は赤字を拡大させ、ツケを将来世代に回していき、破局に至るだけである。(176−177頁)


ツケを将来世代に回しているのは、財政上の赤字だけではない。

わたしたちが大量に消費している地球資源も同じである。

わたしたちが有限な地球資源を大量に消費するのは、
将来世代が利用できる資源を奪い取っていることになるからだ。

いずれにしても、これらは「成長に代わる価値」を現在の日本社会が見出せないでいる、という点に集約されるものだ。つまり一方で、「成長」をほとんど唯一の目標とし(会社人間等となって)“直線的な上昇”を生のよりどころとしていた世代は目標や価値の喪失に立ちすくみ、他方で若い世代は、物質的な豊かさの中で、本文でもふれたような「生の全体を意味づける価値」あるいは「生きていることのリアリティ」といったものを見出しかねてとまどい、方向を見失いかけている。(187頁)


「生きていることのリアリティ」の喪失という主題は、
現代のひとびとのあり方について最近よく言われていることである。

「経済成長の神話」からわたしたちの思考が解放されるとき、
「定常型社会」という新しいコンセプトがたちあらわれてくるのである。







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