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zoom RSS 広井良典『定常型社会』(岩波新書)A

<<   作成日時 : 2009/09/05 12:25   >>

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日本はこれまで「福祉国家(大きな政府)」だったことは一度もない。

にもかかわらず、多くのひとは「日本は大きな政府だった」と思い込んでいる。

その誤った思い込みをもとにして、右派は、
「日本は左傾化している」とトンチンカンな錯覚にまどろむことができるのである。

では、これまでの日本の社会保障制度にはどのような特徴があったのか?

そこから見てみよう。

著者によると、日本の社会保障制度の特徴は、3つある。

日本の社会保障の第一の特徴は、その「規模」に関するものであり、端的にいえばその社会保障給付費が多くの先進諸国に比べてなお相当に「低い」水準にある点である。社会保障給付費の対GDP比(93年度)は、スウェーデンが38.5%、フランス27.9%、ドイツ25.3%、イギリス21.2%、アメリカ15.0%に対し日本は11.9%にすぎない。


このことは社会科学系の勉強をしたひとにとっては常識に属する事柄であるが、
世間の多くのひとたちにとっては意外な事実なのかもしれない。

1993年度の時点で、日本はなんとアメリカよりも「低い」のである。

典型的な「小さな政府」のアメリカよりも下であるという事実は、
日本がこれまで「大きな政府」だったことは一度もないことを裏付けている。

 日本の社会保障の第二の特徴は、その「内容」に関するものであり、それは社会保障全体に占める「年金」の比重が先進諸国の中でもっとも大きいこと、また逆に「失業」関連給付と「子ども」関連給付の比重が際立って低いことである(社会保障給付全体に占める年金の割合は、たとえばスウェーデン37.6%に対し日本は51.7%……)。


この「失業」関連給付と「子ども」関連給付の著しい低さ。

これをそのまま放置してきたことが、現在の問題に直結している。

 日本の社会保障の第三の特徴は、その「財源」に関するものであり、社会保険の枠組みの中に相当額の税が部分的に投入された(たとえば基礎年金の3分の1、国民健康保険の2分の1など)、“税と保険の渾然一体性”ともいうべき特徴をもった社会保障制度となっていることである。(32−33頁)


日本は社会保障の面から見る限り、
これまでもずっと「小さな政府」だったことは分かった。

そこで、次の疑問が生じる。

政府という「フォーマルな機関」が社会保障の役割を担ってこなかったのなら、
誰がその代わりを果たしてきたのだろうか?

「インフォーマルな社会保障」として特に重要だったのは、「カイシャ」及び「核家族」という二つのコミュニティであり、前者について言えば、終身雇用制の下、社員のみならずその家族の生活保障を生涯にわたって行うという機能を企業は担ってきた。……日本の社会保障給付は「失業」関連の給付と「子育て」支援関係の給付の比重が国際的に見て非常に小さいという特徴をもっている……。(35頁)


なるほど。

終身雇用制という安定的な雇用制度があったことで、
それがセーフティ・ネットの役割を果たしてきたのだった。

そのおかげで政府は社会保障費をあまり支出せずに済んだというわけか。

先に日本の特徴として「子ども」関連給付が著しく低いことを見た。

「低い」というが、他の先進諸国に比べてどのくらい「低い」のだろうか?

まず、前提として、日本の社会保障の給付構造においては、国際的に見て、「子ども」に対する給付の比重が非常に小さい、という基本的な事実がある。たとえば、年金の水準に対する家族手当(児童手当)の支給水準を国際比較すると、多くのヨーロッパ諸国に比べ、日本の場合その水準が際立って低い状況にある。また児童手当給付費の対GDP比はフランス1.31%、スウェーデン1.03%、ドイツ0.98%、イギリス0.94%に対し日本は0.03%に過ぎない。(38−39頁)


驚くべき数字ではないか。

これまで自民党などの保守系政治家たちは、
選挙のたびに「教育の重要性」「子どもたちの明るい未来」を
繰り返しアピールしてきたというのに、
なんとフランスの約44分の1しか支出していなかったのである。

……現行の社会保障制度は、「カイシャ」と「世帯(先の文脈では(核)家族)」ということを基本的な単位とし、後者(世帯)についてはその働き手(モデルとして男性)を「被保険者」として位置づけ、家族内の他の者――高齢者、妻(女性)、子ども――を「被扶養者」とした上で、制度を組み立ててきたのである。(54−55頁)


政府は、「核家族」を社会の基礎的単位と見なしてきた。

その「核家族」とは、「男が外で仕事をし、女は家事・育児に専念する」という、
いわゆる性別役割分業(性差別!)にもとづくものであった。

じつは、日本の世帯別人口はすでに大きく変化していて、
「4人家族」の世帯は多数派ではとっくになくなっている。

いまもっとも多いのは「1人暮らし」の世帯なのである。

それなのに、保守派は「家族」モデルにいまだにしがみついているのである。

保守派というのは、観念のなかで生きている動物だということがよく分かる。

こうして、伝統型の「被保険者−被扶養者」という構造は、第一に高齢化、第二に子育ての社会化の必要性の増大、第三に女性の社会進出という変化の中で、変更を余儀なくされる。(57頁)


では、これからの社会は、どのような方向を目指すべきなのだろうか?

