フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 広井良典『定常型社会』(岩波新書)B

<<   作成日時 : 2009/09/09 10:07   >>

トラックバック 0 / コメント 0

ふと思う。

こうしたテーマで記事を書くと、ネット右翼の諸君からの書き込み、いやがらせが来ない。

なぜなのだろうか?

彼らには理解できない内容だからなのか?

あるいは、自分の頭でモノを考えられないからなのか?

これはじつに興味深い現象である。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


近代資本主義は、経済成長していことでその信者を増やしてきた。

しかし、このまま経済成長・経済発展をつづけることはむずかしい。

そこで再検討されなければならないのは、「成長」という価値である。

まず、著者は、経済学のパラダイムを3つに分けている。

【A】近代(17〜18世紀)

・ 「欲求(私利)」の肯定、「倹約は美徳」の否定、消費こそ善
・ 「共同体」から「市場」へ
・ 「価値」(労働価値説)
・ 共同体からの個人の自立


ところが、この時代の古典派経済学者たちも、
「自然的制約」というものの存在を強く意識していた、と著者はいう。

いずれにしても古典派の論者たちは、人間の経済活動が根底にもっている「自然的制約」、あるいは自然の有限性という認識を共通してもっていた。そして、以上のような「自然的制約」に関する理解から必然的に導き出されるのが、「経済成長」には“終わり”があるという認識であり、言い換えれば(経済成長の終局点としての)「定常状態」というコンセプトである。(121頁)


この「定常状態」というコンセプトに肯定的な評価を与えたのが、
J・S・ミルだという。

2つめは、経済学において新古典派と呼ばれる時代である。

やがて時代は産業化が本格化する時代となり、すなわち人間の経済活動があたかも「自然的制約」から完全に自由であるかのように展開していく時代を迎える。それは「市場」というものが自然に対する自立性=自己完結性を獲得していく過程そのものであり、同時にそれは経済学から「土地」や「必要(ニード)」といった、人間の自然性に根ざした概念が抜け落ちていく過程でもあったのである。(123頁)


それをまとめると、次のようになる。

【B】産業化(工業化)(18世紀末〜)

・ 産業技術(工業技術)による自然支配
・ 「ニード」から「デマンド」へ
・ 「価値」から「効用」へ(主観性へ)
・ 自然からの人間の自立=自然的制約からの解放


市場が自然的制約から解放されて自立性を獲得したとき、
それに呼応するように理論的枠組みを提供したのが「新古典派」だった。

産業化=工業化ということ、つまりテクノロジーによる自然のコントロール、あるいは自然の過程にほとんど依存しないような生産様式の確立があって初めて、「市場」は自然的制約からの固有の自由を得る。市場という自立的な領域を分析の対象とする、新古典派という現代に続く経済学の流れが他でもなく1870年代という、産業化の確立の時代に生まれたということはもちろん偶然ではない。(124頁)


こうして経済学の関心は、絶対的な「必要」の領域から、
相対的・主観的な「需要」の領域へと移行していくのである。

 こうした結果生まれる経済学の体系は、同時に人間の「主観性」の領域に関心を集中したものとなる。つまり、様々なモノあるいは商品に対する購入意欲ということについて見れば、それは客観的な「必要(need)」ではなく「需要(demand)」に、また商品それ自体が客観的にもつ「価値(value)」ではなくそれによって個人が得られる主観的な「効用(utility)」に一次的な関心を置いた体系となる。(124頁)


A→Bの段階への「発展」を「自立」という視点から捉えなおすとどうなるか?

ここからがわりとおもしろい。

Aの段階とも合わせて考えると次のように整理することも可能であろう。一方でAにおいて、共同体から独立した個人の自由な商業活動というものが展開するようになり、そこに「市場」が成立した。これは「共同体からの個人の独立」である。他方、Bの産業化=工業化ということを通して、テクノロジー(工業技術)による自然的制約からの離陸ということが生じた。これは「自然からの人間の独立」である。以上の二つにより、共同体の拘束からも、かつ、自然の制約からも独立した〈個人〉からなる〈市場(ないし市場経済)〉という自立的な領域が生まれた。(127頁)