著者によると、「個人の機会の平等」を保障するものでなければならない、という。

ただしそれは、新自由主義者たちによってよく言われてきた
「機会の平等」論とは異なるものである、という。

なぜなら、「機会の平等」論者はしばしば相続税の軽減・廃止を主張するが、
著者は相続税をさらに強化していくことを主張しているからである。

このような方向、つまり「個人の機会の平等」を実質的に保障するために相続税を強化する(つまり相続を「社会化」する)といった方向を追求していくと、それは限りなく社会主義的なシステムに接近することになる。すなわち、「個人の機会の平等」という、それ自体としては自由主義的な理念の追求が、結果として、“限りなく社会主義に近い資本主義”という姿を要請する、というパラドキシカルな事態となる。(72頁)


しかし、これはある意味で当然の主張であるだろう。

所得格差が大きくなって、それが次の世代に受け継がれていくなら、
「個人の自由」はますます小さなものになっていかざるを得ないからだ。

ここで「機会の平等」と「結果の平等」について整理しよう。

通常、「機会の平等」論と対立する考え方は「結果の平等」論だと言われる。

「機会の平等」論は、スタート地点は「平等」でなければならないが、
結果は不平等であったとしても「公正」であると、と主張する。

そして、「努力の結果」としてあらわれる「格差」は容認されるべきだ、という。

「機会の平等」論は、だから、「小さな政府」論と結びつきやすい。

それに対して、「結果の平等」論は、格差の問題を重視し、
所得再分配政策などによって格差を是正すべきだ、と主張する。

なぜなら、「機会の平等」というのは、現実には存在し得ないフィクションだからだ。

「結果の平等」論は、だから、「大きな政府」論と結びつきやすい。

しかし著者は、「機会の平等」論を突き詰めると、
かえって「結果の平等」的な要素を取り入れざるを得なくなる、と述べる。

だから個人の「機会の平等」ということは、“ほうっておけば自然に”実現するようなものではない。それは相当な社会的対応の結果はじめて実現するものなのだ。(76頁)


では、真の意味での「機会の平等」というのは、どういうことなのか?

それは、それぞれの個人にとって「選択肢」が大きいということである。

この場合、「選択肢」の大小ということは、すなわち「潜在的な自由」の大小と言い換えられるだろう。(78頁)


この「潜在的な自由」を実現するためには、ひとびとが「平等」でなければならない。

「機会の平等」を保障することがすなわち「(潜在的な)自由」の実現となる。この限りにおいて、「自由」と「平等」とは対立するどころかむしろ重なり合う概念となるのである。
 さらに、こうした発想で「自由」と「平等」の意味をとらえなおしていくと、その必然的な帰結として、「社会保障とは、(個人の)自由の実現のためにある制度である」という、新しい認識が生れてることになる(通常、社会保障は「平等」のための制度と考えられているが)。(78頁)


「機会の平等」論は「自由」を重視するのに対して、
「結果の平等」論は「平等」を重視する、とこれまで考えられてきた。

だから、「自由」と「平等」は対立する関係にある、と考えられてきた。

「自由」と「平等」はいわば「トレード・オフの関係」にある、と考えられてきた。

大学生たちが使う教科書の類にも、そのように書かれている。

だが、著者はそうではないと主張するのである。

さらに、各個人がそのライフサイクルの各段階において十分な「潜在的自由」を保障されているということは、私たちが通常いう意味での「自己実現」の機会、あるいはそのための様々な選択肢が均等に与えられている、ということと実質的に同義であろう。だとすれば、「個人のライフサイクルを座標軸とする社会保障」及びそこでの機会の平等=潜在的な自由の保障ということは、「個人の『自己実現』を可能とする制度としての社会保障」というふうに理解することができる。
 究極的には、こうした点にこそ、「そもそも社会保障は何のためにあるのか/どのような価値のために社会保障は存在すべきなのか」という問への解答、つまり社会保障を根拠づける価値原理があると考えられるのではないだろうか。(79頁)


ここにおいて社会は、個人を基礎的単位とする視点をやっと獲得する。

さらに著者は、税制のあり方も大きく転換すべきだと提言している。

「定常型社会」は「環境親和型」でもあるから、
税制はそうした方向性で再考されなければならない。

これまでの税体系は、労働に対する課税が中心であった。

それを変えるために新たに登場するのが、「環境税」である。

「環境税」を社会保障の財源にするというのである。

言い換えれば、現在の税体系では企業がエネルギーや資源生産性(資源効率性)を上げることよりも、労働生産性を上げることに注力するのは無理のないことであり、したがって、こうした税・社会保険料体系を「労働への課税からエネルギー・資源への課税」へと転換していくことで、企業行動を「労働生産性重視から資源効率性重視」へという方向に誘導・転換させてゆく効果をもつことが論じられている。(98頁)


これは国家レベルで行なわれるべき政策となる。

さらに著者は、「地域通貨」の試みにも注目している。

地域レベルでの政策も必要だからだ。

たとえば、それを地域における「貨幣」の新しい形を通じて――言い換えれば、地域の中に新たな「資金循環」のかたちをつくり出すことを通じて――実現しようとしているものとして、イギリスを中心に世界各国に広がっている「LETS(Local Exchange Trading System. 地域経済信託制度)」の試みや、それと同様の発想で日本のいくつかの地域で始まっている「エコマネー」の実践がある。これらの特徴は、そこで使われる貨幣が、(a)交換・決済機能はもつが金融(信用創造)機能はもたないこと(したがってインフレやバブルが原理上起こらないこと)、(b)国家レベルの通過ではなく地域限定の地域通貨であること、等である。(104頁)


さらには、国家や地域のレベルを越えて、グローバルなレベルでの政策も必要になる。

先進国と途上国の格差を是正するための「再分配」の仕組みをつくるのだ。

つまり、「福祉国家」を越えた「福祉世界」の構築である。

ほかにも興味深い論点を著者は取り上げているのだが、
それらについては直接本書を読んでいただきたい。









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