近代資本主義システムを通じて、
「共同体からの独立」さらには「自然からの独立」を果たした。

つまり「人間の独立」「人間の自立」のプロセスとして捉えることができる。

こうして多くのひとびとは「資本主義によって人間は自由になった」と錯覚した。

だが、この段階ではじつはまだ「制約」があったのである。

資本主義はそれをも乗り越えようとする。

自然的なものへの依存ということに関して見れば、Bの段階では、人間の経済活動、とりわけそこでの「需要」は、なお物質的なもの(物質・エネルギー)に強く規定されている。ところが産業化が一定以上に進むとともに(これを便宜上「産業化社会・後期」と呼ぶことにしよう)、一定の豊かさが実現し、「消費社会」と呼ばれるような状況になってくると、人々の基礎的な需要は既に満たされているから、たとえば「広告」や「デザイン」等を通じた、差別化された需要の“創造”こそが、経済の駆動要因となる。しかもこうした段階では、人々が「消費」の対象とするものは、物質的なものそれ自体というよりは、そうしたいわば素材ないし基体に乗せられた「意味」や「情報」のほうに大きく比重が移っていく。よく引き合いに出されるような例で言えば、たとえば人がTシャツを買うというとき、そのTシャツの素材そのものの価格はごくわずかなもので、また買う者の主たる関心もそれにあるのではなく、むしろTシャツのデザインや、場合によってはブランドといったことが、消費のあるいは価格の主たる決定因となるのである。これをやや抽象的に言うならば、「消費」ということが、「モノ(物質・エネルギー)の消費」から「情報の消費」へと変容していくということになる。(127−128頁)


ここにおいて資本主義は3つ目の段階に到達する。

【C】消費社会(産業化社会・後期)(20世紀半ば〜)

・ 「供給」より「需要」、「生産」より「消費」が決定的要因に
・ 「貨幣」そのものが取引・投機の対象に(金融市場)
・ 株式会社の浸透
・ 自然からの人間の自立=情報化&マネー化


この時代こそが、いまわたしたちの生きている世界である。

まとめると、一方でモノの消費に対する「情報の消費」が一般化し、人間の需要そして市場経済が自然的制約ないし物質的な基礎から自立すること(ここでは「情報化」という言葉をこうした意味において用いることにしたい)、他方で、株式会社の浸透とパラレルに、投機的な金融市場が一般化し、そこでの貨幣をめぐる需給が経済の究極的な決定要因となること。つまり、「情報化」と「マネー化」という二つのベクトル、しかも両者ともに際立って「主観的」である要因に規定された市場経済とともにあること。そしてこの両者のベクトルがいかなる自然的・共同体的制約からも自由であり、それゆえに「無限」に「拡大、成長」しうるという発想。
 これが私たちの生きている時代の基本的な特質である。(133頁)


いかがだろうか?

このあたりのことについて知識がある程度ないと、
議論についていくのが大変かもしれない。

もうすでに「置いていかれた」と感じているひともいるかもしれない。

これまでの話の流れをまとめてみよう。

18世紀以来の経済システムの進化は、
市場経済の「離陸」の過程という視点で捉えられる。

古典派→新古典派→ケインズの時代という経済学のパラダイムだ。

@ そもそも市場経済というシステムが、共同体からの個人の独立を通じ、また「欲求(私利)の肯定」 という規範の転換を伴いながら成立し、市場はまず“共同体的制約”から「離陸」を開始する。

A 続いて18世紀末以降の産業化=工業化のプロセスを通じて、すなわちテクノロジーによる自然支配を通じて、市場経済は“自然的制約(とりわけ土地)”から「離陸」し、これとパラレルに、「必要(ニード)」の次元から独立した(主観的な)「需要(デマンド)」の領域が開け、需要と供給の相関する場としての(新古典派的な)市場が展開していく。

B さらにケインズの時代(=産業化社会・後期)となると、モノ不足的な状況が終わる中で経済の決定要因が「需要」サイドに移るとともに、その場合の需要は、「情報の消費」ともいうべき、際立って主観的なものへ性格を変えていく。同時にそれは、消費が物質的なもの(物質・エネルギー)から独立していくこと、すなわち市場経済が再び、“自然的制約(物質的・エネルギー)”から「離陸」していくことを意味する。同時に、金融市場が独立した領域となって展開し、貨幣そのものが消費ないし投機の対象となり、強い主観性・不安定性を内包しつつ経済全体の主要な決定因となっていく(情報化&マネー化)。(136−137頁)


ここでもふと思うことがある。

世の中のひとたちは、「バーチャルな世界」を軽蔑する。

だから、インターネットに興じるひとたちに対して彼らは、こう言う。

「あなたたちはバーチャルな世界に没頭し、現実世界から逃避している」


そう非難する。

もちろんそういう面はなくはない。

だが、「バーチャルな世界」と戯れるひとびとを非難していたひとたちは、
しかし他方で「バーチャルな金融資本主義」を非難してこなかった。

そればかりか、世の中のひとたちが「高級ブランド品」によだれをたらすのも、
じつは「バーチャルな世界」での陽気な「たわむれ」なのではないのか?

現在は情報化社会になったとよく言われるが、
そういうことまで含めて情報化社会を捉えなければならない。

わたしたちは「情報」を消費する時代に生きているのである。











テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
広井良典『定常型社会』(岩波新書)B フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる